7-5 久方ぶりの希望
新聞社の電話が鳴りやまない。
ベルは、嬉しい知らせをこれでもかと運んできて、社長自ら、推敲の合間に電話対応をしなければならなかった。
どれもこれも、マークの本に対する評判がほとんどで、臨時の職員を数名新たに雇ってもこの状況である。
本物の魔法が見れることも相まってか、教会や大聖堂の方も多忙を極めているらしい。息苦しさを覚えていたロンドの住民たちにとっては、まさにこの本こそが、求めていた娯楽であり、久方ぶりの希望だったのだろう。
しかも、言論統制と魔女裁判という二つの悪しき伝統が、功を奏している。
人々の間で噂にはなっているものの、皆、せっかく見つけた宝物を司法裁判官にとられまいと、情報の扱いには気を使っているらしい。
今のところ、司法裁判官のめぼしい動きはない。もっとも彼らは、先日の殺人事件や、ブッシュの火災の後始末にいまだ追われているようだったが。
社長は、嬉しい悲鳴を上げながら、再びけたたましい音を立てる電話の受話器を持ち上げた。
「はい、こちら……」
「マーク・テイラー様はいらっしゃいますか」
「あぁ、すみません。彼は今外出中でして」
また、ファンレターやら、感想やらの類だろうかとここ数日で突如増えたマークのファンからの電話を軽くあしらう。
「そうですか。では、いつ頃お戻りになられます?」
「えぇと……すみませんが、どのようなご用件でしょうか。あくまでも彼は、うちの従業員ですから、個人的なやり取りは対応しかねます」
「個人的でなければ問題ないと?」
電話越しに告げられた、揚げ足を取るかのような口調に、社長は思わず
「は?」
とすっとんきょうな声を上げた。相手がお客様であることを思い出したのは、受話器の向こう側から
「ですから、個人的でなければ問題ない、ということですよね?」
そう繰り返された時だった。
「申し訳ありません、お客様。ご用件を先にお伺いしてもよろしいでしょうか」
あくまでも毅然とした態度で応じれば、電話の相手が、誰かに向かって何かを相談している様子がノイズ混じりに聞こえる。
しばらくの後、受話器から聞こえた名乗りに、社長は思わず目を見開いた。
社長は神妙な面持ちで受話器を置くと、配達の支度をしていた社員に声をかける。
「マークはいつ戻る」
「先ほど配達に出たばかりじゃないですか。それに今日は、ユノさんのところに行く日では?」
そうだった、と社長は慌ててコートを掴み、
「すまないが少し出る。後は任せた」
と建付けの悪い玄関扉を無理やりに開けて、教会へと足を向けた。
「後はって……」
今から配達なんですけど、と残された社員の声がむなしく響く。突然、出て行ってしまった社長の代わりに電話を取った別の同僚に
「配達をって意味だろ」
と軽くあしらわれ、腑に落ちないままにその男も黒い自転車にまたがった。
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配達を終えたマークは、大聖堂の裏手にある小さな教会をそろりと覗き込んだ。扉は開け放たれていたが、人の気配がなく、本当にここであっているのか、と疑ってしまうほど静かだった。
「おや、どなたがいらしたのかと思えば」
たまたま死角になるところにいたらしいトーマスが、薄暗い教会の中で先にマークを見つける。
マークが驚きのあまり体をビクリと揺らせば、トーマスの謝罪が聞こえた。
「ユノさんは」
「彼女なら、別室ですでに魔法をお見せしているところですよ」
人間に魔法を見せるという前代未聞の魔女――そんなユノを心配してしまうのも無理はない。
万が一にでも司法裁判官に見つかれば、言い逃れは不可能だ。
トーマスは、マークの気持ちを知ってか知らずか、あっけらかんと右手側の壁を指さした。
「その奥のお部屋ですよ」
決して大きな教会ではないが、どうやら一室、礼拝堂とは別に部屋をもっているらしい。
木製の、やや小さい扉がどこか誇らしげに見える。マークはトーマスに礼を述べると、その扉を二度ノックした。内側から「はーい」と聞き覚えのある声がする。
人相手に魔法を見せているにしては、リラックスしているような、落ち着いた口調だ。
「マークです。開けてもいいですか?」
いつもよりほんの少し大きな声で尋ねれば、しばらくの沈黙が続く。中にいる人と相談をするようなやり取りが聞こえた。
『とびら』は、その人が憧れる景色や夢を詰め込んで見せることも可能だ。それ故、知らない人に気安く見せるのは、抵抗があるのかもしれない。
マークが、もしかして失礼なことをしただろうか、とそんなことを考えているうち、「どうぞ」と扉の向こうから声がかかる。
マークは精一杯の謝罪の気持ちを込めながらも、魔法の呪文を忘れずに唱える。
「オープンセサミ」
実に久しく発した言葉は、存外体に馴染んでいた。
ゆっくりと扉を開けると、まず目に飛び込んできたのは、真っ青な空。
続くエメラルドグリーンの海はどこまでも広大で、照り付けるようなまぶしさを感じるほど、輝く白い雲が水平線の上に鎮座していた。
足元はオフホワイトの砂浜で、視線を誘導するような木々の緑と鮮やかなコーラルオレンジのハイビスカスが続く。
そして、見知った真っ赤な髪をたっぷりと揺らしたジュリと、夜空色の髪を撫でつけたユノ。
あの島から旅立った日と同じ光景が、マークの目の前に広がった。
「バカンス中なの」
振り返ったジュリはサングラスを下げて、初めて出会ったあの日同様に、深紅の瞳でマークを射抜いた。
てっきり、ユノのお客様は、人間相手しかしないものだと思っていたが。
「ジュリ、さん」
「久しぶりね、マークくん」
パチンと華やかなウィンクを投げかけるジュリの姿に、マークは思わず力が抜けた。
「ジュリさんが、お客様だとは思いませんでした」
「あらぁ、ワタシたち魔女だってちゃんと本は買ったわよ。それに、人間相手ばかりじゃぁ、ユノちゃんだって緊張もするし疲れちゃうでしょう?」
「マークさんも来てくださいますし、トーマスさんもいるので大丈夫だと言ったのですが」
ジュリはそんなユノの頬をうりうりとつついて「つれないわね」と唇を尖らせる。
「ま、ワタシたちが心配だったのよ。それにほら、最近色々あって、魔女にも癒しが欲しいじゃない?」
特に、ブッシュでの事件で画策していたジュリは
「バカンスも必要よね」
と再びサングラスで目元を隠す。
本来ならば、ブッシュでのことが終わったら、ユノのいた島にでも行こうと思っていたくらいだ。他の魔女たちと共に、少しくらい優雅な非日常を送るのは悪くない、と思っていた。
だが、結局のところあの事件は、エリックの誤認逮捕というなんとも腹立たしい結末に終わり、そういう気分でもいられなくなったのだ。
とはいえ、休みなしで働くというのはジュリの性に合わず……アリー達に頼んで順番だけはせめて最初を、と譲ってもらったのだった。
「マークくんも、少しくらい休んだほうがいいわよ」
「そう、ですね」
なんだか拍子抜けしてしまった、とマークがユノの隣へ腰を下ろす。ロンドに戻ってきてからは、確かにほとんど休めていない。
それもこれも、本を人々に手渡すためであり、仕方のないことだが。
ぼんやりと三人で海を見つめていると、先日までの騒ぎが嘘のよう。波の音や、風の音、海を渡る鳥たちの声まで聞こえてきそうだ。
疲れているせいか、気を抜くと瞼がとろんと下がってきて、マークの意識がだんだんと現実から離れ――突如、マークの背後にある扉が大きく開かれた。
「マーク! いるか!」
「ジュリさん! いますか!」
緊迫感をはらんだ男の声が楽園の海に吸い込まれた。