2-10 深い溝
「な、なんで人間がいるのよ!?」
ディーチェの甲高い声は、ひっくり返ってさらに甲高く。マークとユノは、ディーチェの前に座り、こうべを垂れる。
「そ、そのぉ……」
ユノが眉を下げると、ディーチェは「信じられない!」とユノを一喝した。
「えぇっと……こちらの、方は?」
状況が飲み込めないのはマークだ。
朝食の後、ユノのお言葉に甘えて数時間の仮眠をとった。よく寝た、と部屋から出れば、そこにはユノと見知らぬ少女の姿があり――少女にはいきなり叫ばれた上に、明らかな殺意を向けられているのだから。
少女は、マークの問いに答えるつもりはないのか、ふん、と視線を明後日の方へ。
ユノはそんな少女の姿に苦笑を浮かべ、それからこっそりとマークに耳打ちした。
「彼女は、ディーチェちゃんと言って……私と同じ魔女なのですが、その……」
人のことが、少々苦手で。
言いにくそうにユノが濁すと、ディーチェは美しいスカイブルーの瞳をつり上げてユノをにらみつけた。
「苦手じゃなくて、嫌いなのよ!」
目の前にマークがいるのもお構いなしだ。年齢のせいかもしれないが、その歯に衣着せぬ物言いには、さすがのマークも怖気づいてしまう。
「ディーチェちゃん!」
ユノが咎める声も、ディーチェには届いていないようだった。
「どうしてユノのところに人間がいるの!? しかも、お、お……男じゃない!」
不純、不潔、最低、バカ、ノロマ! ディーチェの言葉はどんどんと幼い子供のそれになっていくが、そのどれもがマークの心に突き刺さる。
「マークさんは、ディーチェちゃんが思ってるような人じゃないわ」
ユノがなんとかディーチェに説得を試みるも、彼女は聞く耳を持たない。
「人間なんか、みんな死んでしまえばいいのよ!」
「ディーチェちゃん!!」
ディーチェの叫び声に、ユノは思わず声を上げた。だが、ディーチェの瞳いっぱいにたまった涙を見れば、ユノもそれ以上、彼女を咎めることはできなかった。
「どうして! どうしてユノはその人をかばうの!? ユノは魔女でしょう!? だったら……だったら、アタシの味方をするのが普通じゃない!」
なのに、どうして。
ディーチェは、こらえきれなくなったのか、ボタボタと涙をこぼす。とっさに彼女は腕で涙をぬぐったが、床に落ちた涙のシミはしばらく消えなかった。
「ディーチェちゃん……」
「もういい! 聞きたくない!」
ディーチェは、扉を乱暴に開いた。
それは、先ほどユノが魔法をかけた部屋。せっかくの魔法も、呪文がなければ発動しない。ディーチェは、真っ白な、何もない空間にうずくまった。
バタン! と勢いよく締められた扉の向こうで、グスグスと泣きじゃくる声が聞こえる。
ユノとマークは互いに顔を見合わせたが、今は何を言っても彼女を刺激するだけだ、とドアノブに手をかけることはなかった。
「すみません……マークさん」
頭を下げるユノの表情は、マークよりも深く傷ついていた。そのことが、ディーチェのどんな言葉よりも、マークの胸を締め付ける。
「いえ、いいんです。顔を上げてください」
マークは頭をかき、できる限り穏やかな声と表情で、ユノを励まそうと努めた。
「むしろ、僕の方が非常識でした。魔女が人間を嫌うのは当たり前です。そうじゃなくても、僕は男で、ユノさんは女性だ」
ユノの厚意に甘えていたが、ディーチェの言うとおりだ、とマークは思う。
「ディーチェさんが混乱するのも無理はありませんし……嫌な思いをするのも、すべて僕の責任です」
今度はマークが頭を下げた。
「マークさん……」
「この島は、魔女のための、秘密の楽園です。それを先に侵したのは僕ですから」
マークのへらりとした笑みが、今度はユノの胸を突き刺した。
――魔女と、人間が手を取り合えるような世界を。
そう願ったユノとマークの二人の間には、自分たちだけではどうにもならない深い溝が横たわっている。
そのことに、ユノはこの時初めて気づいたのだった。
「僕は、少し席を外します。僕がいなければ、ディーチェさんも少しは安心して部屋から出られるでしょう」
マークは、ユノの制止も聞かず、玄関扉から逃げるように駆け出していた。
今できる最善だ、とわかっていても、砂浜を走るマークの体中を悔しさが駆け巡る。
魔女と人をつなぐような、そんな物語を書きたい。そう決心したのに。
ディーチェの言葉に、何一つとして反論できなかった。それどころか、魔女が人を嫌うのは当たり前だ、と諦めてしまった。
マークは、くそ、と普段めったに使わない言葉を口にして、ただひたすらに走る。
一人になれる場所が欲しかった。
気づけばその足は、昨日ユノと夕焼けを見た丘のてっぺんへと向かっていて、マークは乱れた呼吸を気にも留めず、山道を登った。
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マークのいなくなったとびら屋。
そこに取り残されたユノは、落ち込んでいる暇はない、と自らを無理やり鼓舞した。
ユノは、ディーチェが泣きつかれた時に、そして、マークが戻ってきたときのために、と二階へ戻ってあたたかいお茶を用意する。
ふわりと漂う紅茶の香り。ティーカップに現れる柔らかなオレンジの小さな湖。
それが、ユノの心も少しばかり落ち着かせた。
「どうしたら……」
しばらくは何を言っても、ディーチェにはただの言い訳に聞こえてしまうだろう。それに、ユノとしても、マークとの生活を改めるつもりもない。平行線をたどるだけだ。
「せめて、マークさんのことだけでも……」
ユノは、マークのように魔女を尊敬してくれる人だっているのだということを、ディーチェには伝えたかった。
ディーチェが人を憎む気持ちは理解できる。だが、憎むだけでは何の解決にもならない。
ユノは、湯気のあがるティーカップを机の上に置き、
「そうだ」
と声を上げた。
机の上に置かれた原稿用紙。マークの丁寧な文字が並び、そこから紡ぎだされる数々の物語にユノは手を伸ばす。
「これなら」
ディーチェも、少しはマークのことを――人のことを、認められるようになるのではないだろうか。
――この間、たまたま借りた本に書いてあった。
ディーチェは確かにそう言った。人嫌いなディーチェでも、人が書いた物語には心をときめかせていたのである。
魔女協会は、大聖堂とつながっているおかげか多くの本を所有していたが、それもここ最近の言論統制でずいぶんと数を減らされていると聞く。
魔女は外に出ることもままならず、本やラジオといった娯楽が癒しで、それはディーチェも同じだ。
「マークさんのお話を読んでもらえば……」
ユノは、ティーカップを二つ載せたトレーと一緒に、原稿用紙を脇に抱えて、一階へと戻るのだった。
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ディーチェのすすり泣く声はやんでいた。どうやら、少しの間でも一人になったことで、落ち着きを取り戻したのだろう。
ユノは、そっとローテーブルの上にティーカップと、原稿用紙を並べる。
無理に扉を開けてはいけない。ディーチェが自らの手で扉を開けるまで、ユノは待っていようと決めた。
その間、ユノは入れたばかりの紅茶に口をつけて、マークの書いた物語を読み返す。こうしていれば、一時間でも、一日でも、一年でも……ディーチェをここで待っていられる気さえするから不思議だ。
そうして、どれほど時間が経っただろうか。
カチャン、と静かな扉の開く音がして、ユノは顔を上げる。
鮮やかな青い扉の向こうから、ユノが待っていた大切な親友――ディーチェの美しいブロンドの髪と、スカイブルーの瞳が見えた。