つかんだ手
「ふぁっふ……」
欠伸をかみ殺すとすぐにクリアな目覚めがやってきた。
窓からは朝独特の柔らかい光が差し込む。その窓に手をつけて外を眺めるとそこにはまだ誰もいなかった。どうやら男たちが日課の素振りをするよりも早く目覚めたらしかった。
日は昇ってきていることだし、もう少しすれば彼らも庭へとやってくることだろうが、それにしても朝食までは結構な時間があった。
どうやって時間をつぶそうか考えたルナの視界に入ったのは昨晩机の上に置いたままにしてあった図鑑であった。他の本を読もうかと頭を少しだけよぎった。けれど、この本を読むには今が絶好のタイミングなのだ。今この時間、屋敷のほとんどの人がまだ寝静まっている時間ならミレーもこの部屋を訪れてくることはないだろう。
すぐにルナはネグリジェからクローゼットの中にある白のワンピースへと着替えるとすぐに椅子へと腰を下ろして図鑑の端から端まで、暗記するようにして視線を動かし続けた。
「カッツェ、まだ具合悪い?」
コンコンと弱い力でドアを叩く音に続いてやってきたのは、ミレーの心配そうな声だった。
昨日、食欲がないといって帰ったっきりだったから心配しているのだろう。
慌てて図鑑を閉じ、ミレーが部屋へと入ってくる前に机の適当な引き出しの中へと滑らせた。
「大丈夫です。今、行きます」
そう言葉を返すとバンっと勢いよくドアが開かれた。
「そう? 良かったわ!」
そして抱きついてくるミレーの肩から机の引き出しを伺い、気づかれていないことにルナは少しだけホッとした。
「朝食の時間になっても全然降りて来ないから、私心配で……」
食堂へと向かう最中もずっとルナの腕に腕を絡ませ、言葉通り心配そうにルナを見下ろした。
食堂に着いてもずっと隣を陣取り、せっせとルナの世話を焼いては「無理しなくてもいいからね?」とルナの顔を窺い見てはルナの皿にご飯を乗せていく男たちを牽制した。
いつも以上に世話を焼かれていることに居心地の悪さを感じていると、ルナはそうだと絶好の話題を思い出した。
「ミレーさん、オススメしてもらった本、読みました」
「え! 本当に!?」
ミレーはどんぐりのようにまん丸いひとみを見開いて嬉しそうに手を合わせて微笑んだ。
「面白かった?」
「ええ、とても。ですが……続きが見当たらなくて……」
そして昨晩思い悩んだことを口にした。
ミレーならば知っているだろうか?と。
「ああ、それなら私の部屋にあるかもしれないわ。ご飯食べ終わったら探してみるわ」
「本当ですか!」
「ええ」
ルナはあの続きが今日にでも読めるのかと思うと心が高鳴った。
すぐにでもあの少女と魔法使いのその後が見られるのかと。
2.3.4と続いているのだから二人の苦難は続くのであろう。けれどあの少女が魔法使いの手をとることができればきっと幸せになれるはずだ、と出どころのわからない確証がルナの中にあった。
食事を終えるとミレーは「ちょっと探してくるわね」と告げて一直線に部屋へと帰っていった。
よほど同士を見つけられたのが嬉しかったのだろう。
あの本が全て読み終わったら、感想を言い合うのも楽しそうだと一足先に部屋へと向かった。
そしてミレーがこの部屋に本を届けに来るよりも早く図鑑を元の位置へと返してしまおうと一時的に保管した引き出しへと手を伸ばした。
開けてみるとそこには目当ての図鑑ともう一つ、眠気まなこだった昨晩は気づかなかった一枚の紙が入っていた。
「何かしら?」
目の近くへと持ってくると細々と書かれた字はどうやら人名と日付、それに撮影場所が書いてあるらしい。場所は庭とだけ書かれていて、その日付はもう20年近く前のものであったが、ルナの目を引いたのはそのどちらでもなく人名の方だった。
『グレン、エルナ、マルガレータ、ヒューイ』
これを見てはいけないとルナの本能が騒いでいた。けれどその反対に見なければいけないとも訴えていた。
ルナはその後者に負け、その紙を裏返した。
するとそれは写真だった。白と黒とで構成された写真。
そこにはカーティスによく似た人物、エルによく似ているが髪と瞳の色の違う女性、それに自分にそっくりな女性、そして少しだけ若返ったヒューイの姿が写っていたのだ。
「なに……これ?」
写真を握る手は震えた。
神経質なほどに綺麗な文字が示しているのはこの四人の名前であることはおそらく間違えではない。
そしてグレンはルナを育ててくれた父であり、エルナはグレンの妻でカーティスたちの母であった。
二人とともにいるヒューイはおそらく今この屋敷でよく寝ているであろう、ヒューイで間違えはないのだろう。
写真の中の男も彼と同じように首に包帯をぐるぐると巻き付けて二カっと歯を見せて笑っている。
なぜ彼があの二人と一緒にいるのか?
ルナには分からなかった。だがそれよりももう一人の、自分によく似た女性の存在に引きつけられる。
「マル、ガレータ……」
その名を口にして、震える手で写真を置いた。
そしてゆっくりと力の入らない足で一歩、また一歩と鏡の前まで移動して自身の顔を見た。
見慣れたそれはやはり写真の中の人物そのものだった。
笑い慣れていないせいで、引きつったように震える頬も。長く真っ直ぐに伸びた髪も。よく似ているなんてものじゃない。
そのくせ目だけは楽しいのだと、幸せなのだと訴えているのだ。写真の先のルナに向かって。
「ごめん……なさい……」
ルナは鏡の中の自分に、写真の中のマルガレータに謝った。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
(ここはあなたの居場所なのに……。)
立ち去らなくてはとルナの頭に浮かんだ。この場にこれ以上いてはいけないのだと。
ルナはフラフラと身体をよろめかせながら歩いた。
ドアノブを掴む手は、部屋から一歩踏み出す足は震えていた。
そして廊下へと一歩出るとそこは知らない場所のようだった。
この場所に初めて来た時なんかよりもずっと屋敷全体に拒まれているような気さえする。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
そして呟きながら廊下を走った。
この場所から一刻でも早く去るために。
ここを出ても行き宛なんてなかった。
カーティスの元にも、エルの元にも、ルーカスの元にも帰れない。唯一受け入れてくれたグレンはもう最愛の妻、エルナの元へと旅立ってしまった。
それでも走った。
仕事で出払っているせいか誰もいない玄関先を抜けて、ゴールはおろか少し先すらろくに見えない暗い森の中へ逃げ出したのだ。
夢で体験したのと同じように後ろは振り返らずに、ただ前だけを見て。
夢中で走っていたルナの靴はいつの間にか片方だけなくなってしまっていた。それでも構わず走り続ける。
裸の足は小さな石ころや木によって傷つけられて行く。
息は苦しくて吸っているはずなのに一向に満たされることはない。それでも走る、ただただ走る。何処へ向かっているわけでもない。ましてやゴールなんてものはない。
あの、雨の日と同じだ。
あれから数日しか経っていないのにルナの心はあの屋敷の人たちで少しずつ、けれども確実に満たされていた。
ルナは怖かった。
誰かの居場所を奪ってしまっていることが。
ルナは自分の居場所がいきなりなくなることを経験していた。
それはクシャクシャに読み潰された手紙で。
それは薔薇に添えられた花言葉で。
だから誰よりもその痛みを、悲しさをわかっていたはずなのに、無自覚にそれをしてしまったのだ。
そしてルナは他人の居場所を奪ってその場に居座ることの代償も知っていたはずだった。
誰かの代わりに成り代わってもいずれ捨てられてしまうことを。
だから逃げ出した。
捨てられる前に、完全に満たされてしまう前に。
前しか向いていなかったルナは足元にずっしりと佇む木の根元に足を取られた。不意だったので手をつけずに顔から地面に叩きつけられた。
「…………痛い」
鼻は折れてしまったのではないかと思うほどにじんじんと痛みがやってきて、中には違和感が広がった。
(血、出てるんじゃないかしら。)
鼻を包み込んでも一向に何かが触れる様子はない。だから大丈夫、まだ、大丈夫と自信に言い聞かせる。
溢れる涙をそのままにドレスについた土を払った。新品同様の誰かのものだったドレスはところどころ木を引っ掛けてしまっていたようで破けてしまっていた。けれどルナは気にしなかった。
痛む足をペチペチと叩いて鼓舞する。
動いてと。
どこへ行くかもわからないのに、足は健気にも動き出す。
けれどその足は地を這うように伸びた木の根によって再び行く手を遮られる。
「助けて……」
それは無意識に出た言葉で、誰かに対して発した言葉ではなかった。ただ何かに縋らずにはいられなかった。
夢と同じように手を伸ばすと、その手は暖かい手で包まれた。
「あなたがそう望むのであれば……」
そう微笑みかけたのはここにいるはずもない、門番の青年だった。




