アザミの頃
川辺に咲いたアザミは、緩やかに傾く夕陽に照らされ一層その色を深くした。
あの葉を縁取るトゲで指先を傷つけたのは、確か今日のように山菜を摘みに行った時だった。千津は腰にくくりつけた、山菜で一杯になった篭を邪魔にならぬようずらし、湿った草の上にしゃがみこんだ。なだらかな斜面の下には真っ赤な川面がゆらゆらと揺れ、千津の視界を隈無く染め上げる。それは千津の記憶の中の、過ぎ去った懐かしい景色にぴったりと被さった。
小さな手でアザミに手を伸ばした後、人さし指の腹から赤い血の玉がぷっくりと浮き出たことを、千津は昨日のことのように思い出せる。幼かった時分の指先は、皮膚も柔らかく、綺麗とは言えなくともこんなに荒れてはいなかっただろう。
硬くがさがさとした手を見つめ、千津はそこにそっと息を落とす。すると掌に走る皺が支流のように広がっていった。
貧しい村の子どもらの中で、太一は一番賢い子どもだった。
大人の行動をよく観察し、また大人達の説教混じりの話も聞き流さずにいつも理解しようと努めていた。病がちな母親を寡黙な父親と一緒に支えながら熱心に働く太一を、村の大人達は感心しながら見守り、自分の家の子どもにしっかり見習うようその様子を話してみせた。
だから、村の子ども達数人とコブ山に山菜摘みに行った時、小さく足の遅い千津の手を引いたのが太一だったことを、千津は幼心にも頼もしく感じていた。千津が五つ、太一が十一の時だった。
その日、一緒に来ていた千津のすぐ上の兄は、先を行く友人達に追い付きたくて、山に入る手前で足手まといの妹をいつものように睨み付けていた。「遅い! 千津はもう帰れ!」そう言い放ち追い払おうする兄に、千津はイヤイヤと首を横に振る。
やっとで長い冬が終わったのだ。雪が積もるような土地ではないけれど、それでも寒さが厳しいことには変わりない。村の者は吹きすさぶ風の中、皆身を寄せあって暖を取り、かろうじて蓄えた侘しい食料を分けあい、この冬もどうにか乗り切った。春を迎えた喜びは、まだ小さな千津にも肌身を持って感じることができた。
コブ山はその名の通り、大地からにょっきり生えた瘤のような形をした比較的小さな山だ。小さいながらも村に様々な恵みを与えてくれるので、村の者は皆この山に大層感謝していた。隣村の一回り大きな山には熊も出るそうだが、コブ山で熊を見たものは一人もいない。大人達はそれをよく知っていたので、子ども達だけの山菜摘みをーー採りすぎないようよくよく注意してーー許していた。この時期山に入ることが、子ども達の数少ない楽しみの一つだと、自分達の経験を踏まえ分かっていたからだ。
だから、勝ち目がないと分かっていても、千津はそうせずにはいられなかった。太一がその場に居合わせたのは、千津にとって大きな幸運だったと言える。事実、苛ついた兄と駄々をこねる千津を見かねた太一が「もう止めェ。千津は俺が連れてく」と仲裁してくれなければ、千津はいつものように兄に蹴飛ばされ泣く泣く家に帰るはめになっていただろう。一行の先頭には山に詳しい茂吉と、しっかり者の最年長の妙がいる。自分が千津と一緒にいても問題ないと、太一は判断したようだった。
「千津、まだ歩けっか?」
繋いだ一回り大きな手に込められる力が、少し強くなったことを受け、千津はこくりと頷いた。
「足ィ痛くなったらちゃんと言え」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、太一の切れ長の瞳には労るような光が覗く。先頭を行く子らとはだいぶ距離が空いてしまったけれど、千津に心細さはなかった。
太一の母親は太一を産んだ後、床に伏すことが多くなり、太一の他に子を成すことができなかった。そんな事情もあってか、村では珍しく弟妹のいない太一は、その分、近所の年下の子ども達の面倒をよく見ていた。子ども達の方も自分をいささか邪険に扱う実の兄姉より、口数は少ないけれど穏やかな太一によく懐いた。そして、それは五人兄弟の末っ子である千津も、もちろん例外ではなかった。
春先の、よく晴れた日だった。それでも山の中はひんやりとした空気を保ち、生い茂る木々の枝葉で射す光は細かく割れどこか薄暗かった。細い滝を有しているせいか水の気配があちこちに漂っていて、湿った緑の匂いが辺りを満たしている。
「太一ィ、足、痛ぇよォ」
助けてもらった手前、疲れを我慢していた千津だったが、歩むにつれ次第に険しくなる山道に、ついに音をあげた。込み上げる情けなさを言い表すことも出来ず、あどけない眼にみるみる涙が浮き出る。
「オウ。分かったから泣くな。もうすぐで沢に出る道だ」
そう言って太一は千津に背を向けしゃがみ、おぶさるよう促すと「イヨッ」と掛け声を上げ千津を背負った。
太一の背中は、村の子ども達が皆そうであるように痩せて骨張っていた。それでも日頃の畑仕事の賜だろうか、その足取りは存外しっかりしており、かろうじて踏み均された道をザクザクと力強く踏み締めた。千津に出来ることといえば、若木のような背中に貼り付き、せいぜい振り落とされないようにすることぐらいだった。
荒くなる太一の息と、目覚めたばかりの山の土の匂いが混じり合う。どこからかギィィと軋んだ響きで野鳥の声がしたかと思えば、それは瞬く間に羽ばたきに変わり木の葉を揺らした。
太一の言った通り、沢に着くまでさほど時間を要しなかった。足場の悪い下り道で、千津をその背から降ろすと、太一は千津の手を引き先導するように歩きながら、ゆっくりと水辺に近付く。
「ホレ、そこに足浸けて冷やしてみィ」
ごつごつと並ぶ岩の一つに千津を乗せ、太一は千津のくたびれた草履を手早く脱がせた。千津が恐る恐る流れる水に足を浸すと、皮膚が縮こまるような冷たさが、足裏から駆け上る。反射的に足を引き上げる千津を見て、太一が可笑しそうに笑った。気恥ずかしさと悔しさで口をへの字に曲げながら、千津は意を決して今度は勢いよく飛沫をあげながら足を突っ込んだ。
「つめて」頬に跳ねた水を、太一が手の甲で拭う。その様子に何となく気が晴れて、千津は満足げに両足で水の中をかき混ぜた。
ふくらはぎの辺りを、穏やかな流れが通り過ぎていく。澄んだ水の奥で、自分の足の輪郭が揺らぐのを千津はじぃっと見入っていた。しばらくの間そうしていると、不思議なことに先程のような冷たさを感じなくなったことに気付いた。
「どうだ、痛ぇの引いたか?」
太一の声に、千津は足を持ち上げつま先を二、三回曲げ伸ばしてみせた。
「うん」
千津がそう小さな声で答えると、太一は「よし」と頷き、首に巻いたぼろきれのような手拭いで千津の足を手早く拭いてやる。千津は自分の家族よりもうんと優しいその手付きに、嬉しさと照れくささが一気に押し寄せ、俯きながら太一の旋毛をだんまりと見つめることしか出来なかった。
沢を立ち去る時、群生しているミズに気付いたのは太一だった。これ幸いと、二人黙々とミズを摘む。額に滲む汗もそのままに、このまま手ぶらで帰してしまったら、太一に申し訳ないという思いが千津の手をせっせと動かしていた。もちろん、家族に馬鹿にされたくないという意地もそこにはあったけれど。
「こんなもんでええ」
太一がそう言って立ち上がり、ぐんと大きく背伸びをする。しゃがんだ格好のまま隣にいた千津は、太一が急に大きくなったように見えて思わず尻もちをついた。太一は呆れたような顔で千津を見つめ、そっと手を差し出す。太一の細かな傷だらけの指先に手を伸ばしながら、やっぱり千津は泣きたくなった。絶え間なく聞こえるせせらぎは穏やかで、川面にはきらきらといくつもの光が踊っていた。
結局、時間が経ちすぎていたこともあり、二人はそのまま下山することにした。ミズが生えていて良かったと、千津はこっそり胸を撫で下ろす。心持ち軽やかな足取りで帰り道を歩いていると、登っている時にはなかった周囲の景色を楽しむ余裕すら出て来た。
「あ、お花ァ」
鮮やかな色に誘われ、繋いでいた太一の手を振り切って、千津は山道の脇に咲いていたアザミに駆け寄った。
あれを摘んで家にいる母にあげたら、どんな顔をするだろうか。いつも疲れを滲ませた母の顔を思い浮かべると、千津はどうしてもアザミを土産に持って帰りたくなった。「おい!」太一の制止する声も気にせず、家の周りですみれを摘むように躊躇いなくそれに手を伸ばすと、千津の指先に引っ掻くような痛みが走った。
「……ッ!」
声にならない声で叫び手を引っ込めても時既に遅く、丸い指先についた薄い引っ掻き傷から、小さな点の赤が浮き出る。しくしくと痛むそこを千津が見つめていると、千津の肩を太一が軽く叩いた。
「触れてくれるなとさ」
まだ声変わりもしていない、太一の柔らかな声が千津の頭上に降る。太一の発した短い理由を、千津は無理やり飲み干し、項垂れながらも小さく頷いた。太一はあれが棘のある花だと知っていて千津を引き留めたのだ。千津は物知らずの自分が無性に恥ずかしかった。
コブ山を下りると、一緒に来た子どもらはどうやら千津達を待っていてくれたらしい。二人が一行に向かって大きく手を振ると、そこかしこで散り散りになり遊ぶ元気のよい声を掻き分けて、ひょろりと背の高い少女が太一と千津の方へ駆け寄った。妙である。
「あんたら、今までどこ行っとったの! 太一、あんたついとってまさか迷ったんかァ?」
息を上げ捲し立てる妙にすっかり縮こまる千津とは対称的に、太一は眉尻を下げた情けない顔でジッと妙を見つめていた。千津は太一が泣いてやしないかと心配になり、二人の様子をそうっと仰ぎ見る。するとそこには、いつものしっかり者の太一ではなく、年相応の素朴な少年が立っていた。そしてその少年が叱られながらもどこか嬉しそうな表情をしているのを見て、千津は心の中で何度も首を傾げたのだった。
それから月日は過ぎ、太一が妙を見つめていることを、太一ばかり見つめている千津が気付くことは半ば必然だった。太一の視線を辿れば、そこにはいつだって妙がいた。自分とは違い、太一と歳も近く、明るく優しい妙。太一がそんな妙を好きになるのは当然と思う気持ちと、どうにも割り切れない気持ちを千津は次第に持て余した。
十になった千津にしてみれば、十六の太一はもうすっかり青年で、これが色恋なのか、兄のような存在としての思慕なのか千津自身にも判然としないものだった。
「千津、それ終わったら時蔵さん家までお使い行っとくれ」
土間で井戸から汲んだ水をこぼさぬようそうっと水瓶に移し替えていると、母親が開けっ放しの戸から顔だけ覗かせてそう言った。
「なんのお使い?」
「うちの鍬が駄目になって時蔵さんとこから借りとったろ。それ返しに行っとくれ。外に出しとるから。ちゃんとお礼も忘れずにな」
「うん」
井戸と家の往復に、すっかり飽きていた千津は調子良く返事をした。すきま風のたくさん入る表の木戸に、立て掛けてあった鍬を両手で抱え、細っこい肩に乗せる。妙の実家でもある時蔵の家は、田んぼを四つ跨いだ所で、太一の家の前も通ることになる。
太一、会えるかな。
父親と一緒に田んぼや畑の世話に精を出す太一には、近所の子どもらを相手にする時間は今はほとんどない。貴重な働き手である太一は、家の仕事の他に、近所の手伝いもこなさなければならなかった。支え合わなければ、生きていけない。もちろん千津も、その辺のことは弁えていたので、たとえ太一を見かけたとしても、遊ぼうとねだるつもりはなかった。ただ、一目見て、運が良ければ、手を振り合う。それだけで千津は、今日という日を輝かせることが出来る気がした。
運が良いことに、太一は家の前の田んぼに出ていた。初夏の陽気に屈めた腰を伸ばし汗を拭うと同時に、一段上の畦道に立つ千津に気付く。
「オウ、千津。お使いか?」
あの頃とは違う低く通る声に、千津はどきりとしながら、こくこくと頷いた。
「気ィつけて行けよ」
たったそれだけのやり取りに千津の頬はカッと熱くなる。そんな自分を知られたくなくて、鍬の柄をぎゅっと握りしめ、千津は足早にその場を去った。
「こんにちはァ。五郎んとこの千津です」
家と似たような作りの土間へ回り、大きく声を張る。すると薄暗い居間の奥から嗄れた声が聞こえた。
「入りィ」
土間の端に邪魔にならないよう鍬を立て掛け、千津はそそくさと上がった。黴た匂いのする居間の奥には、案の定、煎餅布団に横たわった老婆がいた。
「ヨネ婆、時蔵のおじちゃんは?」
「みんな今は裏の畑ェ行っとる。今日はどうした」
ほんの少し開いた居間の戸から射し込む光に、埃がきらきらと舞う。骨と皮だけでできたような老婆の声は、存外しっかりしていて、窪んだ瞳にもまだ強い光が宿っていた。
「うちが借りとった鍬、返しに来た。土間ん所に置いとるから、おじちゃんにもありがとう言うとったって、伝えて」
「オウ、そりゃご苦労さんだったなァ。お前んとこは、みんな元気かァ?」
「うん。今度、二番目の兄が嫁さんもらう」
「ああ。佐助んとこの娘っ子とだったか」
「うん」
家から出ることもないこの老婆が、どうしてこんなに耳が早く事情通なのか千津はいつも不思議だった。
「近頃は目出度ぇことが続くなァ。うちの妙も、嫁ぎ先がようやっと決まったんだ。昨日のことだけどな」
老婆のその言葉に千津の心臓が高く跳ねた。がんがんと鳴り響くような鼓動を感じながら、皺の寄った唇を嬉しそうに上げる老婆にこわごわ尋ねる。
「だ、誰に嫁ぐの?」
「隣村の鱒二だ。そう言うても、お前にゃ分からんだろ? うちの親戚筋ってェとこだ」
太一じゃない。太一じゃなかった。
その事実は、千津の鼓動を宥めるように駆け巡った。その一方、太一の妙を見つめる眼差しが蘇る。長年、太一を見続けていた千津には、太一が妙を好いていることも、心はともかく頭の上ではよくよく理解していた。
太一はこのことを知っているのだろうか。妙の結婚相手が太一ではなかったことに安堵すると同時に、太一のことを思うと千津は胸が締め付けられるようだった。
喋り疲れ声音を落とした老婆に別れを告げ、千津は帰路につく。太一と久しぶりに言葉を交わし、くすぐったいような浮かれた気持ちはすでに無く、打って変わって重い霧に覆われたような心地だった。
その晩、どうにも寝付けなく、千津は所狭しと寝転ぶ家族の寝息を追いかけながら無理やり目を瞑った。
きっと妙の相手が太一だったら、自分はすっかり落ち込むだろう。どんな名目でも、千津が太一に好意を寄せていることには変わりなかった。しかしだからと言って、太一の失恋を喜ぶ気持ちにも、千津はどうしてもなれなかった。
身をよじり寝返りを打つ。なかなか訪れない眠気に業を煮やし、千津は皆を起こさぬよう静かに起き上がり、慎重な足取りで家の外へ出た。昼の陽気と比べ、夜は涼やかな風が吹いて過ごしやすく、千津は胸の靄を吐き出すべく大きく息を吸った。蛙と虫の声が、競うように響いている。もうすぐで真ん丸になりそうな月のお陰で、随分と周囲は明るい。普段は臆病な千津も、月の明るさに気を大きくし、普段なら決して歩くことのない夜道に足を踏み出した。
太一の家がある方向とは逆にある、コブ山へ続く川縁に向かったのは、千津が無意識に自分と太一の思い出を辿りたかったからなのかもしれない。
川の流れを聞きながらとぼとぼと歩いていると、ふと視界に川縁に座る人影が見えた。
「誰?」
幽霊でありませんように。
肩を小さく震わせ、千津は絞り出すような声で問いかける。こんな夜更けにまさか人がいるなんて。そう自分のことは棚に上げて千津は人影を凝視した。
「……その声、まさかお前千津か?」
ずっと頭を悩ませていた相手の声に、千津は無意識に駆け寄った。太一の側なら安全だ。そうほっとしたのは、やはり夜の散歩などという慣れぬことをしていたからなのだろう。
「阿呆! こんな夜に家ェ抜け出しよって! 帰るぞ」
千津を認識するや否や、太一がサッと立ち上がり、千津の手首を掴む。いつも穏やかな太一とは違う怒りを孕んだ声に、千津は驚き、ついに泣きべそをかいた。
えぐえぐと言葉にならない声が闇に響く。我に返った太一が、頭を掻いて困り顔で千津を見下ろしていた。
「……寝れんかったんか?」
こくりと千津が頷く。太一は掴んでいた手首を離し、ぽん、と大きな手を千津の頭にのせた。
「驚かせて悪かったな。でも、夜に出歩いちゃァいけん。落ち着いたら送ってやるから、おとなしく帰るんだぞ」
そう言って、どさりとまた腰を落ち着ける太一の横に、千津もおずおずと腰を下ろす。泣き声の名残のようなしゃっくりが、不格好な音程で時折こぼれた。
川の流れは見えずとも、せせらぎの音が途切れることなく聞こえていた。明るすぎる月が、太一の精悍な横顔を照らす。もうすっかり大人のなりをしたそれは、どこか寂しげに見えた。
太一は、泣いてたの?
赤子のように泣いていたのは自分なはずで、隣にいる青年の目元には涙の跡もないのに、千津はふとそんな気がしてならなかった。
「太一は、なんでここにおったの?」
疑問を疑問のまま、千津の幼さが投げかける。太一は川のずっと向こうに目をやり「なんとなくな」とだけ呟いた。
千津が気付くにはそれで充分だった。太一はきっと妙の結婚の話を耳にしたのだろう。太一の視線はいまだ遠くにある。自分には決して向けられることのない、このやるせなさをどう表せばいいのか、千津には分からなかった。夜空の端には、月の輝きに追いやられた星が小さく瞬いていた。
妙の嫁入りは秋の晴れた日に行われた。貧しい村だったけれど、皆でご馳走を持ちより、精一杯祝った。たくさんの人に囲まれ、いつもより上等の着物に袖を通した妙は、知らない女の人のようにしとやかに微笑んでいた。
きれい。千津はうっとりしながらその様子を眺め、そっと感嘆のため息を漏らした。ヨネ婆も、この日ばかりは横になっているわけにはいかなかったらしく、縁側で妙の母に支えられながら、旅立つ孫を涙ながらに見送っている。
妙の家の前に集まった人混みを縫いながら、千津は太一を探した。すると、酔った男衆とは少し離れた所で、太一が柱に寄り掛かり出立する妙の後ろ姿を眺めているのが見えた。
目を細め、眩しいものを見るかのように妙を見つめる太一は、幾ばくかの苦味を含んでいても、いつも千津が見ていた『妙を好きな』太一だった。
太一は結局最後までその場を離れずに、妙の後ろ姿が小さくなっていくのを片時も目を逸らさずに見送った。千津はその姿を見て、妙の晴れ姿を手放しに喜べない自分を恥じ、太一を恨めしいとすら思った。
まだ騒ぎ足りない大人たちを残し、兄姉に連れられ家に帰った千津はいてもたってもいられず、夕暮れの空へ再び飛び出した。
向かう場所は決まっていた。いつかの川縁だ。
急ぐ足に、草履の鼻緒が食い込む。
太一。太一!
ままならなさに、悔し涙が浮かぶ。それでも千津は走らずにはいられなかった。
息を切らせて辿り着いたそこには、やはり目当ての人物がいた。身体中を茜色に染めた太一は、あの夜と同じように川縁に座り遠くを見つめていた。千津は呼吸を落ち着かせて、太一にゆっくりと近付く。太一は千津に気付き目をやったが、何も言わずにまた視線を戻した。
風が、ひとすじ千津の乾いた髪をなびかせた。太一の隣に今度は躊躇うことなく座る。緋色を散らした雲と、ぽとりと落ちそうな夕日が二人を包んでいた。
「太一……」
太一の横顔にかけた言葉は、どうしても続かなかった。どんな問いかけも、どんな答えもそこにはないような気がして、千津は途方に暮れ、俯いた。
「アザミと一緒だ、千津」
太一の低く優しい声音に、千津はハッと顔を上げる。
太一は眉尻を下げ、手の掛かる妹に向けるような眼差しを向けていた。そのどこか情けない顔は、妙にこってり絞られた時と似通っていて、千津の手を取った少年の頃の太一に重なった。
「触れてくれるな、とさ」
太一はきっと、自分に向けられた千津の淡い恋心に気付いているんだろう。千津はその結論がストンと胸に落ちるのを感じた。
触れなければ傷つくことはない。いつだって優しい太一らしい言葉が、千津に小さな刺し傷を作る。
千津はその時、ようやく太一のことがとても好きなのだと分かった。分かってしまった。幼いながらも、傷つきたいと、思うぐらいに。
夕陽の最後のひと欠片が薄くなり消えていく。千津は立ち上がり、緩んだ篭の紐を腰にくくり直した。
心配性の夫が、帰りの遅い嫁に気を揉んでいるかもしれない。そう思うと心なしか、気が急いてくる。
せせらぎは今も変わらずさらさらと心地よく音を立てている。あの流れの先はどんなふうに枝分かれし、どんなふうに続いていくのだろう。
今なら、千津はアザミを恐れずに触れることができる。そして、手折らずに愛でることも。それでも、あの日触れてくれるなと言った、不器用な気持ちを、たとえ何度過去に戻ろうとも無下にすることは出来ないだろう。あのままならなさも、切なさも、塞き止めようもないものだったのだから。
陽の沈みきった月の細い空に、一番明るい星が瞬く。千津の背中を追うように、せせらぎはいつまでも鳴り響いた。