2-6 涙の誓い
「十五の誕生日、孤児院の院長は、僕に勤め先を斡旋してくださいました」
「もしかして、作家のお仕事ですか?!」
ユノのキラキラとした瞳に、マークは思わず苦笑する。
「いえ、新聞社です。今も……といっても、ここに来るまでのことですが、ずっと新聞社で働いてきました」
マークの新聞社での十年間は、それは忙しい日々だった。
新聞社の社長は、マークを新聞配達員として雇った。孤児院で育った子供はしばしば文字の読み書きが苦手だと思われてきたためだ。だが、マークは文句も言わず、懸命に働いた。早朝から深夜まで、毎日休まずロンドの街中に新聞を配り続けた。
新聞社の仕事は決して楽なものではない。常に人手不足だった。言論統制がしかれている今、特に記事の推敲業務はひっ迫していた。一言でも間違えようものなら、死刑にされてしまう可能性がある。神経質にならざるを得なかった。
社長は、マークが文字の読み書きができると知ると、マークに推敲を頼むようになった。
やがて、社長はそんな業務の中で、マークの意外な才能を発見することになる。
大量の本を読み、そして自ら物語を考えてきたマークには、まさに天職のような仕事。推敲をさせれば、本職の人間と遜色なく記事を形にしたのだった。
「そろそろ一つくらい記事を書いてみるかい」
マークが新聞社に五年ほど勤めた日のこと。社長は、推敲作業をするマークの肩をたたいて、深い笑みを浮かべた。
その日は、窓の外を一面の雪が覆いつくしていた。雪が音を吸い込むせいか、やけに社長の声がクリアに聞こえたのを、マークはよく覚えている。
それからのマークは新聞配達をし、推敲をし、記事を書き……さらに多忙な日々を送ることになった。
新聞記事の中で、魔女裁判の話題もいくつか出たが、それらをいちいち気に留めている余裕もないほどで、いつしか、その言葉が新聞の見出しを飾らなくなったことにも気づかなかった。
「その傍ら、僕は執筆活動をはじめました。最初は趣味だったんですが……いつからか、本にしたいと考えるようになって、出版社へ持ち込みを」
「持ち込み?」
「書いた原稿を持っていくことです。そこで、編集者の方にお話を読んでいただくんですが……」
一言でいえば、マークの書いた物語は「売れない」話だった。
面白くない、という意味もあるが、言論統制に引っかかってしまう、そんなリスキーなことは出来ない、という意味もある。まさに「売れない」のだ。
「そんな……あんなに面白いのに」
ユノの表情が曇る。暗い闇をすくいとったような瞳。宝石のような輝きも今は鳴りを潜めている。
「編集者の方は見る目がありません!」
マークの代わりに腹を立てたように、ユノは頬を膨らませた。
ユノの言葉は嬉しかったが、自分の実力はマークが一番よく分かっている。
「実際に面白くない話もたくさんありますし……僕の話は、今のイングレスには合わないようです。言論統制がしかれている今のイングレスで書ける物語は、限られています」
編集者がダメだというなら、ダメなのだろう。マークはそう思っていた。
それから何度となく出版社には足を運んだが、次第に門前払いを食らうようになった。そして、とどめに、編集長からのありがたいお言葉をいただいた。
「お前を魔女裁判にかけてやろうか」
編集長は原稿用紙を燃やし、灰は風にさらわれてロンドの曇り空に溶けていった。
「ひどい……」
「今のイングレスは……ロンドは、そういう場所です。残念ですが」
マークの話に、ユノは押し黙る。
ユノも、魔女という存在が疎まれていることは、その身をもって知っている。しかし、もう何年と人に接してきていないせいか、そんな言葉を浴びせられることはなかった。
チクリと胸が痛む感覚。それは、一人では決して味わうことのなかった悲痛。
マークの話を聞いて、なぜマークがユノに敬意を払ってくれているのか、少し分かる気がした。
普通なら、魔女だって、人を憎んでもおかしくはない。恨む権利がある、とさえ思う。
それでも、魔女が――ユノがそうしないのは……恨むべきは罪だ、と教えられてきたからであり、そして、人に対する敬意を払っているからだ。
真の敵は、人でも、ましてや王でもない。
魔女裁判という法律。それだけだ。
ユノの瞳にチラリと炎のような朱が灯った時、
「僕は、それから物語を書くことをやめました」
とマークが話を続けた。
「そんな時、新聞社の社長は僕の元気がないことを知って……十年の勤続を労ってくれたんです。長い休みと駄賃、それにグローリア号の乗船チケットをくださいました」
マークが、ここにたどり着くきっかけだ。
「グローリア号……」
ユノはその船の名前をどこで聞いたのだろうか、と記憶を辿る。
「あ」
『栄光は海へ――グローリア号、沈没』
先日のラジオから聞こえてきた痛ましい事故。
マークが一体どうやってこの島にたどり着いたのか不思議に思っていたが……まさか、あの事故の生き残りだったとは。
「よく、ご無事で」
マークの運が良かったとしか言えない。まさに、奇跡のような確率だ。
「本当に。死にたいと思っていた僕が唯一の生き残りだなんて、笑えませんね」
マークは困ったように眉を下げたが、それこそおとぎ話のようだ、とユノは思わずにいられない。
――やはり、この出会いには何かある。
魔女と、人とをつなぐ……今のイングレスさえも変えてしまえる、そんな『何か』が。
「こんな、感じで……あまり、面白い話ではなかったですね」
マークは照れたように頬をかき、ユノへその瞳を向けた。
「いえ! そんなことは!」
ユノはブンブンと首を振る。
マークの話は、確かに笑えるようなものではないし、もっと言えば、不幸続きの救われない話だ。
だが、だからこそ、ユノの心は表現の出来ない高ぶりに襲われている。
自らに少し似た境遇の、ストーリーテラー。
彼の話には共感や同情を抱かずにはいられない。
彼の力があれば、魔女たちの物語はきっと、多くの人々の心をつかむ。
魔女たちも、人々の思いを受け止められる。
「マークさんは、やっぱり、すごい人です」
「え!?」
マークは何度目かのすっとんきょうな声を上げ、目を見開いた。今までの自分の話に、褒められるようなところは何もなかったはずである。
「マークさんのお話なら、きっと、この世界を変えられる。そんな気がするんです!」
人々の心にも、魔女の心にも寄り添うことの出来る人。そして、嘘偽りなく、本心で物語を描くことの出来る人。
それが、ユノの感じたマークという人物像だった。
マークの、フォレストグリーンの瞳が柔らかに揺れる。
木漏れ日を受けて光る森の緑、爽やかな草の波、生命の芽吹きを感じさせる尊い輝き。
ユノの、海とも空ともつかぬ、広大で穏やかな瞳の輝きがうつったようだ。
「ユノさんは、僕のことを買い被りすぎです」
まだ、出会って間もないというのに。
マークは、涙をこらえることが出来なかった。
ユノの優しさに触れ、そして、純粋に自らの物語を……自分自身をこうして褒めてくれる人物に出会うのも久しぶりだった。
彼女に、これから先どれほど救われるのだろう。
たった一人、自分の物語を面白いと言ってくれる人がいる。それだけで、こんなにも前を向ける。
マークの心のうちに湧き上がる思いは、止まるところを知らなかった。年下の少女の前で涙を流すなんて、と思うが、時すでに遅し。
マークは鼻をすすり、ボロボロとこぼれる涙を何度も何度も手の甲で拭う。
ユノからもらったティッシュペーパーを何枚もくしゃくしゃにして、マークは精一杯の笑みを浮かべる。
「僕は、精一杯頑張ります」
なんの根拠もない言葉だったが、マークは誠心誠意を込めて誓う。
「これから、人と魔女が、手を取り合って生きていく国を取り戻しましょう」
「はい! もちろんです!」
ユノが手を差し出す。
マークが、涙で濡れた手を必死に服で拭き、ようやくその手を取ると、ユノは声を上げて笑った。
「涙の誓い、ですね」
「お恥ずかしい……」
冗談めかして言うユノの言葉が、マークには心地良かった。