10-4 新しい世界
マークさん、と穏やかな声に呼ばれて顔を上げる。
夜空色の濃紺と、夕焼けの朱色がマークの視界に飛び込んできて、あんなにこらえていたはずの涙はあっけなく零れ落ちた。
同時に、彼女の夜空色の瞳からも、流れ星が白磁の肌をかけていく。
二人の頬を伝ったそれは、砂浜の熱に溶けて消えた。
ユノは、ゆっくりと目を細めた。細めた反動でこぼれた涙をぬぐい、文句のつけようもないほどの、満面の笑みを見せる。
「ようこそ、とびら屋へ」
いつか聞いたそのセリフが、波の音に混ざり、二人の距離を、空白を、埋めるようにマークの耳に心地よく響く。
ユノが走った後方に砂粒が舞い、キラキラと陽に反射した。
ひるがえったのは、いつかの紫のローブではなく、鮮やかな赤いワンピース。それがまた、南国の景色によく映えた。
マークがなかなか一歩を踏み出せずにいると、少し遅れて上陸したトーマスがエリックに目くばせを一つ。直後、エリックとトーマスの二人が軽くマークの背を押した。
魔女は短命だ。
抱きしめられるうちに、彼女を抱きしめておくべきだ。
そんな声が聞こえた気がした。
駆け寄るユノに、マークもようやく足を踏み出す。一歩目はあれほど緊張したのに、いざ踏み出してしまえば、その後は、二歩、三歩と自然に足が前へ出た。
少しずつ、二人の間にある距離が埋まっていく。
マークは、もう互いに手が届く、という距離で両手を大きく広げた。
「ユノさん!」
彼女の名前を呼ぶと同時に、ユノの華奢な体を抱き止めるようにして、ぎゅっと彼女の背に手を回す。
「お会い、したかったです……」
止めたはずの涙と共にこぼれる嗚咽に、腕の中でユノはくすぐったそうに笑った。
「すみません。突然、理由も言わずに」
ユノにしては珍しく、マークに心配をかける行為を選択したのだ。どれほどそれがマークを苦しめていたか、ユノだって自覚している。
それは、ユノのわがまま。等価交換ではなく、一人の少女としての決断。
マークを幸せにしたいと思う、その一心で。
ユノは、最後の魔女裁判が終わった後、アリー達が――ユノの手をずっと引いてくれていた魔女たちが、いなくなることを悟った。
そして、自らの命もまた、アリー達同様に長くないのであろうと気づいた。
もちろん、明日、明後日という話ではないものの、マークと同じ時間を歩めるわけではないだろう。
その時、ユノの頭によぎったのは、マークのこと。
自分がいなくなってしまっても、彼が笑っていられますように。
そんなささやかな祈りが、胸いっぱいに自然と広がったのだ。
アリーが多くの魔女に希望を与え、ジュリやメイが、エリックやトーマスに思い出を残したように、自分自身もマークに何か恩返しをしたかった。
マークの、残りの長い人生を笑顔にすることと、会えない短期間を犠牲にすることであれば、どちらを選択すべきか悩むまでもない。
もちろん、理由を話すことも最初は考えたが――どうせなら、サプライズにしようという魔女たちの提案もあって、ユノは心を鬼にした。
もっとも、あまり心配させてはいけないと、その準備は急ピッチで進めたつもりだが。
マークに、大した理由も告げず、急ぐようにロンドを発ったのは全てこのため。
「マークさんに見せたいものがあるんです」
ユノは、少しだけ背伸びをして、自分より頭一つほど高い彼の耳元にささやく。まるで、子供が内緒話をするみたいに。
マークはそっとユノから離れると、驚いたようにその目を見開いた。
「見せたいもの?」
何も想像がつかない。けれど、なぜかワクワクする。
マークの瞳には好奇心がありありと宿っていて、ユノもつられて目を輝かせた。
きっと、喜んでもらえるに違いない。
ユノは、確信している。
いや、むしろ喜んでもらわなければ意味がない。そのために、たくさんの準備をして、色々な人には迷惑を、マークには心配をかけたのだから。
ユノはマークから離れて、照れくさそうにはにかむと、くるりと身をひるがえした。
二度目の抱擁。勢いあまって交わしたそれも、冷静になれば恥ずかしいもので、顔が真っ赤になるのを悟られぬように背を向ける。
「ついてきてください」
とびら屋へと向かって歩き出したユノの背中を、マーク達は追いかける。
エリックとトーマスも、ユノが見せたいものについて、その言葉こそ聞かされているが、実際にどんなものかは想像がついていなかった。
ユノの魔法を考えれば、とびきり素敵なとびらであることは間違いないが。
少しずつ、とびら屋が大きくなってくる。
真っ白な壁も、真っ青な扉も、明後日の方を向いてしまったマゼンタの花も、マークに笑みを与えた。
また、ここに戻ってこれた――
マークは言いようのない安堵に大きく深呼吸をして、あたたかな南風の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
ユノは扉を開けて、全員をとびら屋へと案内する。
「遅い」
「待ちくたびれたわよ!」
入った先、またも懐かしい声に、マークは苦笑する。
いくら水上機といえど、テレポートにはかなわない。
美しいブロンドのツインテールを揺らしたディーチェと、切りそろえた紺色のショートヘアからマーク達を見つめるシエテ。二人は、ティーカップ片手にすっかりくつろいでいる。ディーチェの手元には美しいスカイブルーの本がおかれており、マークがそれに気づくと、彼女は慌ててその本を脇へと避けた。
二人と共に暮らしているはずのトーマスも、まさかここにきているとは思ってもいなかったのか、苦労人の笑みを浮かべた。
「今日は、一日家にいると言っていたのでは?」
「そうだったかしら」
「知らんな」
二人は顔を見合わせて、ティーカップに口をつける。ツンと澄ました表情だが、その口角はかすかに上がっていて、二人ともトーマスを出し抜けたことには嬉しさを感じているようだった。
エリックと彼の部下も、想像していなかった魔女の姿に肩をすくめる。
「まったく、これでもとばした方なんですがね」
「ふん。まだまだだな」
どこか誇らしげにシエテが笑う。
「紅茶が冷めてしまった」
そんな風に冗談を付け加えるほどには、シエテも人々を認められるようになってきたらしかった。
魔女たちとの予期せぬ再会を楽しみ、マークは「それで」と本題を切り出す。
「見せたいものっていうのは」
まさか、目の前の魔女たちのことを指しているわけではなさそうだ。もちろん、彼女たちとの再会は嬉しかったが、ロンドにいる二人とは、会おうと思えば会えるのだし、ユノがこの島に戻る理由にはなっていない。
マークの言葉に反応したのはディーチェで
「そうよ! 早く見たいのに、ユノったら、あんたが来るまではダメって言うのよ!」
とマークの方をきっと睨みつけた。だからこそ、マーク達の到着を待ちくたびれていたのだろう。
それでも、本と同じスカイブルーの透き通った瞳がキラキラと輝いているのは、ようやくユノのいう『見せたいもの』を見られるからだ。
「まだ、お二人も見ていないんですか?」
エリックの問いに二人がうなずくと、皆の視線が一斉にユノへと集まった。
一体どんなものを見せてくれるのだろう。
全員がユノの魔法に思いを馳せ、瞳に期待の色を浮かべる。
ユノは、その視線をあたたかな笑みで受け止めると、一番左の扉の前まで歩いていった。
以前、マークが少しの間住んでいた部屋だ。
コホン、と一つ咳払いをして、青い扉の前でユノはゆっくりと頭を下げる。
「それでは、皆様にお見せしたいと思います!」
準備はいいですか、と問われ、マーク達は顔を見合わせた。
周囲の視線に促されるままに、マークはおずおずとユノの隣へと足を進める。
マークがそのドアノブをそっと握れば、誰が言うでもなく、自然と声が重なる。
「「オープンセサミ!」」
魔法の呪文を唱えれば、新しい物語の一ページが開かれるような、そんな美しい音が秘密の楽園いっぱいに響きわたった。




