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中学校の授業を受けるのは好きじゃない。現代文なら得意だが、それ以外の科目がさっぱり駄目だからだ。小学校のころ、おれは自分を天才だと思っていた。簡単な暗記ならすぐにでき、小学校レベルの計算なら容易に解けた。更に同級生たちから勉強を教えるように乞われたりしていたからだ。今、おれはそうじゃないと気づいている。おれは天才じゃないし、中学の成績順で言ったら中の下だ。
数学教師が四角形の内角について説明し、その角度の求め方を教えている。全然理解できない。第一意味を見出せない。こんなもの覚えていても何にもならない気がするし、そのせいで覚える気にならない。おれは授業にいつも身が入らない。楽しくないし、むしろ嫌いだ。視界に入って来る真面目に授業を受ける連中が、馬鹿馬鹿しい、可哀想な存在に思えてくる。
チャイムが鳴り、教師が去ると、教室の雰囲気がほっと一息ついたような馴染んだものになった。おれも体中が弛緩して、そのまま机に倒れ込む。気配がするので顔を上げると、坂口君が近づいてきている。坂口君はおれと同じくらい教室の「冴えないメンバー」の一人で、勉強は得意だ。
「よう。最近つき合い悪いけど、どこ行ってるの?」
おれは頭の中でめくれる景色や清々しいような君の後ろ姿を思い出して、一瞬茫然となった。晴れた空、乾いた空気、赤や白の薔薇の花。切れ目が入り、めくれた景色はすぐに元通りに「こちら側」の景色を作り直した――。でもあれはおれの勘違いだ。君はただ古本屋を出て帰ったんだ。傘だってちゃんと差していたに違いない。おれが幻覚を見たんだ。あるいは白昼夢を。リアルすぎて忘れられないだけなんだ。
「いや……、ちょっとね。それよりさ、さっきの授業、わけわかんなかったよな」
坂口君はきょとんとする。おれはとにかく坂口君の質問に答えたくなかったのでまくしたてた。
「三角形の内角の和が一八〇度とかもそうだったけどさ、四角形の内角を計算できたとしてどうなるっていうの? 仮におれが会社員になるとしてさ、何の役に立つっていうんだろう」
「三塩は何の会社員になるの? それによるね」
坂口君はにっこり笑った。
「でも会社員になるなら中卒よりは高卒のほうがいいし、高卒になりたいなら高校である程度勉強しなきゃいけないし、それには三角形の内角の和も四角形の内角の和や計算方法も知ってなくちゃいけない。おれは将来大学の工学部に入ってエンジニアになりたいから、理数系は特に真面目にやってるけどな」
呆気に取られて彼の得意顔を見つめた。ひょろひょろで黒縁眼鏡の坂口君。おれが無知で幼稚に見えるのだろうか。じわじわとどす黒い感情が腹から湧き出てきて、坂口君を刺し殺したいような気分になった。もちろんナイフの類は持っていない。だから頭の中で何度も彼の胸を刺した。想像上の彼は真っ赤に染まって地面に溶けていった。
はは、とようやく笑う。引きつった笑いだったけど。
「坂口君はすごいな。おれ、そういうのぜんっぜん思いつかなかったわ」
坂口君は笑った。
「おーい、坂口」
クラスのムードメーカーである森が、坂口君のほうを見て手招きをした。坂口君はびくっとして、「じゃあな」と慌てて森のほうに走っていった。
彼の後ろ姿を眺めながら、おれは本当に駄目な人間なのかもしれないな、と思っていた。
*
「やーだー! あたしの!」
「もう遊んだじゃん。五分遊んだら貸してくれるって言ったじゃん!」
着せ替え人形の取り合いをして、妹たちが叩き合って大声で喧嘩している。甲高い声で騒ぐので、かなりげんなりする。おれは居間で課題をやっていて、こんなに騒がれたら何もできないのに。
「いい加減にしろよ!」
それを上回る金切り声で叫んだのは一つ上の兄だ。もうすぐ高校受験なのでずっとピリピリしていて、おれと相部屋なはずの子供部屋をいつも独占している。兄はドアを半分開けて妹たちを黙らせたあと、おれを血走った目で睨み、
「お前がそいつらを黙らせとけって言ってあるだろ!」
と怒鳴ってぴしゃりと閉めた。了承したとは言ってない……と言おうと思ったけれど、そんな勇気はなかった。兄はこの半年人が変わったようになっていて、初めての受験のプレッシャーで気も狂わんばかりになっていた。
「お母さんまだかな……」
妹の一人がつぶやく。確かに待ち遠しかった。母ならこの場をどうにか落ち着かせてくれるだろうに。パート事務員の母は、いつも帰りが六時過ぎになる。今は四時。吹奏楽部なんて入るべきじゃなかったな、と思う。中学では部活に入るのは強制だとかで、大して興味もなく入った吹奏楽部では早々に幽霊部員になり、いつも下校後の時間を持て余す。何か夢中になれる部活に入っていたら、時間が潰せるのに。それに雨が降っていたら、古本屋に行くのだけれど……。
「あ、降ってきた」
妹が窓のカーテンをめくって外を見ていた。にわかに心が躍って妹の後ろから外を覗く。柔らかなパラパラという雨粒の音が聞こえ、糸のように雨が降っていた。慌てて上着を着る。リュックを背負い、後ろから聞こえてくる妹たちの「どこに行くの?」という不安げな声を無視して玄関から出る。コンビニで買ったものを何度も再利用している透明な雨合羽を着て、自転車置き場でガタガタ自分の自転車を出していると、兄の恐ろしいまでの高い声が聞こえてきた。
「あいつらをおれ一人でお守りしろって言うのかよ!」
一瞬足が止まるが、無視して漕ぎ出した。家にいるのはもう限界だった。おれは大急ぎで商店街へと自転車を走らせた。君を確認したかった。君を見て、安心したかった。
いつもの古本屋の前で自転車を停め、雨合羽を脱いで自転車の籠に入れて覆いをすると、そろりと中に入った。君はまだ来ていなかった。とりあえず最近読んでいる「壜の中の手記」を手に取り、読み始める。三ページほど、祈るように文字を目で追う。
隣に君が立っていた。奇妙な気分になると同時に、とてもほっとした。今日の君は詩集を読んでいた。どんな詩集なのかはあとで確認しようと思った。君は相変わらず細いメタルフレームの眼鏡をかけ、三つ編みで、ブルーグレーの制服だった。いつもの君にほっとした。おれはただ君の隣でじっと立ち尽くしていた。本は読んでいなかった。
君がふと体を動かし、はっとして埃をかぶった年代物の店の時計を確認すると、三十分も経ったことにやっと気づいた。もう君は帰るのだ。惜しいような気になって、おれはぼんやりと君の後ろ姿を見つめた。一瞬、君がこちらに振り向いたような気がした。おれは、何でだろう、いきなり君に話しかけようと思った。
店を出る君について行き、おれは君の後ろ姿に向かって口を開けた。何かを発するために。でも、君は――当たり前のように――地面から雨の商店街の景色を指先でめくって、軽く持ち上げてその向こうにある夕暮れの海に歩き出した。おれは茫然自失のまま、元に戻ろうとする景色を見た。めくれた商店街の景色は歪みもなく、簡単に元に戻ろうとしていた。
「あの!」
おれは切れ目から景色をばさりとめくった。はっと君がこちらを見た。おれはずかずかと茜色の空の下にいる君のほうへと歩き出した。足元は砂だった。星砂? そう思って、立ち止まる。ここはどこなんだ?
「あなた、わたしの隣によくいる人だよね」
君は思いがけないしっかりした低い声でおれに訊いた。
「どうしたの? ここに来てしまったら簡単には戻れないよ」
おれは慌てて君を見る。海を背景にした君は、秋服なのもあって何となくちぐはぐだ。
「ここはどこ? 海が何だかすごくきれいだけど」
「わかんない!」
君は快活に笑う。
「わたしがイメージしたきれいな風景の一つでしかない」
おれがきょとんとしていると、君はにんまり笑っておれに説明した。
「そちら側のあなたたちはできないけど、こちら側のわたしたちは世界をめくれるの。めくってその向こう側に行って、その先を理想の場所にできる。それだけだよ」
「君は何者? そちら側とかこちら側とか、よくわからない……」
君は首をかしげて不思議そうにおれを見る。
「わたしたちにとっては当たり前なんだけどね。わたしたちは他の世界を自由に行き来できるの。めくることでね」
「君たちは宇宙人? 未来人?」
恐る恐る質問したおれを、君はあははと大声で笑う。
「むしろわたしたちにとってあなたたちが違う世界の人間で、わたしたちは自分たちを『人間』としか意識してないけど。あなたたちのほうが何だか変なんだけどね」
おれは黙った。君は何だか憐れむような目でおれを見つめ、少し近づいてきた。
「あなたはわたしに話しかけたかったのかな?」
「うん」
「多分あなたはがっかりするね。あなたたちの世界では、見た目が好悪の多くを左右するから。あなたはわたしのことが好きなんでしょう?」
顔が真っ赤になるのが分かった。君はくすくす笑い、
「あなたはこちら側の世界を知ってしまったから、これも教えておこうと思う」
君はいきなり体を曲げ、自分の少し長いスカートをめくった。ぎょっとしていると、そのスカートをバッと思い切り持ち上げ、自分の体に被せるような、長さからしてありえないような動きをした――と思っていた。
君は金髪に緑色の目の、おかっぱ頭の女の子になっていた。着ている服も、青いピタッとしたTシャツと褪せたジーンズになっていた。おれは目を疑った。さっきいた君はどこかに行ってしまったと思った。制服を着た、眼鏡に三つ編みの大人しそうな女の子。
「どう? 嫌いになった?」
女の子はさっきの君と同じ声で言った。
「わたしたちこちら側の人間には『本当の姿』なんてものはないんだ。景色をめくって理想の場所に行けるように、体をめくって別の姿になれる。嫌いになった?」
わからなかった。嫌いかどうかなんて、この驚きを落ち着けるまではわからないと思う。
「……その恰好、めくるものがなさそうだけどどうやって姿を変えるの?」
君は意外そうに笑い、あのね、と自分の髪の分け目を両手で引っ張った。すると髪は二つに分かれ、顔はグロテスクに割れて、ぺろりと次の頭を覗かせた。次の姿は男の子だ。五歳くらいで勇敢そうな。でも君は分け目を一瞬で元に戻し、
「今はこの姿の気分だから」
と金髪に指を入れてうっとりと眺めた。
「いいな」
ふと自分の声がして、君の反応を見て本当に発していたのだと気づいた。
「本当の姿がなくて、行きたい世界に行けて、すごく自由じゃないか。羨ましい」
「そう? 当たり前だからわかんないな。でもあなたたちの生活はとても大変だとは思うね」
「どうしておれたちの世界なんかに来るの? つまんないだろ」
君はにこにこ笑っておれに白い文庫本を見せた。ついさっきはこんな本、持ってなかったのに。
「これ、『えーえんとくちから』。この間わたしが読んでた本。これ、こっちの世界でも出たんだけど、すっごく面白くてね。そっちの世界のバージョン違いを読みたかったんだ」
唖然とする。それだけの理由でこちら側に来ていたのか。
「こっちでは入ってる作品が入ってなかったりするんだけど、逆にこっちにはないのに入ってる作品があったり、微妙に違ったりするんだ」
どうやら彼女は詩歌のマニアらしい。そのために色々な周辺の世界に行くのだという。
「姿はそっちで溶け込めるようなものに。文学少女の姿をしてみたんだ。溶け込んでたでしょ?」
おれはどう答えればいいかわからなくなりながら、とりあえずうなずいた。
「さあ、あなたももう戻らなきゃね。わたしも家族と会わなきゃいけないし」
「こっちでも家族なんてものあるんだ」
もっと自由だと思っていたので、少し驚いて訊いた。君はうなずき、
「親やきょうだいはいるよ。わたしたちって自由だから、あんまり自由すぎて生きてる意味を見失わないように家族には会うものだということになってるんだ。そうしょっちゅうは会わないけどね。二人の親と、先に生まれたきょうだいと、あとで生まれたきょうだい。どう? 同じでしょ?」
「同じじゃないよ」
おれは少し憤慨したような気分だった。うちの家族と君の家族は、全然違うと思った。おれは家から逃げられないのに。
「わたしは親の一人がずっと恐竜だから嫌んなっちゃうけどな。家族ってある程度大きさを擦り合わせするもんなのにね」
わけがわからない。おれは君を見て怪訝な顔になったらしい。君はにこっと笑った。
「自由だからってずっとティラノサウルスになられても困るよね。何かあったらすぐ走り出して地面揺らすしさ。下の生まれたばかりのきょうだいは、二人とも姿が決まらなくて目がちかちかしちゃう。作り出す風景も共有できないからぐちゃぐちゃ。ちょっと嫌かな」
自由なのも大変だということらしい。それでもおれは羨ましかった。君はとても自由で軽やかに見えた。とても素晴らしい世界に生きていると思った。
「じゃあ、区役所に行って元の世界に戻る手続きをしに行こうか」
君は微笑んでおれの前を歩き出した。砂の上を指でなぞり、そこに切れ目を見出すと、思い切りめくった。ガラスの城のような建物が目の前にあった。
「さあ、くぐって」
君はおれをうながした。