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4(終)

「気分はどう?」

 目が覚めると、そこは薔薇色の壁紙の、本棚が置かれた広い部屋だった。おれは白いソファーの上に横たわっていることに気づいた。慌てて起き上がると、並べられた本棚の間から、まだ金髪のままの君がやってきて、どこからかコップを差し出しておれにグレープジュースを勧めてきた。

「わたし好きなんだ。濃くておいしいよ」

 おれはそれをもらってから、ほとんど逆さにして一気に飲み干した。生き返るようだった。

「初めての人は、大体気絶しちゃうんだ。心臓紋って慣れたわたしでも痛いからね」

「うん、痛かった」

 おれは胸を撫でて、手の感触で心臓がまだちゃんと機能していることを知ってほっとした。きょろきょろ辺りを見回す。本棚がゲームのバグ画面のように延々と長い部屋に並んでいる。ここは多分君の部屋だ。

「あれは?」

 おれは壁に並べられた水槽を指さした。一つどころではない。五つほどの水槽が並び、中には虫のような小さなものが飼われていた。

「あれはね、ペットなの。あちこちの世界から拾ってきたんだよね」

 近づくと、小指の先ほどのアンゴラウサギや、虹色のスズムシ、魚の体に無数の手足が生えたよくわからない生き物などがもぞもぞと動いていた。

「家族みたいに可愛がってるんだよ」

 君はにっこりと微笑んだ。おれはペットを飼ったことがなく、何となくそういうものと一緒に暮らしてみたいような気になってきた。犬や猫よりは、小鳥やハムスターのような小さなかそけき生き物がいい。

「かわいいと思う」

「ね」

 君は黄金色のジュースをいつの間にか手に持ち、少しだけ飲んであとは熊とトカゲのキメラのような生き物の水飲み用の皿に空けていた。飲み飽きたらしい。キメラは大慌てでやってきて、恍惚の表情でそれをごくごくと飲んだ。哀れな生き物だ。

 君はおれが寝ていたのと向かい合わせのソファーに座り、足を組んで改まった表情で質問をした。

「こちら側に来る人って、大抵本来の自分の世界が嫌いみたいなんだよね。あなたも?」

「……うん」

「どういうところが嫌い?」

「……何か、……嫌い」

「家族が嫌い? 学校が嫌い? 自分が嫌い?」

 最後の質問にはっとして君を見た。君は微笑み、何もかもわかっているような顔でうなずいた。

「多いよね、自分が嫌いな人。わたしはわかんないけど」

「君たちにはわからないよ。おれたちは全部小さいときから決まっちゃってるんだ。何も選べないんだ」

 君は優しく笑い、

「じゃあ、今度迎えに来てあげようか」

 と言った。おれは首をかしげる。どういう意味かわからなかった。

「区役所での最後の質問、あれってあなたがわたしの家族になる手続きなの。もし二度目にこちら側に来ちゃったら、もう元の世界には戻れないから。わたし家族が増えるの平気だし、あなたもこっちに来る?」

 自分でも驚くほどうろたえていた。自分に提示されたものが何なのか、にわかに理解できなかった。おれは君の顔を見て、ひどく泣きそうな顔をしていたような気がする。

「この世界はとっても美しいんだよ」

 君は壁をめくった。そこには北極のかすかに青い氷山と、海があった。おれと君は流氷の上で、凍えることなく周囲の澄んだ空気を眺めた。足元がぐらつくが、船に乗っているように心地よかった。

「景色はどんどん入れ替えられる。嫌いな景色なんて自分が作り出せるものの中にはない」

 空気をめくった君の向こうに、広々とした秋の公園の紅葉の折り重なる景色が広がっていた。日本のような、映像でカナダの風景として紹介されたもののような、どこでもないような景色。景色の中に踏み込むと、小川が流れていて君とおれのぼやけた顔を川面に映した。

「嫌いな人になんて会わなくていいの」

 君が次に見せた景色は高い山の頂から望む山々の連なる風景で、雲は足元を流れている。爽やかな涼しい風がおれのうなじを撫で、朝日が早回しの映像のようにどんどん昇ってくる。

 君はおれに振り向いた。慈愛のこもった優しい笑顔で、こう言った。

「いつでもいいよ。夜の帳をめくってみて。あなたはもうそれができるようになってるから」

 おれはうなずき、とうとう自分が落涙していることに気づいた。


     *


 中学校の教室というものは、家同様窮屈だ。おれは坂口君がいじめに遭っていたことを知っている。坂口君が自分を無視しないおれに救いを求めて近づいてきていたことも。

 坂口君はよくカツアゲをされ、使い走りにされていた。そのときの表情はいつも切羽詰まっていた。教室中がしんと冷たく感じた。クラスメイトたちは横暴ないじめのグループから自分たちの身を守るため、信じられないほど無関心になってしまった。おれだって大して変わらない。おれは自分が悪者になりたくないから、坂口君の求めに応じていただけだ。

 坂口君は二学期を最後に転校してしまった。だから簡単な、わかりやすい結果になった。おれがいじめられているのだ。おれは突然すねを蹴られ、痛がってしゃがみこんだところを何人もの奴らから笑われる。教師が「もうすぐ授業だぞ」と通り抜けていく。おれとこいつらは「仲良しの友達」ということになっている。兄がおれを横目に友人たちと笑顔で歩いている。兄は学校では感じのいい優等生だ。家では全然違うのに。


     *


「あーあ、うるせえよお」

 兄が机の上で頭を抱えている。二段ベッドの下の段で、おれはまんじりともせず起きていた。両親が大声で喧嘩しているのだ。妹たちの泣き声が聞こえる。ヒステリックな言い合いのあと、一瞬ものがぶつかる音がし、今度は母が大声で泣き始めた。きっとまた殴ったのだ。父はよく母を殴る。

 いつもだったらこのまま寝たふりをするのだが、今日は違った。どたどたと音がして、おれたちの子供部屋のドアがいきなり開け放たれたのだ。

「どういうつもりだ! 模試の結果がこれだったら、〇〇高校には入れないだろ!」

 父だった。兄と同じで外面のいい父は細身で、到底人を殴りそうには見えない。でもその拳にはすでに打撲の痕があったし、父の後ろで兄を助けようとうろうろしている母の鼻からは鼻血が止まらない。ドアの向こうから妹たちが覗いている。二人とも泣き腫らした顔を凍りつかせている。父のせいで部屋が酒臭くなった。父はアルコールを飲むといつも荒れる。

 父は兄のトレーナーの胸倉を掴んで揺すぶった。

「こんなんじゃなあ、お前はずっと落ちこぼれだよ! どうやって生活していく気だよ!」

「う、るせえなっ! おれは別に〇〇高校に行く気なんかねえよ! お前が行けって言ったから第一志望にしてただけだろ!」

「親に向かって『お前』とは何だ!」

 父が慣れた様子で腕を振ると、兄は床に倒れていた。鼻血のしずくが床に散る。

「やめて、お父さん!」

 母が腫れた顔のまま父の胴体にしがみつく。父は簡単にそれを振り払い、母は二段ベッドの柱に頭を打ちつけた。妹たちが揃って大声で泣き始めた。おれは、ただ凍りついて立っていた。何も動かず、何も思わず。

 不意に、がたっと音がして、兄がいつの間にか立っていた。父が青ざめていた。兄は何かを持っていた。

「いつもさあ、嫌なんだよ。お前がおれの人生をめちゃめちゃにしたんだ。もうおしまいだよ。だからさあ」

 死ねよ、と兄は叫んだ。父は逃げようとして後ろを向いた。その瞬間兄はナイフを持った手を振り上げ、父の背中に突き立てた。ナイフはずぶっと背中に沈んだ。途端に、あーっと父は声を張り上げた。床に倒れ、ナイフを抜こうとぐねぐねと動いたあと、やがて大人しくなってぴくぴく痙攣し出した。血は思ったより少なく、それでもパジャマの背部を汚した。兄は息を弾ませ、笑みを浮かべていた。それなのに涙が流れていた。

「お父さん、お父さん」

 母が父の体を揺さぶる。覗き込むと父は虚ろな表情で何も見ておらず、ただ痙攣だけしつづけている。母が慌てて携帯電話を探しに行った。兄は、わけのわからない声を上げて、大声で泣いた。


     *


 おれが夜の帳をめくったのは、こういうことだ。こんな晩に、おれは家族を助けもせず慰めもせずに逃げようと思った。自分が嫌いだからここに来たって、自分がそこにあるんなら変わらないのにな。

 救急車が来るまでの間に、子供部屋の窓を開いた。寒々しい音を立てて吹く風がひどく冷たくて、空気が澄んでいて、星空がきれいだったな。おれは指先を夜の帳の端にかけた。ぬるっとした感触の帳は、意外にも簡単につまめて、さっとめくれた。そこに君がいた。待ちかねたように近づいてきて、視界いっぱいの大きな顔で――多分おれの体の十倍くらいの大きさの顔だった――金色の瞳でおれを見つめ、ネイビーの長い髪をなびかせて、大きな指でおれをつまみ、微笑んだ。それはぞっとするような謎めいた笑みで、おれをそちら側に持って行く。

 夜の帳は、おれの家の様相を隠し、さっと元に戻った。

                                            《了》

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[良い点] あらすじを読まないまま本編を読み始めたので、最初は恋愛かなと思っていたら全然違って、驚きました! 設定が凝っていて面白い世界だなと。とはいえ、そこからの終盤の展開にも驚きました。主人公の家…
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