102話.ある男、日常
洗面台の鏡の前、一人の男が立っていた。両手を洗面台のへりにつき、顔はややうつむき加減。ただ、黒髪の間から見える目だけはじっと前を見つめている。
その表情は無表情で何を考えているかわからない。部屋には男しかいないため、その感情を読もうとする者はいないが。
「はっ…」
男は小さく息を吐く。溜息のような嘲笑のようなそれは明かりを落とした部屋に暗く響く。男は一呼吸置いて、それから、水道を捻った。その水で勢いよく顔を洗う。
勢いよくはねた雫がポタポタと顔から落ち、服の方まで滴っていくが、彼は気にしない。掛けてあったタオルで雑に顔を拭いた彼は、また、1つ息を落とし、鏡の横に置いてあった大きめのポーチを手に取る。
中には化粧道具が入っていた。普通の化粧道具というよりはどちらかというと専門的、舞台俳優などが使っていそうなものたちだ。
慣れた手つきでそれを使っていく。元々は垂れたような瞳だったのだが、つり上げられ、涼やかな眉毛もつり上がったようになっている。
そして、化粧によってできた顔はそれ以前の顔より若く見えた。30代くらいから20代くらいの風貌になった。
それから、最後に隣においてあった金髪のウィッグを手に取り、頭に被せる。
別人のようになった彼はどこか満足そうに、ニィッと口角を上げる。怪しげに見えるその笑顔は恐怖さえ帯びている。
「これでいい」
そう、1人で呟いた彼の胸元には鍵の方をした小さなネックレスが輝いている。なにかの証のように見えるそれに、男は優しく触れる。羽にでも触れるような柔らかい持ち方だ。
一通り触ったあと、今度はさっきのポーチの横にあった、黒色でプラスチック製の箱を持ち上げて、蓋を開ける。
中にはたくさんのネックレスが入っていた。そのいくつかを手に取ると、先程の鍵のネックレスをそのネックレスたちで隠すように首にかけた。
サングラスをかけると、砕けた若者の完成である。
彼はふぅと1つ息を吐くと、そのまま洗面所から出ていき、テキパキと朝ごはんの食器を流し台で洗い、着替えを済ませる。
それから、ソファに座った彼は、ソファ横の小さな机からスマホを持ち上げた。通知を確認し、今度は大きめのため息を吐いた。
「今日も連絡なし、か」
残念そうな声音が部屋に落ちる。それから、何かを振り払うかのように小さく被りを振り、何をやっているのだろう、というような自嘲のような笑みを浮かべる。
「もう調べるなとは言われたが、理由も言わず音信不通とはな」
そのままスマホで時間を確認し、立ち上がった。
「切り替えて、これから、ひと仕事だな」
彼はそう言うと、外へと出て行った。




