2-7 奇妙な二人暮らし
ユノとマークの奇妙な二人暮らしは、存外悪いものではなかった。
ユノの作る料理は美味かったし、マークが来たことで、ユノも力仕事や家事が楽になった。
ユノが『とびら屋』を営んでいるおかげで部屋も余裕があったし、お互いにパーソナルスペースを確保することもできた。
何より、マークにとっては、この島の景観全てが素晴らしく、ユノの魔法はさらに素晴らしかった。
インスピレーションばかりがわいて、アイデアを書き留める手が追い付かないことがもっぱらの悩みである。
そして、ユノにとっても、マークの物語が毎日の楽しみとなった。セリフや文字を全て覚えてしまうくらいに読み返したお気に入りの本を開く回数は減り、代わりに、マークが原稿用紙を一枚、また一枚とユノに届けてくれる時間ばかりを気にするようになった。
「マークさん、ご飯ですよ」
昼時。ユノがマークの部屋をノックすると、マークが原稿用紙を一枚ユノの方へ差し出して笑う。
「昨日の続きです」
「それじゃあ、お昼ご飯の後には新しいとびらを」
こんなやり取りだって、随分と板についてきた。
昼食を終えて、ユノは部屋全体に魔法をかける。扉を開けてからの楽しみにとっておきたいマークは、ユノが魔法をかけている間に食器を洗う。
そんな役割分担でさえ当たり前のように感じられるほど、二人はこの生活に慣れていた。
ユノの魔法は不思議だ。
彼女が両手を握り、目を閉じた数秒後から、部屋の様相が、彼女の足元からだんだんと景色が広がっていくのである。
それは、さながら原稿用紙の上にインクを落とした時のよう。じわり、と広がってやがて白紙が染まっていくように、ユノは何もない部屋を世界で染めていくのだ。
最後に、扉を閉めて完成。
この扉は、魔法の呪文でしか開かない。正しくは、魔法の呪文を唱えなければ、ユノの世界が開かれない、という具合である。
試しに一度、呪文を唱えずに扉を開いたことがあったが……その時のがっかり感といったらなかった。
何もない空間。ただの四角い、白い部屋が広がっていただけなのだ。
「不思議でしょう?」
ユノはクスクスと笑っていたが、マークはこの時、本当に魔法とは不便なものだ、と実感した。
「感触もそのままですし、物が置いてあると、それにぶつかってしまうんですよ」
見た目は水面そのものなのに、感触はカーペットのフカフカとした繊維だった、ということはすでに初日で体験している。歩いているうちに壁にぶつかってしまう、なんてことも、もちろんここ数日で体験済みだ。
色々と試してみたりもしたが……マークにとっては、扉を開けるドキドキ感もあってか、何も知らない状態でその部屋を楽しむことが一番まっとうだということが分かった。
科学者ならば、魔法を科学的に分析したい、と思うのかもしれないが、あいにくとマークは作家である。
夢を見る生き物であり、夢を描く生き物なのだ。
無理にその夢を自ら壊す必要はなかった。
ガコン、と昇降機が到着した音にマークは振り返る。
どうやら、ユノの準備が出来たようだ。
「もうすっかり、昇降機にも慣れましたね」
自らの隣に並んでレバーを引くマークに、ユノはクスクスと肩を揺らす。
「今でも、本当はちょっとドキドキしてるんですよ。でも、毎回はしゃぐのも少し恥ずかしくて……」
素直なマークの返事に、ユノはこらえきれなかったのか声を上げて笑った。
ユノが魔法をかけたのは、昇降機を降りてすぐの扉。マークが間借りしている部屋である。
小さなローテーブルと、カーペット、それに毛布と枕が置かれただけの部屋だが、マークには十分だった。
ユノはとびら屋としてのこだわりがあるのか、物が置かれていない部屋に魔法をかけることを望んだが、マークが首を縦に振らなかった。
マークが、アイデアを書き留めるにはこの方法が一番だ、と作家としてのこだわりを貫いたからだ。
原稿用紙と万年筆が置かれた自らの部屋に魔法をかけてほしい、とマークはユノを説得した。
「こんなにアイデアが浮かんで物語を書く手が追い付かないなんて、贅沢な悩みですね。今までの僕には考えられません」
マークは苦笑する。
以前のマークは、新しいアイデアを出すのが苦手だった。突拍子もないようなアイデアは特に。どこかで使い古されたような設定ばかりが浮かんで、使い物にならない、と何度も原稿用紙を丸めていたタイプである。
「たくさんマークさんのお話が読めて嬉しいです」
ユノは満足そうに目を細め、はやく扉を開けて欲しいのか……それとも単に新しい話が読みたいのか、マークをせかすように
「さ、扉を開けてください!」
とマークの背中を押した。
マークはドアノブに手をかける。
この瞬間、いつだってマークの胸は高鳴った。
子供が、クリスマスプレゼントの包みをほどくみたいに。
「オープンセサミ」
カチャン、とドアノブが回り、マークはゆっくりと扉を開いた。
「う、わぁ……」
マークの目の前に広がるのは、夕暮れに染まる空。それから、ハチミツを溶かし込んだような黄金色の海。
足元には、柔らかな緑が生い茂っている。芝は遠く、眼下へと緩やかな斜面を描いていた。新緑の美しい丘に伸びた濃いモスグリーンは、この島に生えている木々だろうか。
これまた随分と高い場所に来たな、とマークは景色を見下ろした。
「この島で、私が一番お気に入りの場所です」
ユノは今にも海に沈んでいきそうな、べっ甲とも琥珀ともつかぬ太陽を見つめる。
雲は橙や朱、淡い紫へとその色を変えていく。空は、ユノの髪色と同じ色で染まっていた。
「家の裏が森になっているでしょう? 小高い丘になっているんですが、実は頂上まで続く道があるんです」
「それは知らなかったです」
「けもの道みたいなものですけど。秘密の道です」
「この島は、秘密がたくさんありますね」
島に来てから、マークも海の方へは何度も足を運んでいる。だが、森の方へはまだ行っていなかった。
こんなに素敵な場所があるなら、森の方へも行ってみなければ。
マークはたっぷりと深呼吸をした。
音も、匂いも、感触もないが、ユノの魔法はそれくらい、その場所に立っている気分にさせる。
ユノも満足そうに目を細めた。
「頂上から、夕方この景色を見るのが好きなんです」
高いところから、美しい島を一望する。なんて贅沢な時間なのだろう。考えただけで胸が高鳴る。
「ユノさんが良ければ、今日、この場所を案内してくれませんか?」
「もちろんです!」
まさか、マークからそんな風に言ってもらえるとは思わず、ユノはつい食い気味にうなずいた。
ユノが大切にしてきたこの島を、マークが気に入ってくれたことが嬉しかった。
マークもまた、ロンドの街では決して見ることの出来なかった景色に、新たな物語のアイデアが浮かんでいく。
「夕暮れにしか会えない二人……」
慌ててマークは海の方へ――部屋の一角、ローテーブルが置かれた場所へと足を進める。
「いてっ」
足の小指がローテーブルの脚にぶつかり、マークは声を上げた。必要な代価だ、と思うが、ユノはそんなマークに駆け寄って苦笑した。
「急がなくても、言っていただければ魔法はすぐにとけるんですから」
「い、いえ……その、これはなんていうか……」
マークは何度か視線をさまよわせ、
「癖、みたいなもので。万年筆を探してしまうといいますか……」
と正直に白状した。ユノは「困った癖ですね」と笑う。マークも、それは重々承知している。
この病は重篤だ。死んでも――正確には、死んだと思っていても――この癖は治らなかったのだから。
ユノが魔法を解くと、マークはテーブルの上に転がっていた万年筆を握り、その感触をしっかりと確かめて原稿用紙に文字を書き出していく。
――魔法みたい。
ユノは、原稿用紙の上を、踊るように美しく滑っていく万年筆を見つめた。インクの染みが文字になり、それが先ほどまで自分が作り出していた情景になり、やがて、マークの手によって新たな物語となる。
その瞬間が、ユノにとってはたまらなく愛おしかった。