7-8 魔女は、神様ではない
新聞社に枢密顧問官が訪れるその日。そわそわと教会の中を往復していた魔女たちに、トーマスは呆れたようにため息をついた。
「皆さん、気持ちは分かりますが……少しは落ち着いていただけませんか」
アリーまで妙にぼんやりとしている。落ち着かない気持ちは理解できるものの、お客様に不審な目を向けられていることにも気づいてほしい。
「そんなこと言ったって! もう、来たのかしら」
「そうよね。むしろ、どうしてそんなにトーマスが落ち着いていられるのかが不思議で」
ジュリとメイは顔を見合わせて、ねぇ、と二人同時に小首をかしげる。
トーマスはそんな二人を尻目に、目の前の女性に微笑みを投げかけた。本を買ってくれたことに対する礼を述べて、最後に祈りを捧げる。
「女神さまの祝福が訪れますように」
正しくは、女神ではなく、はじまりの魔女だが――すっかりトーマスの口に馴染んだ決まり文句に、女性もなごやかな笑みを浮かべて頭を下げた。
本の売れ行きは上々。マークの物語が面白いことはもちろんだが、トーマスのこの麗しさもその一端を担っている。
女性を見送って、トーマスは再び魔女たちに視線を投げかけた。
もちろん、本の販売を手伝ってくれていることは事実だ。少なくとも、アリーとジュリは、手軽に披露できる魔法だということもあって「本を買えば魔法が見れる」という宣伝文句を引き受けてくれているし、メイだって、金銭のやり取りを行ってくれる。
だが、それにしても心ここにあらずな時間の方が圧倒的に多く……じとりと彼女たちを見てしまう。
今も、客がいないのを良いことに、ジュリとメイは「枢密顧問官がどんな人なのか」という話題に花を咲かせているし、アリーはマークの本を見つめて感慨にふけっているようだった。
「そんなに気になるのなら、同行したいと言えば良かったのではありませんか」
やんわりとトーマスが投げかければ、現実に引き戻されたアリーは目を伏せる。
「いいえ。これは、ユノが、マークさんと二人でなくてはいけないの。私たちにとっても」
その割には、いつもに比べて弱々しい声だが。
ジュリとメイも、先ほどまではしゃいでいたのがまるで嘘のように、しおらしい笑みを浮かべて「そうね」とうなずく。
「ユノちゃんは、ワタシたち、魔女協会からはもう距離を置くべきだし」
「私たちも、ユノちゃんから離れなくてはいけないの」
トーマスは、アリー達が言っている意味を正しく理解しようと、動かしていた手を止めた。
ユノは魔女協会から離れ、魔女協会は彼女から離れるという、その意味を。
親離れ、子離れというべきか。それとも――
「まだ、早いでしょう」
死別。そんな言葉が脳裏をよぎって、トーマスは思わず魔女たちをたしなめる。
「どうかしら。誰にも分からないわよ」
淡い命の灯がまだその目に宿っていることに、安堵することさえ許されない物言い。
「変えられない未来もあるの」
メイも、ジュリを擁護するかのように口を開く。静かな声色には、嫌というほど説得力がある。そもそも、未来を見続けてきた夢見の魔女が「変えられない未来」と言うのだから、決定事項なのだろうけれど。
アリーだけは何も言わなかったが、美しい白銀が舞う瞳に憂いの色が浮かんでいた。
トーマスは、魔女たちの態度に珍しく憤りを覚え、ゆっくりと息を吐きだした。
魔女たちの言い分はもっともだったし、何より、魔女たちだってそんな未来を望んだわけではない。
彼女たちに怒りをぶつけるのは間違っている。
だが、それでも抑えられなかった思いを、出来るだけ冷静に、丁寧に言葉にしていく。トーマスは作家ではない。しかし、教えを説き、時に人々を導いてきた聖職者としての自負がある。
「それを、当たり前のように受け入れないでください。少なくとも私は……、どれほどそのことを理解していたとしても、あなたたちを最後まで守りぬくと誓ったのです」
代われるものなら、彼女たちが背負った運命を代わってやりたい。命を、等価交換できるのであれば、この心臓だって差し出せる。
自らの命は、魔女によって救われ、それからの人生は、魔女と共にあったのだから。
彼女たちの命が尽きるその日まで、ほんの少しでも、彼女たちの幸せを守って生きていく。
それこそが、人々を導く聖職者たる役目であり、魔女を守る立場としての責務――否、トーマスの選んだ道なのだ。
「トーマスって、まだそんな顔も出来たのね」
メイが、いつもと同じ微笑みをトーマスに向ける。そっとメイの指先がトーマスの頬に触れ、慈しむように、少し伸びた黒髪へと移動した。
「なんだか懐かしい」
何がおかしいのか、クスクスと笑うメイの手のぬくもりが離れていく。
(こちらは泣きそうだというのに)
トーマスが少しばかり悔しそうにメイを見つめれば、メイはますます笑みを深めるばかり。コロコロと雨音のような笑い声が、教会に響く。
魔女は、神様ではない。
いや、本当は、神様と同じだけの力を持っていて、何でも願いを叶えられるのかもしれない。
けれど、トーマスがどれほど願っても、はじまりの魔女は決して聞き入れてくれない。
魔女を、幸せにしてほしい。
たったそれだけの願いだというのに――
「等価交換じゃないからよ」
アリーが小さく呟いて、ジュリとメイは首をかしげた。トーマスは、アリーを一瞥する。
「わかっていますよ。命がいくつあっても足りない、と言うのでしょう。ですが、あいにくと、私は一人しかいないもので」
拗ねたような口調に、今度はアリーがふっと笑みを浮かべる。
「トーマスにも、ずいぶんと苦労をかけたわね」
その言葉は、まるで別れのようで、トーマスは「いくらでもかけてくださいよ」と眉を下げる。
それも、等価交換だと言うのだろうか。
魔女のルール。
それは、優しくて、残酷だ。
幸せ一つを願うために、一体何を代償に支払えばいいと言うのだろう。
「あなた自身が幸せになることよ、トーマス」
「私の幸せは、あなたたち魔女の幸せですよ」
「いいえ。それはあなたの幸せではない。あなた自身の幸せを見つけるの。他人のための人生は立派だけれど、それが全てではない」
アリーは頑なにトーマスの等価交換を受け入れてはくれない。
「でも、そうね。一つ、お願いをしてもいい?」
「お願い、ですか」
「私たちがいなくなったら、みんなをよろしくね。特に、シエテとディーチェは無茶をするわよ。あの二人はきっと手を焼かせるわ。ユノだって頑固なところがあるし。それに、他の魔女たちも」
まだ、いなくなると決まったわけではないのに、どうしてそんなことを言うのだろう。トーマスは顔をしかめた。
メイに、まだそんな顔が出来るのか、と再びからかわれてしまいそうだ。
だが、大切な友人を、家族のような彼女たちを――愛した魔女を失ってしまうと分かっているのに、うまく笑うことなどできない。
「代わりに、あなたのお願いを聞いてあげる。もちろん、聞ける範囲のお願いだけれど」
アリーの瞳は、洗練された輝きを放つ。
本当に欲しいものは何一つとして許されないのに、そんな風に言うのはいかがなものか。
トーマスの思考を読んでなお、アリーの口元は美しく弧を描く。
「……笑って、いてください。ずっと、別れの日が来るまで」
絞り出した声が、トーマスでも驚くほどに懇願するようなものになった。
――あぁ、これが祈りを捧げるということか。
普段からやっていることなのに、トーマスの胸にその感覚がストンと落ちる。これでは、聖職者失格も良いところだ、と内心で自らを皮肉った。
アリーも、ジュリも、そしてメイも満面の笑みを浮かべてうなずく。
「人々とも、いつかこうして笑いあえる日が来ると良いですね」
お返しとばかりにトーマスもとびきりの美しい笑みを浮かべれば、魔女たちはみなその顔を少しだけ複雑なものに変えて、けれど、もう一度笑って見せた。
この本が、もっと多くの人々に広まれば、そんな日だっていつか訪れるだろう。
せめてその日が来るまでは、魔女たちの命が消えることのないように、トーマスは明日からも祈り続けようと思う。




