お悩み 弾けた
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うーん、どうしようかなあ。
いやね、この先にコンビニがあるでしょ? そこでアイスを買っていこうかどうか、悩んでいるんだよ。
――そんなもん、考えるくらいならとっとと買え?
いやあ、そうなんだけどさ、アイス一本で店の中に入るのって気が引けない? どうせ来たんだから、他のものを買っておいた方が役に立つかも知れないし、店の人だってアイス一本に貴重な時間をかけさせるの、もったいなくない?
――変な考え方?
へえへえ、すいませんでしたねえ。君にとっちゃ意味わからないことかもしれないが、僕にとっては大問題なんだよ。
「蓼食う虫も好き好き」って、ことわざもあるじゃん。人の好みは多様性に富んでいるって意味で。あれ、人の持っている悩みにも当てはまるんじゃないかと、僕は感じるんだよねえ。この流れで本人が話すのも、どうかとは思うけど。
その人がいつ、何を悩んでいるのか、考えているのか。心をのぞけない以上、そいつは本人にしか分からない。つまりはひとりで抱え込んでいるわけで、そこに気づいた「何か」があるとつけこまれちゃうらしいんだ。
悩みごと、考えごとに関する昔話、聞いてみないかい?
僕の兄がまだ学生だった時の、英語の時間。
英語を担当する50がらみの先生は、発音に自信があったようだ。その日、学習する教科書内容。その全文を、まずは自分が朗読する。棒読みよりはマシだけど、どこか気取った日本語なまりが目立ち、ネイティブのそれには程遠い。
受動的な時間ほど眠気と退屈を誘うものはなかった。兄自身も教科書を開きながらも、今日は学校帰りに何を買い食いするかに、意識が向いていたとか。
授業が好きで学校に通っているわけじゃない。親に「無遅刻無欠席で通えば、評定にいい影響が出るから」と推されて、何となくだ。友達との絡みもつまらないわけじゃないけど、登校中、下校中にふと脳裏をよぎるのは、かったるさだ。
――もっと自分の思うままにやりたい。でも、それを実行に移すだけの度胸もない。少なくとも通学さえしていれば、親から小言をいわれることもないんだ。
でも、いい学校に行くためにいい子ちゃんをして、いい企業に入るためにいい子ちゃんをして、いい子ちゃんのまま老いていく……それ、本当にいいことなんか?
悶々として晴れない憂さを思うと、何かを口に入れずにはいられない。
自分の財布の中身を想像する。小遣い日の直前で、あまり余裕はない。いつもなら肉まん3個ぐらいは買うが、今日は1個と駄菓子の組み合わせでいくか……。
そんなことを考えていると、不意に「こつん」とつむじに小さい衝撃が。叩かれたんじゃなく、ぶつけられたという感触に近い、小さいものだ。
消しカスでも飛んできたかと、背後を見やる兄。後ろの二席のうち、真後ろの生徒は机に突っ伏して眠っていた。最後尾の生徒は先生が読む部分を、シャーペンの先でなぞりながら熱心に聞いている。消しゴムを机の上に出してはいなかった。
気のせいかなと思いつつ、兄は前へ向き直る。もう先生の音読は終わりに差し掛かっていた。
放課後。兄はひとり、校門の外へ。行きつけのコンビニまでは徒歩5分。さほど時間はかからないはずなのだけど、今日は違う。
自分の歩く狭い歩道。その前をキャスターのついた旅行鞄を引く、おばあさんが歩いている。そのうえ面倒なことに、通せんぼするかのごとく横幅いっぱいに鞄の持ち手を伸ばしていて、少しむっとした。
――どうすっかなあ。声かけてどいてもらうか? それともこのままついてくか?
いつもなら前者を選んでいたけれど、このおばあさん、喪服姿だった。もしも葬儀の帰りだとしたら、そっとしておいた方がいいんじゃなかろうか。
そんな考えが浮かんだ時、また頭に「こつん」と来た。背後を見回してみても、一番近い人から数十メートルは距離がある。何かしら投げて自分にぶつけたとしたら、もっと痛いはずだ。
ぶつけられた箇所に手をやりながらも、足は止めない兄。結局コンビニ前の横断歩道でおばあさんと別れるまで、その後をついていったんだそうだ。
その後も、兄は些細なことで悩んでしまう。例のコンビニの中では選ぶ駄菓子に時間がかかったし、買った肉まんのグラシン紙についた皮をかじろうかどうしようか。ポイ捨てするかしまいかなど、いずれも実行に移すまで悩むワンクッションを挟んでいた。「おかしいぞ?」と思いながらも、考えは止まらない。
家に帰ってからも同様だ。夕飯の時、兄はそっぽを向きながら箸の先をさまよわせていたのを覚えているよ。珍しいことだから、印象に残っている。
言葉だけ聞けば、可愛いものだ。でも、昼間からずっと色々なことを考え続けていた兄は、ほとほと疲れていた。その日は軽くご飯とたけのこの煮つけをかじっただけで、席を立ってしまう。
そして自宅でも悩むたび、兄のつむじには「こつん」と何かがぶつかる感触が続いたらしいんだ。
翌朝。眠っていた兄は、鳥の羽ばたきの音を聞いた気がして目を覚ました。普段、起きる時間よりも1時間ばかり早い。二度寝ができる。即決。
兄が再度、まぶたを閉じかけた時、またつむじから音がしたんだ。今度は「こつん」じゃない。「ぱあん」と、クラッカーが弾けたものに近かったらしい。
兄はぱっと飛び起き、頭に手をやる。昨日、幾度となく触れたつむじのあたりに、少しこぶができている。蚊に刺された跡の小さな膨らみと、そっくりの指ざわり。
この時、兄は「おかしいな」とは思わなかったらしい。ただ、「ああ、できてるな」と感じながらも、当初の予定通りに二度寝を始めちゃったとか。
それから一時間後。兄は起きてこなかった。何かあってもいいよう、早めに設定していた時間だから多少は遅れても大丈夫。家族全員の弁当を用意していた母親も、当初はさほど問題にしていなかったらしい。
しかし、父が起きてきて、僕が起きてきても、まだ兄は姿を見せない。そろそろ起床予定時間を45分オーバー。時間の「貯金」は尽きようとしている。僕たちの前に食事を並べ終わると、母が階段の下から二階の兄へ起きるように呼び掛けた。返事はない。
何度か呼ぶうちに父は食べ終わり、僕も残すはアジの干物だけ。骨を外すのが下手くそで、毎回苦戦する。そうこうしている間に呼びかけは3度に及び、相変わらずの無反応。とうとう足音を立てつつ、母親が階段を上っていった。直に部屋へ乗り込む肚だろう。
二階から聞こえるのは、変わらず、母親の声だけ。その音量はどんどん大きくなり、とうとうビンタをかます音さえしてくる。歯を磨いていた僕も、玄関で車の鍵を握っていた父も「おいおい、そこまでやるこたあないだろ……」って顔で、階段の上を見やっちゃったよ。
ややあって。母親の怒声が、悲鳴に変わった。僕や父を呼ぶ声もしてくる。とっさに歯ブラシを放り出して、兄の部屋へ駆け込んだよ。
見ると、布団に横になったままの兄が、右手にシャープペンシルを握り、自分の喉に突き立てようとしている。母親はその腕を両手で抑え込んでいたが、その震え具合から不十分だと見て取れたんだ。
兄の開いた目は焦点が合っていない。少しもじっとしておらず、上下左右へ落ち着きなく動き続ける。斜行眼振って奴かと思ったね。
僕と父親は兄が握っているシャーペンを取り上げる。兄の握りは男二人でも解けないくらい強く、最終的にシャーペンの胴体を真っ二つに砕くよりなかったよ。
シャーペンを失うと兄は布団を蹴散らしつつ、まとわりつく僕らを振り払うかのように暴れながら、部屋の一方に向かい出す。ハサミやとがった鉛筆が入った、ペン立てがある方向だった。
――放って置いたら、シャーペンの代わりに刺すんじゃないか?
兄の動きは、それほどになりふり構わなかったんだ。どうにかその場は僕と父が抑え込み、母親は電話へ走る。
その時。僕は兄の頭が枕から離れそうになった一瞬だけ、後頭部と枕の間に茶色い木の根らしきものが生えているのが見えたような気がしたんだ。
兄は病院に連れていかれたよ。母親の話では兄が起きないことに怒って、叩いてでも目を覚まさせようとしたらしい。すると、出し抜けに目を開いた兄は、枕元に転がるシャーペンを手に取り、喉へ刺そうとしたらしいんだ。
先生の診断の結果、兄はADHD。多動性障害に近い傾向が見られるとのこと。
それを聞いた母は、その場で崩れ落ちちゃって、ずっと動こうとしなかったのを覚えているよ。顔を伏せて、言葉にならない嗚咽が空に漏れ続けてた。
一度、落ち着いた兄は、もう自分を害そうとする動きは見られなかったよ。今朝のことについては、全然、覚えていないようだった。
何かあれば、すぐに連絡をするという条件付きで、自宅で過ごす方針に。また今朝のようなことがあった時のために、父が家に残り、僕は遅れて学校へ向かったんだ。もう下校に近い時間だったけどね。
何年も経ってから、兄は自分から、つむじにぶつかる何かの話を僕に振ってくれた。今ではだいぶ落ち着いているよ。ただ、以前に比べて感情的になったというか、迷わなくなったんだ。進路も親が設定したものとは違う、学力が低くても、自分のやりたいことへと進んでいる。
けれど顔を合わせた時、僕や自分に向かって、あの日のようにシャーペンとかの先がとがったものを突き出してくることがあるんだ。寸止めでね。
「刺さったら痛いだろうな〜」とのんきなことも言ってる。僕はいつか本当に刺さるんじゃないかと、内心では少し怖い。
兄の話。そして僕が一瞬だけ見た、あの頭から生える木の根。もしかすると、兄の頭にぶつかってきたのは、鳥が種子を落とすように、何者かが落とした「悩みの種」だったのかもしれない。
悩み続ける兄の頭を肥えた土として、養分を吸い尽くして出ていった……だから悩まなくなった兄は、自分に素直に考え、動くようになったんじゃないかと、僕は考えているんだ。