9-10 良いニュースと
ノックの音で、マークは現実へと引き戻される。
「調子はどうだ。少し、休んだ方がいい」
社長が紅茶を持って現れ、強制的にマークの筆を止めさせる。原稿用紙を脇へと寄せて、マークも社長の来訪を快く受け入れた。
マークのおかげで新聞社は潤沢だから、と社長が部屋を譲ってくれたのは先日のこと。
社長の言うことも一理あるとは思うが、マークにはやはり少し落ち着かない。現に、マークの前に置かれた革張りのソファは、主は社長だと言わんばかりにギシ、と音を立てる。
「ありがとうございます」
マークが素直に礼を言えば、社長はそっとまなじりを下げた。
社長には散々迷惑をかけたのだから、これ以上心配をかけさせるようなことはしたくない。何より、ユノのことを考えていても、一向に原稿は進まない。進まないだけでなく、どうにもやるせない気持ちで満たされてしまうのだから、余計にタチが悪い。
「何か、ありましたか?」
まさか様子を見に来ただけではあるまい。社長だって忙しいはずだ。マークが尋ねれば、社長はうなずいた。
「良い知らせと、良い知らせがある」
普通は、良い知らせと悪い知らせの二択ではなかろうか。
マークが思わず社長の言葉に口角を上げれば、社長も照れ臭そうに目じりのしわを深める。
気を使われてしまったな、と思うものの、それを顔に出すのもまた恩着せがましいような気がして、マークはティーカップに口をつけた。
「では、一つ目の良い知らせというのを聞かせてください」
「新聞社の改装をしようと思う」
社長はマークの反応を伺うように告げる。やがて、マークの柔らかなフォレストグリーンが見開かれる様を、愉快そうに見つめた。
「まぁ、この建物も随分と古くなっているしな。ビルごと買い取って、まるまる改装だ」
やることなすこと、大胆不敵。以前の社長からは、とても想像がつかない。
だが、面白そうだ。ビルごと買い取るということは、部屋が増えるということでもある。マークが社長室を占領する必要もない。地方の新聞社にしては贅沢な話かもしれないが……郊外ゆえ、値が張る建物でもないのだろう。
「それから、もう一つ」
社長は、もったいぶるようにそこで言葉を切ってティーカップを口に運んだ。
新聞社の改装に伴って行われることだろうか、とマークは作家として、話の続きを想像する。
例えば、新聞を印刷してくれている会社を一緒にしてしまうとか。いや、それではあまりにもありきたりすぎるだろうか。
新聞の担当を分けるとかはどうだろう。最近の流行りだし、政治部やスポーツ部などがあるのは少し憧れる。
それから……。
マークが未来への妄想を膨らませれば、ようやくティーカップを置いた社長がメガネの奥に潜むブルーの瞳をキラキラと輝かせた。
マークの想像よりもはるかに素晴らしい出来事のようだ。
「二つ目の良いことって、何なのですか?」
急かすようにマークが尋ねると、社長はわざとらしく咳ばらいを二つして、メガネをくいと押し上げた。
「アルの出版社と、知り合いの印刷所を、このビルに移転する」
子供がクリスマスプレゼントを開封しているときの、親の表情というのはきっと、こういうものなのだろう。
どこか誇らしげで、嬉しそうで、子供のような無邪気さがほんの少しだけ混ざったような。
マークが驚きのあまり言葉を失っていると、社長はだんだんとその眉を下げていく。すぐにでも喜んでくれると思っていたのかもしれない。
だが、あまりにも予想外の良いニュースを突きつけられて、マークの思考は完全に止まってしまっていた。
「あ、あぁ! アルというのは、テニスンのことだ。ほら、知っているだろう?」
伝わらなかったのか、と社長は大きな手ぶりで説明する。コッツウォールの、あの、と続く言葉は新聞記者にはあるまじき語彙。
「そ、その……驚きすぎてしまって。すみません」
マークがようやく頭を下げれば、社長の口からは大きな安堵のため息が吐き出された。
「でも、どうして急に……」
「以前、アルから人を寄こせと電話がかかってきただろう? あの後、彼と何度か話をしてね。どうせなら、みんなでやらないかと誘ったんだ」
コッツウォールのことを、あんなにも気に入っていたようだったのに。マークが何の心情の変化か、と驚いていると、社長もそれに気づいたのかにんまりと口角を上げる。
「今回の出来事で、コッツウォールを守る必要がなくなったからだろうな。彼らは、土地に根付いて生きている。伝統と歴史を守るために」
そういう守り方もある、と社長は付け加えた上で、だが、とマークを見つめた。
「おそらく、君に世界を変えられたんだろう」
この言い回しには、マークもいささか首をかしげる。どういう意味か、と考えれば、答えは簡単に導き出せるが、どうしてそうなったのか、については全く想像がつかない。
「僕が、テニスンさんの……?」
「アルだけじゃないさ。私も君に世界を変えられた一人だし……国民の多くも、きっとそうだ」
社長は、当然だろう、と肩をすくめた。
「とにかく、アル……テニスンがここへ来るんだ」
「出版も、印刷も、ここでできるということですよね?」
「あぁ。私にできることはそれくらいだが……気に入ってくれるかな」
「もちろんです!」
社長として出来ることはこれくらいだ、と一度は諦めていたような社長は、いつかの輝きを取り戻していた。
- ・・・・ ・ -・
それからというもの、相変わらずユノからの音沙汰はないまま、数週間が過ぎ――新聞社の改装工事も始まった。
テニスン達もロンドへと移り住んだが、再会早々に「お嬢さんがおらんじゃないか」と悲しまれてしまった。
驚いたのは、入り口につけられていた、左回りの時計を外すことになった時のこと。
時計を外すと、その裏側から美しい真っ黒な石がカツン、と音を立てて落ちた。それと同時に、今まで一分とて狂うことなく動いていた時計の針がぴたりと動かなくなったのだ。
石をはめ直してみても、時計が動く気配はない。
まるで、ここからは、魔女と人とが同じ時間を歩んでいけばいい、とでも言うように。
社長は、時計と共にその石をどこか愛おしそうに見つめた。
社長の祖母、エマは魔女で……美しい黒髪と黒の瞳を持っていたという。もしかしたら、この石は、彼女が残した最後の魔法なのかもしれなかった。
それから、テニスンが、その石を見つめて何かを思い出したように呟いたのは、数瞬の余韻を楽しんだ後のこと。
「そういえば、エマさんの墓の隣に、新しく墓が出来ておった」
一体何の話だろうか。マークと社長が顔を見合わせて互いに首をひねると、テニスンは
「その墓にも、美しい石が……ちょうど同じくらいの、色は違うがな。真逆の、ダイヤのような石が埋まっておったな、と思ってな」
話のタネくらいにはなるだろう、とマークに目を向ける。
マークの頭によぎったのは、アリーのこと。
「コッツウォールに、魔女が来ませんでしたか!? 美しい、ダイヤの瞳を持った」
マークがテニスンに詰めよれば、テニスンは
「わ、わからん。じゃが、誰かに聞けば知っておるかも……」
と人が変わったように慌てる青年にしどろもどろで答える。
「僕、コッツウォールへ行ってきます!」
魔女は、不思議な力を持つがゆえに短命。
力の正体はいまだ解明されておらず、その多くは謎に包まれている。
魔女は、魔法を使えば使うほど、寿命が縮まっていく。そう推測したメイは、余命いくばくかという状況だった。
――アリーと、ジュリは、メイと同じ病院に生まれ、同じ時間を過ごしたと言っていたのではなかったか。
マークが駆け込んだコッツウォールへと向かう鉄道。
そこで、マークは見知った顔を二つも見つけ……そして、その表情から瞬時に、二人が同じ目的で乗車していることに気付いたのだった。
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございます。
最後の戦い、そして国を変えることとなった第九章、お楽しみいただけましたでしょうか?
このお話も、残すところ後少しとなりました。
最後は、イングレスに住む魔女と、そしてマーク達のこれからをお届けします*
ラストまでお付き合いいただけましたら幸いです。
皆さま、本当にありがとうございます!




