89話.雨猫、激情にかられる
部屋に入ってすぐ、父と対面した。遠い記憶の中にある父より若干老けてはいるが、その意志をのせたような力強い瞳は変わらない。ただ、昔はもう少し笑っていた気がする。
僕と陽葵は挨拶のために、ひとまずぺこりと頭を下げた。すると、どこか厳しいような威厳のある声が部屋に響く。
「顔を上げなさい」
「はい……」
響いた言葉は日本語だった。
父の言葉に顔を上げる。少し怯んでしまった。そのくらいにはその声音は威厳があった。無表情で無愛想な彼の顔はこちらをじっと見たまま動かない。
「大きくなったな。それで、今日の要件は何だ」
平坦な声で言われた言葉。きっと、「大きくなったな」というのもただの確認みたいなもので、そこに出会えた喜びなんかは微塵もないだろう。それから、時間が惜しいというように、ほかの世間話などもなしにいきなり本題へと移ろうとする。
父と子の対面ってこんなものだろうか。いや、手紙の内容で分かっていたはずじゃないか。父は僕自体には興味ないってこと、ただ僕の周りとか仕事とかにしか興味がないのだということ。
わかっていても、少し、なんだろう、少し胸がチクリと痛い。苦しい。わかっている、これは少しだけでもあった期待が砕かれたからだ。その期待の破片が胸にささって痛い。
もしかしたら少しは優しく迎えてくれるんじゃないかなって、もしかしたら少しは僕のことを想ってくれているんじゃないかなって。
でも、僕は今日は、父との関係を改善しようとしに来たわけでも、父と会話をしに来たわけでもないから、この方がいいのだろうか。
「実は、今日はお父様にお伝えしたいことがあってきました」
お父様と言った時、父の顔がピクリと一瞬動いた。それさえも嫌だったのか。では、なんと呼べと言うのだ。
だが、父が動いたのは一瞬だけで、そのまま重々しい声がまた響く。能面のような顔のままただ言葉を作業のように落とす人。感情が感じられない。
「なんだ」
「僕に心から愛する人が出来ました」
あくまで淡々と。あちらに想いがないのなら、こちらが想ってたって虚しくなるだけ。今日は事実だけを述べる。
「ほう……」
「………」
沈黙の時間が流れる。重たい空気。琥珀色の瞳はよく見なれた僕と同じ色なのに、表情がのっていないから、全く別物のように思う。彼は緩慢な動作で瞼を閉じ、そして開けると、落ち着いた声で言葉を落とす。その視線は自らの少し後ろ、陽葵のいる辺だ。
「……それがその後ろに立っている人か」
「結月 陽葵です」
そう言われて、陽葵が声を上げる。続けて洋服の衣擦れの音が少ししたからお辞儀をしたのかもしれない。
彼はその返答はせず、直ぐにこちらへと視線を戻す。
「それで?」
「僕には婚約者がいるのも分かっています。それでも、彼女と一緒にいたいんです」
これでいいのだろうか。許可を求めるわけじゃなく、ただ、伝えただけ。でも、彼は僕に興味がないのだから、これでいいのか。これでいいだろう。これでいいはずだ。
認めてもらいたい、許可してもらいたい、そんな甘いことは部屋に入ったときには諦めたから。
「……ほぅ」
「凛とはちゃんと話をつけましたし、凛も応援してくれています」
沈黙が長い。彼は僕を見つめている。僕もただ彼を見つめている。
「……………」
「だが、私はあなたの事をよく知らない」
彼が陽葵の方を見つめながらそう言った。
知らない、その言葉を聞いて、頭に血がのぼった。お腹が鍋みたいにグツグツと煮えたぎる感覚がする。身体中の血が痛いくらいに沸騰している。
「何を今更……」
”知らない”
その言葉だけは言って欲しくなかった。
別に反対されるのは構わない、認められないのも構わない。伝えたのだから、僕は僕の人生を歩む。
「そもそも、あんたは陽葵のことだけじゃなくて、僕のことも知らないだろ!知ろうともしなかったくせに!!」
思わず大きな声が出てしまった。
その言葉は看過できなかった。だって、知らなくて当たり前だろう、知ろうとしなかったんだから。僕がどんなに苦しんでいても帰ってきてくれなかった。
僕のこと知ろうともしなかった。
なぜ、どうして?
僕の中の小さな幼かった頃の心が痛い、苦しいって訴えている。
「大きな声を出してしまい、すみません」
「………」
「陽葵、行こう。失礼します」
呆気に取られたような父に謝り、それから一礼して部屋を出ていく。このままじゃ、落ち着いていられないと思ったから。
だいぶ間が空いてしまい、申し訳ありません。ゆうくんの感情を整理するのが難しかったです。




