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 知ってる。この古本屋の店主は雨の日の客が嫌いだって。雨の日の客は傘を差してくる。雨の日の客は濡れた傘を店内に持ち込む。雨の日の客は湿った空気を漂わせる……。飴色に光る木のカウンターに寄りかかった店主はおれをちらりと見て、別に嬉しくもなさそうな、むしろ来やがったかという顔で古びた単行本に視線を戻す。わかってる。おれが招かれざる客だって。濡れた傘を持っているって。でも傘は折り畳み傘だし、コンビニでフライドチキンを買うときにもらったビニール袋にしまっている。いいじゃないか、おれがここにいたって。

 雨音がやけにうるさい。かなりよく降っているから当然だ。店内は狭くて黴臭く、雨の日だから余計に臭う。入り口近くの大きな本棚には最近出版された文庫本がどっさり雑然としまわれ、型の違う背中合わせの本棚には単行本が並んでいる。奥のほうや作りつけの壁の本棚には、谷崎潤一郎や夏目漱石や太宰治の古い初版本が目玉の飛び出るような値段表示で置いてある。臭いはこれら古本中の古本から発生しているに違いない。おれはそそくさとビニール袋に入った折り畳み傘を通学用のリュックに入れ、しっかりとファスナーを閉め、目当ての文庫本の棚の前に立っていた。ジェラルド・カーシュ「壜の中の手記」。値段は三百円。当然中学生のささやかな小遣いでも買えるが、あえて買わずにここで読んでいる。今日はどこから読むんだっけ……。「豚の島の女王」から「凍れる美女」まで読み終えたので、次は「骨のない人間」だ。びっしりと整然とした文字で覆われた右ページの次の、左ページ。「骨のない人間」というタイトルが、紙の薄さゆえに裏側の次ページの文字がうっすら見える中に忽然と浮かんでいる。おれはドキドキしながらめくった。

 隣に君がいた。見たことのない秋の制服、白い顔の、淡い色の三つ編みの少女。横目に見ると、君は熱心に文庫本を読んでいるのでおれの視線に全く気づいていない。細いメタルフレームの眼鏡がずり落ち、君は曲げた人差し指でそれを押し上げる。本は笹井宏之の「えーえんとくちから」。真っ白な表紙なのですぐわかる。内容は、今のおれにはよくわからない。シュールすぎて。おまけに歌集なので、五七五七七のリズムですら読んでいてつっかえる感じがするおれには向いていないと思う。君とおれとは趣味が違う。君は詩歌に興味があり、おれは物語に興味がある。君は新しい言語表現を理解できるが、おれは昔ながらの、しかもシンプルなものしか読めない。君が今読んでいるのは新鋭の歌人のみずみずしい短歌で、おれが読んでいるのは百年前に書かれた、探検隊がどうの、怪奇と超自然がどうの、といった内容の短編小説だ。あまりにも相容れない。

 君はいつも雨の日に現れる。だからおれはこの古本屋で立ち読みをする。店主は迷惑だろうが、どうしても気になるのだ、君のことが。君はいつも横顔だ。頬はうっすらと桃色で、唇は小さくて赤く染まっている。黒目がちの目の、真っ直ぐに本のページへと視線を送る君。正直に言おう。おれは本の内容がほとんど頭に入っちゃいない。ただただ、君を盗み見るのを楽しみにここに来ているのだ。君が読みかけた本はいつも把握している。はっきり言ってストーカーだ。けれどこれがおれの楽しみなのだ。

 君が帰るところを見たことはない。君はいつの間にか消えている。気づいたらおれは本に夢中になっていて、横を見ると君はいなくなっているのだ。今日こそ見ようと思っていた。君の後ろ姿を。だから今日は本を一文字も読まないのだ。

 君がぱたんと本を閉じた。どうやら最後まで読み終えたようだ。満足しきった微笑みを浮かべ、君は一歩足を引く。足元に置いていた鞄を揃えた細い指で持ち上げ、くるりと、後ろ姿を見せる。ブルーグレーの膝丈のプリーツスカートと、白いブラウスによく合うスカートと同じ色のベスト、細い足、靴下は白のくるぶし丈で紺色のワンポイントがある。細身の体を軽くねじり、スカートをなびかせ、君が通路を真っ直ぐに歩き出すと、それらのよじれもなくなる。ただ君の体の上下の動きと、足の前後運動がある。おれはふらふらとついて行く。君は店の出入口にあるアルミサッシの引き戸を迷いなく開き、体を出して閉じる。雨が降っているのに、傘もなく。ドキッとして自分の傘を取り出しながらおれはついて行く。さほど広くもない薄暗い雨の街の道路に、君は平気で踏み出した。それからしゃがんだ。薄暗い雨の風景の端をつまみ、その左手をすっと上げ、白く明るい「向こう側」をあらわにした。まるでカーテンをめくるように、君は景色をめくってその内側に入り、薔薇の咲き誇る晴れ空の庭園に入って伸びをした。それが閉じていくカーテンの向こうに見えた。

 おれは走り出した。ガタガタと引き戸を開き、雨の道路に体を出す。大粒の雨に濡れる。彼女のいた位置には何もなく、古本屋の向かい側は床屋で、中では相変わらず老人と言ってもいい愛想のいい店主が客の男の子の髪を切っている。床屋の両隣は花屋とシャッターの下りた洋品店で、道路には人気がない。チリンチリン、とベルが鳴り、傘を差しながら進む中年の男性が迷惑そうな目でおれを見ていた。進行方向にいたのが目障りだったらしい。おれはびしょびしょになった中学の制服のまま、とぼとぼと歩き出した。突然始まった君のとてつもない謎のせいで、おれの頭は白く濁ったまま思考らしいものも生まれなかった。

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