2-8 マジックアワー
海風が砂浜を運ぶ。砂粒は陽に反射して、チラチラと光り輝いた。
マークの前を歩くユノは、足元へと寄せる渚を蹴り上げる。水しぶきはサンキャッチャーのよう。ユノの羽織っているバイオレットのローブは、彼女の動きに合わせてはためいた。
「魔女、か……」
普通の少女に見える彼女の後ろ姿を、マークは忘れないだろう。
「マークさん! ここが森の入り口です!」
ユノは、後ろを振り返ってマークに手を振った。もう片方の手で彼女が示したそこは、ちょうど人一人が通れそうな道幅に切り開かれている。
マークは、先を行くユノに続いて、足元に生えた植物を踏み分けた。
森へと続く道は、木漏れ日に照らされている。
緩やかな上り坂になっているが一本道だ。これなら迷うこともない。マークが想像していたより、足元の状態も悪くなかった。
海を渡り、丘をかけるようにして吹く風が、マークたちの頬を撫でる。潮と緑の混ざった香りが、マークには新鮮だった。
「実は僕、山登りなんて初めてで」
「そうでしたか!」
「こんなに気持ちがいいものなんですね」
目に映るのは様々なグリーン。聞こえてくるのは、鳥の歌声と風の音。余計なものは何もなく、自然と心が安らぐ。
ロンドの街は平地が多く、山と呼べるような場所はほとんどない。
きっと、戻ったらこの山の空気が恋しくなるに違いない、とマークは海辺よりもひやりとした空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
頂上までの道中。明らかに人の手が入ったと思われる石段が現れ、ユノは足を止めた。
「休憩にしましょうか」
そのころには、マークの額にはうっすらと汗がにじんでいた。やはり、運動不足が、とマークは階段に腰を下ろす。
「この階段もユノさんが?」
「いえ。実はこの道も、この階段も、私が島へ来たときにはもうあったもので」
ユノは、ボトルから飲み水をコップへ移し替えて、マークへと差し出した。
「この島は、代々魔女の住処になっているそうですから、私より前に住んでいらっしゃった方が開拓したのかもしれません」
空になったグラスをユノに手渡し、マークは石段に触れる。ひやりとした温度と、雨風によって作られた凹凸が心地よかった。
「魔女の秘密の楽園、ですね」
ユノはうなずいてから「そういえば」と思い出したように口を開く。
「最初の魔女はこの島で生まれた。そう言われているそうですよ」
ユノはボトルとグラスをカバンにしまい込むと、行きましょうか、と立ち上がった。
「最初の魔女って、どんな人なんですか?」
道幅が少し広がったからか、先ほどまで前を歩いていたユノも、今はマークの隣を歩いている。
頭一つほど小さい彼女は、マークを上目遣いで見上げた。
「あくまでも魔女同士での噂ですけど……世界を作った女性、と言われています」
「世界を作った女性?」
それはまた大層な話だ。マークはついつい、その話に引き込まれてしまう。
「最初の魔女は、様々な魔法を使うことができたそうです。水を生み、大地を作り、植物を育て、たくさんの命を生みました。やがて、魔女は自らが魔法で作り出した男性と結婚し、子を成して……そうして、人々が増えていった、と聞いています」
その話は、神話のように壮大で面白かった。
「人々が増えていくと同時に、最初の魔女が持っていた魔法の力は小さな力に分けられ、子孫に受け継がれていきました」
「それじゃぁ、魔法が不便だ、というのは……」
「それが原因なんじゃないかって、魔女たちの間では言われています。元々一つだった大きな力を、何千、何万と分けているからだ、と」
誰にも真実はわかりませんが、とユノは微笑んだ。
「本当は、すべての人の中に魔法の力が眠っているはずなんです。それが、大きいか、小さいか。本人が気づくか、気づかないか。それだけのことで」
ユノはそこまで言い切って、マークの方へと視線を向ける。美しい夜空色の瞳が、木漏れ日を受けてまぶしい。
「マークさんの、お話を書く力だって、きっと」
「ユノさんといると、僕はドキドキするばかりです……」
「え!?」
マークが歩みを止めてため息をつけば、ユノは驚いたようにマークを振り返る。
「やっぱり、ユノさんは立派な魔女ですね」
無自覚で人をたらしこむ、正真正銘の魔女。
マークがふっと笑みを浮かべれば、ユノはますます困惑したように
「それって褒めてますか!?」
とマークに詰め寄る。マークは、あきれた笑いをこぼすばかりで、ユノの質問には答えなかった。
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他愛もない会話をいくつか交わしているうちに、二人は目的地へとたどり着いた。
「ここが……」
マークの柔らかなカーキの癖毛は、丘を越えていく風にさらわれてなびく。
「いいところでしょう」
ユノは体をめいっぱい伸ばして、目の前に広がる美しい景色を見つめた。
いつもは目の前に広がっている海も、今は眼下に。
いつもは見上げている空が、ずいぶんと近くに。
ユノの魔法で見たばかりだが、ここには波の音があり、横を通り過ぎていく風も、鳥の声も、肌を刺すように輝く太陽の熱も感じられた。
空と海がどこまでも続くその場所は、まるで世界の果てのようにも思える。
「すごいですね……」
マークの感嘆の声に、ユノは満足げな笑みを浮かべる。
「もう少し待つと、もっとすごいですよ」
「夕暮れ、ですか?」
「はい!」
太陽がゆっくりと傾いていく様子が、水平線のおかげかよくわかる。
「ロンドの街にいたときは、気づいたら外が真っ暗、なんてことばかりだったのに」
マークの独り言に、ユノは苦笑した。
「その分、今日はたくさん見ていただかないといけませんね」
空気を揺らしながら、太陽が徐々に海へと沈んでいく。
深いブルーの海も、この瞬間ばかりはマリーゴールドのような鮮やかな色へ。やがて茜色へ。さらには柔らかなバイオレットカラーへと変化していく。
「……マジックアワー」
「え?」
隣で呟いたユノに、マークは視線を向けた。
美しい夕暮れの一瞬が、ユノの瞳をまばゆく照らしていく。
「魔法のように美しい時間。夕暮れ時のことを、そう呼ぶんだそうです。……今のイングレスでは、この言葉を使うことも出来ませんが」
その言葉は、マークの胸をぎゅっとつかんで離さない。
「もうすぐですよ」
マジックアワーには、まだ続きがあるようだった。もう十分に美しいのに、とマークは視線を海の方へと向ける。
先ほどまで、あんなにも黄金に溶けていた海は、濃紺へと色を変えていく。
刻一刻と変化していく世界の色が、ユノとマークの二人を包む。
「この時間、この瞬間が、一番好きなんです」
ユノは、風で舞い上がる自らの髪を、優しくすくい取る。その隙間から覗く瞳は、夜空のように穏やかだった。
日が沈み、一瞬にしてとばりが下りる空。
海は、そんな空を写し取ったかのように、深く、深く、どこまでも光を吸い込んでいく。
空と海の境目がなくなり、ユノの瞳と髪色が世界に溶けていく。
――これから先、一生とけることのない魔法にかけられた。
マークは思う。たとえ、ロンドに戻っても、今まで通りの日常生活に戻ることはできないだろう、と。
昼間よりも濃い空の青。
海との隙間に見える水平線が、その瞬間だけはゴールドに。
水平線を照らす残光がふっと消えた瞬間――風に吹かれて、ユノの羽織っていたバイオレットのローブがふわりと舞い上がる。
――魔法。
マークはその瞬間、その言葉の本当の意味を理解したような気がした。
気づけば、空を流れる雲は落ち着きを取り戻し、海を踊る波は静かに凪いでいる。
「ふふ、すごいでしょう?」
この世界のすべてを閉じ込めた宝石の瞳。そこには今、一番星が輝いていた。