死に神という名
エルの部屋は3階の突き当りの部屋。夫である第4王子、マイク=ベネットの部屋の隣に位置している。
不審者が王家のもののところまで侵入するまでの時間を稼ぐために、王家にかかわる人の部屋までたどり着くまでにとても時間がかかる。
実際に城に足を踏み入れてからエルの部屋に着くまで、門番達のような成人男性でさえ10分以上はかかる。彼らよりもだいぶ背の低いルナならなおさら歩き続けなければならない。
1階から2階まで行くための階段と、2階から3階まで行くための階段はつながってない。これも時間稼ぎの一環なのだ、と以前城を訪れた際に青年がルナに教えてくれた。いつもは案内役に気を使わせまいと必死で足を動かしていたルナの歩調に合わせゆっくりと歩きながら。
ルナは青年の言葉を思い出しながら3階に続く階段のある場所に向かって歩く。
(3階に上がるための階段はこの角を曲がったところにある)
もう少し、とそう思った時だった。いつもならこの時間は誰も居ないはずの奥の方、ちょうどルナが目指していた階段のあたりから聞きなれない男の声が聞こえた。
「…………す」
(盗み聞きなんてはしたない)
そう思ってこの場を去ろうとしても、今までルナの歩いてきた廊下はずっと直線の続く道。ルナがこの道に入ってからすでに結構な時間が経過している。男の話声が聞こえないところまで引き返すのは少し難しかった。それにこの廊下は反響を邪魔するようなものはほとんどない。そのせいか男の声はよく声が響いた。
「ルーカス様、この前の夜会でご令嬢方に言い寄られていたらしいですよ。結婚しても全く減らないどころか増えているんですからさすがですよね」
「まあ、相手が氷の姫なら勝ち目はなくとも死に神なら勝てると思ったんでしょう」
(氷の姫? 死に神? なんのこと?)
盗み聞くつもりはなかった。けれども、ルナの耳には自然と入ってきてしまう。
「氷の姫は言葉こそきついがマイク様の見ほれるほどに綺麗な女性。それに引き換え、死に神なんて気持ちが悪いだけじゃないですか。あの銀色の髪に銀色の目。なんでも見た者の魂を抜き取るのだとか……」
「ああ、おっかない。いくらあの氷の姫の妹とはいえあんなやつで妥協することなんかなかっただろうに」
「噂ではランドール家の前当主との約束があったから仕方なく結婚したのだとか……。それさえなければ今頃他のご令嬢と結婚されているでしょうね」
「だからって死に神なんかを……な」
「一度結婚したのですから離縁してしまえばいいのに」
「あの方はお優しいからできないのだろう」
「ああ」
銀色の髪――それはルナの自慢の髪。
ルナは見慣れた自分の髪を一房とってみた。長く腰まで垂れる髪はルナが支えることをやめれば重力に逆らうことなく手からするりと落ちて行った。
銀色の目――それはルナの自慢の瞳。
鏡を通さなければ自分で見ることはできない。けれども、それはルナが人に自慢できるもの。
髪の色も目の色も姉のエルや兄のカーティス、そして父のグレンとさえ違う色を持つルナが『みんなと同じ色がいい』と泣いていた時にグレンはそっとルナを抱き寄せて教えてくれた。
「この髪の色も目の色もお前の母様と同じ色なのだ。だから泣くことなんてない」――と。
幼いころに母を亡くしたルナは母の面影すら覚えてはいなかった。それでも『母様と同じ色』、というグレンの言葉に胸のあたりが温かくなったことを今でも覚えていた。
(私がお母様からもらったもの。私はお姉様みたいにきれいではないし、お兄様みたいに賢くもない。)
ルナはずっと兄や姉とは違うことに悩んでいた。『家族』と胸を張れるものなど一つもないのだと。
『家族』の中で唯一違う容姿はルナの不安を増長させていた。だからこそ嬉しくなった。母と同じ色を持つ、ということが。自分も家族の一員であることが認められているようで。
そんな『家族の証』ですら他人から蔑まれる要因で、ルナはやはり姉や兄とは違うのだと思い知らされた。
(あの時、私がルーカス様を縛り付けたから。)
あの時、ルナが結婚を申し出なければ顔の見えない男たちの言うようにルーカスはエルでも、ルナでもない、他の令嬢と婚姻を結んだのだろうか。
ルナはあの時自分の気持ちしか考えていなかった。全てはうまくいかないと思い込んでいたから。だからあんなたいそうなことが言えたのだ。だが、それのせいでルーカスの他の令嬢と結ばれるはずの未来を奪った。それはあくまであったかもしれないという可能性の話で、ルナがあの時行動を起こさずともルーカスがエルの妹であるルナと婚姻を結ぶということは少なからずあった。
それでもルナは崖から突き落とされたような、すがっていたはずの糸を切られたような、そんな気分に陥った。
(ルーカス様に迷惑をかけた……。ルーカス様だけではない。きっとお姉様にだって迷惑をかけてしまっている。)
ルナはこの場所に、エルとルーカスのいるこの城の敷地内に立っていることすら申し訳なくなった。
(もしかしたらお姉様は私のことを避けているのかもしれない。)
私が邪魔な存在だから。
気持ちの悪い存在だから。
どんどん思考は悪い方へと進んでいった。そんなことはエルに聞かないとわからないこと。きっと聞いてもエルは答えを返してはくれないだろうが、ルナにはエルの気持ちはわからない。
ルナにはもうエルがルナのことを避けているのだとしか考えられなくなっていた。
それはルナがエルへ劣等感を、そして罪悪感を抱いているからだった。
(お姉様は結婚して王家の方となったのに。私とはもう身分が違うのに今までのように接してしまったのは迷惑だったのかもしれない。)
言い訳じみた結論を思い浮かべて踵を返す。相変わらずルナの耳には男たちの会話が入ってきていたがもう理解するだけの頭が回らなかった。
ただルナの頭には『この場を去る』という無意識の中で出した命令しか届かなかった。
ルナが床を見つめながら数歩歩くと、ルナのほうへと歩いてきていた一人の男性とぶつかってしまった。その衝撃からルナははっとなり、前を向いた。
「ご、ごめんなさい」
「いえいえ。ってルナ?」
「お兄様!?」
急いで謝ると上から落ちてきた声は兄、カーティスのものだった。その声に安心したのもつかの間、今までは届かなかったルナの耳に先ほどから絶えず続く男たちの会話が流れ込んできた。
(ここにいるということはお兄様にも彼らの話が聞こえてしまっているかもしれない。)
「えっと、あの……」
ルナはカーティスの意識を何とかそらすために必死で言葉を紡ごうとした。全く何を離せばいいのかわからなかった。けれどもカーティスには男たちの話を聞いてほしくはなかった。
自分が悪く言われているのを聞いて、ランドール家が侮辱されていると思ってほしくはなかった。
嫌わないでほしかった。
(ルーカス様やお姉様に嫌われているかもしれないのに、お兄様にも嫌われてしまったら私は……。)
ルナはすがりたかった。目の前の大きな存在に。
「ルナ、今帰り? もしよかったら俺の馬車に乗っていかないか?」
「え……、はい」
ルナは少し迷って頷いた。エルのもとに行くつもりだったルナもあんな話を聞いた後にエルのもとに行く勇気はなかった。拒絶されるのが怖かった。
(私は臆病者だから。)
ルナはカーティスに手を引かれ歩いた。ルナが気付けばランドール家の馬車の中にいて、自分がいつの間にあの長い道を歩いたのかなんて全く覚えてもいなかった。覚えているのは恐る恐るつかんだ手が強く握り返してくれたこと。ただそれだけだった。
「ルナ、その美味しそうな香りのするものは何?」
カーティスはずっと足元を見つめているルナの手を指さした。正確にはルナが大事そうに持っている、エルに食べてもらうはずだったタルトの入った籠を。
「えっと……」
何といえばいいのか。エルに渡せなかったもの、なんて言えるはずもなく代わりの言葉を考える。するとカーティスは籠の取っ手にぴったりとくっついたルナの指を丁寧に外し、籠を膝の上に乗せ、蓋を開いた。
「タルトだね。中身は?」
「チェリーです」
「お土産にもらったの?」
「いえ……」
「……ルナの手作り? もらってもいい?」
「ええ、もちろんですわ」
カーティスにはわかっていたはずだった。これがエルに渡すはずだったものであることを。きっと先ほどの話も聞いていたのだろう。聞いていて、知っていて、知らないふりをしている。
(お兄様は優しいから。私みたいな臆病者にも優しくしてくれている。何の価値のない、何の役にも立てない私に。迷惑ばかりかけている私に。)
カーティスはそれから先は何も言わずに籠からタルトを取り出した。そして籠の中にフォークやナイフがないことを確認してまん丸いタルトにかぶりついた。籠の中にはボロボロと食べかすが落ちて行った。それをただルナは眺めた。カーティスが全てを胃の中にしまい込むまでずっと。
その後のことをルナはあまり良く覚えていない。
カーティスが家まで送っていってくれたのだろう。気付けばルナは自分の部屋にいた。
衣服をしまうための真っ白なクローゼット。睡眠をとるための、天井にはレースのあしらわれている、ルナ1人が寝るには大きすぎるベッド、そして身だしなみを整えるための白く縁どられた大きな鏡。
ルナの部屋には必要なもの以外何もない。
ほとんど色のないこの部屋で、色を持つのはエルからの贈り物ばかり。
鏡台にしまってあるアクセサリーケースの中をうめる色も、クローゼットの中をうめるのも。
全部エルからの贈り物。
ルナの耳に光るイヤリングでさえもグレンからの贈り物に過ぎない。
(自分のものに色はない。)
いつも過ごしている部屋なのに、自分で選んだもので埋め尽くされているはずのこの空間が何故かむなしくなった。何もないルナ自身を表しているような気がしてならなかった。
ルナは今日もいつも通りにルーカスを出迎えて食事を共にして、そしていつも通りの時間に部屋に戻ってくる。
この何もない部屋に。
ルーカスと一緒にいるときは満たされているような気分になれた。しかし、部屋に戻るとそうでないことをまざまざと見せつけられているような気がした。
(私は代替品――ルーカス様の望んでいる人ではない。)