53話.雨猫、世界が揺れる~雨猫過去編3~
高校卒業と同時に家を飛び出すようにしてオーディションを受けてから、僕はすぐに合格した。アイドルなんてするのは初めてだったから、毎日ボイストレーニングやダンスレッスンをしながら少しずつ仕事を始めた。
ボイストレーニングやダンスレッスンをしながらの活動は思ったよりも大丈夫だった。だって、母の地獄のピアノレッスンよりは休む暇があるし、ご飯も食べられるから。
しばらく、事務所が用意してくれた部屋とレッスン室、そしてたまに入る仕事をこなしながら日々忙しく過ぎていった。
父も母も僕を探してこなかったから、諦めたんだ。なんて、思っていたら、1度母が事務所を特定して怒鳴り込んできたことがあった。
事務所に所属して3年目で、まだColorsに所属する1年前の話。『Yuki』という名前で、個人アイドルをしていた。その頃には始めた頃よりも仕事は増えてきていたし、少ないながらも僕を仕事に指名してくれる人もいた。
その日のことは、今でも鮮明に覚えている。僕は事務所の人と会議室で打ち合わせをしていた時だ。何やら外が騒がしいと思った。事務所の社員さんが誰かを必死に止めている。
「お待ちください!関係者以外は立ち入り禁止です!」
ついで聞こえたのは、嫌という程聞きなれた甲高い声。頭に響くそれはあの人が怒っている証。
「やめて下さる?わたくしの息子がここにいることは調べがついているのよ?れっきとした関係者ではなくて?」
心臓がドクンと一際大きい音を立てた。身体が重くなる。陸に上がった魚のように息ができず、苦しい。グラグラと世界が揺れている。いや、世界が揺れてるんじゃない、僕が揺れているんだ。
「結希!」
ぐるぐる回る視界の中、ドアを開けて入ってくるあの人が見える。僕を見つけた途端、薄気味悪いくらいの綺麗な笑顔になって、こちらを見つめた。
「結希ー?こんなところにいてはダメだわ。あなたのせっかくの音楽の才能がダメになる。ピアノ、しましょう?お母様が付きっきりで教えてあげるわ。帰りましょう」
ふふふ、ふふふと笑う彼女は僕が頷くとしか考えていないような様子だ。彼女はそのまま僕の方へと手を伸ばし、手を掴んだ。絶対逃がさないと、力が込められる。
逃げても、ダメなのか。
僕は、また……。
あれ……呼吸ってどうやってするんだっけ?
あれ……どっちが天井でどっちが床だっけ?
「Yukiさん!?」
スタッフさんの慌てたような声。クラクラと身体が揺れて、そこからの記憶はない。
★
目が覚めたら白い天井が目に入った。ゆっくりと視線を動かすと、左斜め上には点滴。自分は病院で寝ているらしかった。
「Yukiさん!」
ベットの横の椅子に座っていた僕のマネージャーさんが、ガタリと立ち上がりながらそう言った。心配と焦りがその表情いっぱいに広がっている。
心配して貰えることが、ちょっと嬉しかった。なんて言ったらちょっと不謹慎かな。だって、心配してもらうのなんて何年ぶりかな。
幸い身体はとても元気で、起き上がることが出来た。あわあわしていたマネージャーさんを安心させるように笑いかける。
「お身体の調子はどうですか?お医者さんは、ストレスだと仰っていました。」
「もう大丈夫です。心配をお掛けしてすみませんでした」
「それならよかったです!肝を冷やしました……」
「すみません……」
それからキョロキョロと当たりを見回す。倒れる直前、僕はあの人に手を掴まれた。あの人、つまり母はどこにいるのだろう。
「あの……母は……?」
「………おかえり頂きました……すみません」
マネージャーさんが、少し沈黙の後、言いづらそうにそう言った。マネージャーさんは僕と母の関係を知らないから、謝ったのだろう。知っているのは、社長のみだ。あの場にいたスタッフさんは察しているかもしれないが。
本当のところ、会いたくは無かったのだから、なんてことない。あの、絡みつくような視線も、貼り付けたような笑顔も見たくない。
「謝らないでください。むしろ……」
「はい?」
「なんでもありません」
ニコニコと笑っておいた。ストレスの原因は、多分その母だ、とは言えなかった。
それから、事務所の社長が何とか母のことを取り成してくれたらしく、その後母が来ることはなかった。
でも、いくら大丈夫と言われても、ちょっとだけ怖かった。
また、あの瞳が、あの手が僕を捕まえようとするかもしれなくて。逃げ場なんてないほど追い詰められてしまうかもしれなくて。
不安だった。
ゆらり、ゆらり世界が不安定に揺れている。