生い立ち
生い立ち
俺は小さいころから人間の生と死を身近に見ながら
「生きているってなんだ、死ぬってなんだ」と問いかけ続けてきた。末っ子のせいか、なんとなく兄たちよりは自由にさせてもらった。
人と関わることが得意な兄たちと違って、俺は自然に親しむことを好んだ。空の雲の移り変わりを見ては心を動かされ、花や昆虫を見て喜びを感じたりしていた。
俺の両親は病院の仕事が忙しかったので、普通の家庭のように遊園地などに連れて行ってもらったことなどはなかった。それでも、父の弟で漢方医をしている正二おじさんが、土曜や日曜にたびたび俺を海や山に連れて行ってくれた。
小学生の時には自然を探求するのが楽しかった。それで俺は家のことなど、ほとんど考えてもみなかった。だが、俺が中学一年の時父が突然倒れた。その時以来、俺の考えが変わっていったのだった。母と兄たちは、父が肝臓ガンだということを知っていた。そのことを知らなかったのは俺だけだった。
突然の父の死
「父さん。起きてくれよ。何か言ってくれよ」俺は病床で動かない父をゆすって言った。父がガンであることを知らされてから、徐々に衰弱していく姿を目の当たりにしていた。ある程度自覚はしていたが、さすがにもうだめだと感じた。
「正義、お父さんをそっとしてあげてね」
母は看護師をしながらずっと父を支えてきた。こんな日がやってくることを覚悟していたようだ。母は優しいが気丈な人だとこの時感じた。昇兄さんは医学生だったが、やはり状況判断はしていたようで、物言わぬ父に語りかけていた。
「父さん、僕が卒業したらこの病院の責任を持つから…」
そう言いながら父を救えない悔しさをにじませていた。父の手を強く握りしめるその姿から、俺は兄の気持ちが理解できた。その様子を隣で見ていた翔兄さんは、この時すでにアメリカ留学を考えていたらしい。
「お父さん、自分が最高の医療技術を身に着けて志を継ぎますよ。」
その言葉を後ろで聞いていた麻衣姉さんが、
「お父さん、お正月は久しぶりに家族みんなで初詣に行こうと約束していたのにね」
「麻衣姉、そんな約束していたんだ。」俺は麻衣姉さんの横に行って小声で言った。
「正義、お父さんの病気のことや、約束のことを言ってなくてごめんね」
麻衣姉さんは俺が余計な心配をしないように気を使ってくれていたようだった。でも俺はそんな大事なことを伝えてもらわなかったことで、何かつまはじきにされたように感じていた。もう子供じゃないんだと叫びたかった。元気そうだった近所のおじさんやおばさんが、やはりガンで亡くなっていった。
「医者なのになんで自分の病気が治せないんだよ」と俺は大声を出したかった。
兄たちは今の医療技術では限界があることを感じているようである。俺は兄たちの様子を見ながら思っていた。
「医者なんかにならなくてもいい」
出発の日の朝
三神医院は今日も忙しく動いていた。俺も土日は手伝いの為呼び出された。昇兄さんは
使えない正義でも、この忙しいときには少しは役に立つだろうという態度だ。
俺の部屋のドア越しから顔も見ずに声をかけてきた。
「正義、今日は予約以外の患者が多いからよろしく」
「ういっす」
アニキは有無を言わせない性格なので、即返事をするしかない。
俺は普段は早起きして勉強もしている。自分のやりたいことがまだはっきりしていないので、資格が取れる講座の資料もいろいろ見ていた。でも、自分にぴったりくるものはなかなか見つからないものだ。
だから毎日あまり生き甲斐が感じられえず、力も入らないのだ。ふと庭の方に目をやると父が好きだったノウゼンカヅラのつぼみが膨らんでいた。亡くなった父が
「どんな人もみんな平等に治療を受けられるようにしてあげたい。生きていることはありがたいということを患者さんに伝えてあげたい。私の病院にきた患者さんは寿命がまっとうできるようにしてあげたい。そのための手伝いを私はしているんだ」と言っていたのを思い出す。だから兄たちもそのような父の考えを受け継いで仕事をしている。
そんな思いを抱きながら、俺は家の隣にある病院の棟に行った。外来の部署に入ると、まだ診療時間のかなり前にもかかわらず多くの患者が来ていた。その中のおばあさんが、俺の『案内係』の腕章を見て言ってきた。
「すみません。トイレはどこですかいの」
「トイレならそこの廊下の突き当たりです」
「親切にあんがと。」
「どういたしまして。気をつけて行ってください」
こんな調子でだいたい一日に二、三件はトイレの場所を尋ねてくる人がいる。それ以外は、初診の受付はどうしたらいいのかとか、保健証を忘れた場合はどうするのかとか、お金を落としたとかいろいろある。
さっき俺に声を掛けたおばあさんがまたマゴマゴしていた。
「どうかされましたか。」俺が声を掛けると、
「ああ孫がのう。あっ、来てくれた」おばあさんはそう言って玄関の方に向かってゆっくりと歩き出した。
「おばあちゃん迎えに来たよ」ニコニコしながら女の子がおばあさんに近づいてきた。目がくりくりしていてポニーテールがよく似合うかわいい子だ。
「この方が親切にしてくださっての」
「ありがとうございます」
女の子は丁寧にお辞儀をして、おばあさんと一緒に帰っていった。
「あの子かわいいな。たまにいいこともあるな」
病室での手伝い
外来の案内が終われば病室の手伝いが待っている。病室は二十部屋あるため、一人一人の患者さんが『痛い』『苦しい』と訴えるのをナースセンターにつないでいる。それ以外では、家族の面会や問い合わせなどの連絡、諸々の雑用など用務的なことも行っていた。
「正義さん、いつもすまないね」
ナースセンターにいると看護師のトネさんが声をかけてきた。彼女は病院では母の次に年配である。
「いいえ、まだまだですよ」
そう言いながら俺は書類をナースセンターから事務室に運んでいた。その廊下で、
「正義坊ちゃん、下にあるペンチ取ってくださいよ」という声が頭上から聞こえてきた。病院の雑務をいろいろ行っているケンさんだ。俺は床に置いてあったペンチを拾ってケンさんに渡した。ケンさんは天井の蛍光灯を直す作業をしていた。
「ケンさん精がでますね。ご苦労様です」と声を掛けると
「正義坊ちゃんありがたい言葉を頂いて恐縮です」
病院で働く人たちの姿を見ながら俺は書類を届けて、その後少し雑用を行ってこの日の仕事は終了。
俺は事務所のわきにある駐車場に行った。一息つくといつもここで休みを取る。自販機で缶コーヒーを買った。
「トネさんもケンさんも長いよな」
俺はコーヒーを飲みながらぶつぶつ言っていた。
「そういえば三神病院には常勤医師が三名、看護師は十名、事務は二名、栄養士は一名だったか。まあいいか」などと考えていたら、母が現れて
「正義、ありがとう。助かるわ」と声をかけてきた。
母は看護師の仕事のほかに、理事長として病院の経営にも携わっているため、かなりハードな毎日を送っている。俺の顔を覗き込みながら、
「正義、そろそろ進路を決める時期に来ているんじゃない」と言ってきた。
ギクッ!俺は持っている缶コーヒーをこぼしそうになった。
「ああ、そうだけど…」
曖昧な返事をしてこの場をやり過ごそうとしたが、
「正義、何を悩んでいるの」
そう言われ、俺はさすがに何か答えなければならないと思った。
「俺は兄さんたちと違って優秀じゃないし、医者には向いていないと思うんだ。」
「だから?」
「・・・」
俺はすぐに返事ができなかった。どんなことが自分に向いているかわからない。
「この夏休み、正二おじさんのところにでも行ってみたら」
思ってもみなかった母の言葉だった。そして母は俺に
「おじさんに渡してほしいんだけど」と言いながら手紙を預けてきた。
この後正二おじさんさんと会うことによって俺の生き方が変わっていくのだが、この日の時点ではそのようなことは予想もしていなかった。