1-1 グローリア号、沈没
「これでようやく、父さんたちに会えるのかな」
風にあおられて大きく揺れる船のライトは、魚を光でおびき寄せるかのように人を闇へと誘う。青年、マーク・テイラーの視線もまた、自然とその光を追いかけた。
先に天国へと旅立ってしまった両親も妹も、彼の問いに答えることはない。
「キャーッ!!」
「誰か! 誰か!!」
「たすけ……」
乗客の声も、船員の声も、すべてが海に飲み込まれていく。
マークは不思議な気分に包まれていた。
思えば、この船に乗ったのも、気分転換とは名ばかりの傷心旅行。自ら命をたつ度胸のないマークにとっては、死に場所を求めて乗船したようなもの。
そこにこの嵐。なんという偶然。
もしも、マークにとって唯一心残りがあるとするならば、それは、この体験を物語に出来ないことだろう。
「それが叶うなら……」
――僕の運命も変わっただろうか。
現在のわが国、イングレスの闇を払拭するかのような華々しい傑作が、彼にだって書けたかもしれない。
マークの右手が、無意識のうちに愛用の万年筆を探す。だが、それは見つからず、
「そういえば、もうないんだったな」
ぐっしょりと海水に浸かったポケットに、彼は空いた右手をつっこんだ。
- ・・・・ ・ ・--・ ・- ・・・ -
今まさに沈没寸前のこの船は、グローリア号という。
イングレスの首都ロンドの港から出発し、十日間をかけて周辺の島々を回る大型の旅客船だ。
出航当日は、青く澄み切った空に太陽がまぶしく、航海にはうってつけの快晴だった。分厚い雲に覆われることの多い冬のロンドにしては、珍しいほどに。
だが、それも長くは続かなかった。
雲が出てきたな、と思った途端に雨が降り始めた。それだけなら良かったが、目的の島へ近づくにつれ、それは豪雨となり、やがて嵐となった。
轟音が船内に響き渡ったのは、真夜中を過ぎたころ。
けたたましいベルの音にマークが飛び起きれば、
「お客様! お客様!!」
扉の向こうから、船員の懇願とも、祈りともつかぬ声が聞こえた。
大しけとなった海の猛威に耐えられず、船体の一部に穴があいたらしい。マークがそう噂を聞いた時点で、すでに船内にはどこからか海水が流れ込んできていた。
栄光と名を冠した船が、自然の驚異にさらされて海の藻屑となる――
これほどまでに滑稽な話があるだろうか。
マークは客室を飛び出して、その足を甲板の方へと向けた。
くるぶしにまで達した水をかき分けることは容易ではない。彼は呼吸を荒げ、肩で息をしながらも、廊下を移動し、階段を登る。
何も、助かるための算段があったわけではない。ただ、迫りくる恐怖と絶望から、まだ水の来ていなかった方向へ逃げただけだ。
その最中のこと。
今まで必死に抑え込んでいた死への衝動が、不意に顔をのぞかせた。
「これで死んでも、誰も僕を責めはしない」
マークの心に長く巣食っていた憧憬が芽吹いた瞬間であった。
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「お客様!」
こちらに、と伸ばされた船員の震える左手が、マークを現実へと引き戻す。
しかし、もうそれも意味のないことだ。
マークは、その救いを断った。吹き荒む潮風に体を預け、甲板に佇むことを選んだ。
「僕は、ここで」
生きていても良いことなどない。悲しむ人もいない。ここで死ねるなら、その方が幸せだ、とマークは思う。
彼の背後には、船を丸ごと飲み込まんとする大きな波が、壁のようにまっすぐとこちらに迫ってきていた。
――マークは、そうして海に包まれた。
彼の体は、真っ暗な海に音もなく沈む。
海面へ向かって昇る白銀の泡は、ゆるやかに形を変え、色鮮やかな走馬灯となって駆け抜けた。
幼少期のころ住んでいたロンド郊外の小さな仕立て屋。生まれたばかりの妹の柔らかな指。お気に入りの絵本。得意料理を自慢げに出す母親と満足げな父、大好きなコーンばかりを食べる笑顔の妹。
そんな幸せを引き裂くかのように、煌びやかな装飾を纏ったガソリン車がやってくる。
家族を裁判所へと連行する白服の男たち。更地になった店。
施設の、今にも崩れ落ちそうな木造の天井。色あせた本と、カビの生えた小説。小じわの多い孤児院の院長。
十五の誕生日を迎えた日。院長がくれたのは、就職先が書かれた紙きれだった。
郊外の古びた新聞社。建付けの悪い扉。丸めがねの社長。新聞配達の黒い自転車。
白紙の束、インクまみれの手。
ロンドの中心地に建てられた荘厳な出版社。エントランスの大理石が美しかった。燃やされた小説。罵倒を繰り返す編集長の薄くなった頭髪。灰になった物語たち。
折れた万年筆と、床にこびりついたインクの染み。
同情と哀れみを隠すように、優しさをたたえた新聞社の社長の瞳。
渡されたグローリア号の乗船チケット。
マークがこの世に生を受けてからの二十五年という歳月を振り返るには決して長くはない幻想は、泡沫となることさえ許されなかった。だが、それでいい。
「これで、いいんだ」
彼はゆっくりと瞼を閉じた。
やがて大型旅客船、グローリア号も、マークと同じく海の底へ。
グローリア号、沈没。
乗客、船員合わせて二百五十名が死亡したこの事件は、イングレスの今を象徴する出来事として、しばらくのあいだ世間をにぎわせた。
- ・・・・ ・ ・・・ - ・- ・-・ -
マークの右手は、無意識に愛用の万年筆を探した。
だが、彼の右手が感じたのは、いつものつるりとした万年筆の無機質な冷たさではない。サラサラとしていて、少し湿った、ほんのりと温かな何か。
記憶の奥底に眠る感触に、マークの意識は浮上した。
「ごほっ……げほっげほ……ぐ――が、はっ」
いくらか水を、それも塩水を飲み込んだようだ。息を吹き返すと同時に、青年は口の中から胃のあたりにまでつかえていた水を吐き出す。胃酸のせいか、喉の焼け付くような痛みに、マークは顔をしかめざるを得なかった。
そんな彼の目に飛び込んできたのは、これでもか、というほどの日差し。
冬のロンドでは考えられないほどの光の強さに、マークの目はくらむ。
季節をめぐるほど、長い航海をしていたのだろうか、と彼はあたりを見回す。
(天国って暑いのか)
雲の上ではなさそうだが、太陽の近さは同じだった。
マークの意識がクリアになるにつれ、やけにリアルな五感が体を支配する。
口内に広がる苦み。海特有の潮風の匂い。肌を焼くような地面の熱。ノイズのような波の音と、いつもより弱いが早い鼓動。
マークの視界を一面の青で塗りなおすような、雲一つない真っ青な空。
(まさか……)
マークは出来る限りゆっくりと起き上がった。
足にまとわりつく砂は海岸のそれである。聞こえる鳥の声は、南国のものだろうか。目の前に広がるエメラルドグリーンの海は……グローリア号を襲った荒れ狂う黒い海と同じもので間違いないだろう。
「生きて、る……?」
マークのざらついた声は、温かな南風が運び去っていく。髪についた水滴もいくつか一緒にさらわれたようで、彼の背中のあたりを伝って落ちていった。
どうやらこれは、夢でも幻でもないらしい。ましてや死んで天国にいった、というわけでもない。
「嘘、でしょ……」
マークの蒼白な顔から、さらに血の気が引いていく。
「ここ、どこーーーーっ!?」
マークは出来る限りの声を上げる。
それは無情にも、美しい海の彼方へと吸い込まれていった。
数あるお話の中から、このお話をお手に取ってくださり、本当にありがとうございます!
船から投げ出され、謎の島へとたどり着いた青年、マーク・テイラーの物語がこれから始まります。
もしよろしければぜひ、マークがたどる数奇な運命を覗いていってくださいませ*