ハニークッキー
「カッツェ、カッツェ、カッツェ!」
ミレーがルナのこの屋敷での名前を叫ぶと同時にドアを勢いよく開けたのはコニーが負傷してから3日が経った日のことだった。
あの日以来、ミレーもルーシィもコニーの看病で忙しいのか、朝昼晩と御飯時には顔を合わせることはあってもルナに与えられた部屋を訪ねてくることはなかった。
誘拐された、とはいえ彼女たちが来なければ特にやることもなく、手持ち無沙汰で部屋の本をひたすらに読んでいた。
本をよく読むルナは一冊読み終えるにもさほど時間はかからない。それに加えて1日の大半をこの部屋で過ごすのだから、興味のある本は端から手にとって目を通して行った。その甲斐あって、無数にも思えた本棚のひと区画を今では読み終わっていたのだった。
今まさにルナの手の中にあるのは、今まで一度もグレンから与えられることがなかった、野に自生する植物について描かれた図鑑だった。
分厚いそれは今のルナには必要のないものではあったが、近い未来に必要になるかもしれない情報がまとめられた本だった。
絵描きによって描かれた植物の絵の特徴を頭に入れている時にミレーがやってきたのだった。
スタスタとルナの元まで歩み寄ると、手元にある本を覗き込み、眉をしかめた。
「……ってこんなの読んでいて、楽しい?」
どうやらミレーにとって植物についての本など面白くもなんともないらしい。それどころかいい思い出がないらしく、本の右ページに乗せられたルナの手に優しく手を添えるとゆっくりと本の上から退けて、パタンと本を閉じた。
「ねぇ、カッツェ。そんなことより楽しいことしましょ?」
「楽しいこと、ですか?」
「ええ、みんなでね、クッキーを作るの。カッツェも作りましょう!」
そう一方的にルナの今後の予定を決めたかと思うと机の上の閉じられた図鑑は本棚へとしまった。
そして代わりに他の本を取り出すと「こんなの実用書なんかじゃなくって……本ならこれなんかオススメよ?」と新しい本を取り出した。
表紙に刻印されたタイトルには見覚えがなかったが、ミレーが図鑑を『実用書なんか』と言ったことからこれは小説か何かなのだろうとルナは判断した。
元々植物に特別興味があったわけではないが、読み進めればそれはそれで面白いもので、続きのページもハッキリ言って気になった。だが、それをわざわざミレーに言うこともないかとまた後で、ミレーのいないときにでもこっそり読むことにしようと胸に決めた。
「って今は本じゃなくて……。いや、それは本当にオススメだから後ででも読んで是非感想を聞かせて欲しいんだけど……それよりも今はクッキー作りよ、クッキー作り。今日はハニークッキーを作るんだけど……全員参加だから」
「ハニークッキー……ですか……」
ハニークッキー――そう聞いて頭によぎったのは門番の顔だった。
ルナのお菓子を嬉しそうに受け取ってくれた、そしてハニークッキーが一番の好物だと話した彼。今度贈ると約束したのに、その約束は今もなお実現されていない。そしてこれからもその約束が守られるかどうかは定かではない。
(あんなに喜んでくれたのに……。もし彼がまだ楽しみにしていてくれたら……)
そう思わずにはいられなかった。
門番はルナの友人ではない。彼の名前すら知らない。けれど確かに今頭によぎるのは門番の顔だった。
門番の髪が、瞳はルーカスと似ていた。
だがそれ以外は全くといっていいほど何も似ていない彼を初めて見たとき、なぜか初めて会ったような気がしなかった。親しみや懐かしささえ感じた。
背中を見つめて、追いつくためにひたすらに歩くことでしか近づけないルーカスとは対照的に笑いかけてくれたのは門番だった。
いつか城で噂話をしていた兵士たちのようにルナを疎んでいた様子もなく、親切にしてくれた。
けれどルナが愛しているのはルーカスだった。
笑いかけて欲しいのも、振り向いて欲しいのも。
門番に優しくされる度に、ルーカスがエルに向かって微笑む度に自分の心の薄暗さに気付かざるを得なかった。そしてルナの心はくすんでいった。
「カッツェ?」
「あ、はい!」
ミレーは考え込んでいるルナを心配そうに見つめた。
「体調が悪いなら休んでいてもいいのよ?」
「いえ、大丈夫です」
ミレーは、この屋敷の者たちはみな、なぜかルナに優しかった。
門番の青年と同じだ。
当たり前のように笑って、そしていつでもルナのことを気にかけてくれる。
門番とこの屋敷の者たちでは立場が違う。国に雇われた兵士と自称誘拐犯だ。
だが重ねずにはいられなかった。
「そう?なら行きましょう」
ミレーはルナの気が変わらないうちにと、けれどルナの意思を尊重するように優しくルナの手を取って引いて歩いた。
ルナはミレーに引かれるがままに部屋を後にした。
植物図鑑とミレーに勧められた小説を残して、彼らの待つ場所へと向かうのだ。
(やっぱり食堂、なのかしら?)
ルナの予想は正しく、ミレーに手を引かれやってきたのは食堂だった。彼らにとってこの場所は食事をするところであると同時に憩いの場でもあるのだろう。
食堂へと足を踏み入れたミレーは、今までで一番多くの人が集まる食堂内に響き渡るように叫んだ。
「カッツェを連れて来たわよ」
するとその声に一番に返事を返したのはブルックだった。
「ああ。こっちももう準備は出来てる」
彼の周りには計量用のスプーンや重り、カップなどが置かれており、その周りには分量ごとに分けられた小麦粉やバターなどが並べられていた。
「じゃあルーシィ、これ各テーブルに運んで」
「はい」
ブルックとルーシィは等間隔に並べられた机にボウルやお皿を運んでいく。それを椅子に座る男たちは手を膝に置きながら、全ての机に行き渡るのを見ていた。
今こそ行儀よく口を噤んで座っている男たちであるが、朝は日課の鍛錬を終えて食堂に来る時には汗を垂らしながら用意された食事を皿に持っていく時すらちゃんと食えと劇を飛ばす。そして昼には一仕事終え帰って来たかと思えば、午後の予定をこれまた大きな声で話し出す。夜には今日も一日中働いたと酒盛りをしては、普段の声に輪をかけて声を大きくする。
そんな数日間の男たちを目の当たりにしていたルナの目にはその光景が不思議なものに思えた。
(元気、ないのかしら?)
そう疑ってしまうほどに。
けれど彼らの目はいつも通り、いやいつも以上に目には生気が宿っていて。ルーシィとブルックによって運ばれたクッキーの材料を見つめてはGOのサインが出るのを待ち遠しく思っているようだった。
ルナが男たちを見ているとミレーは首を傾げてからルナの顔を覗き込み、そして手を取った。
「ほら、カッツェ。私たちはあっちの席よ」
ミレーに手を引かれ、導かれた先の机には四つの空席と、いつも通り首に包帯を巻きつけたヒューイ、そして先日負傷して体のいたるところに包帯を巻きつけられたコニーの姿があった。
「カッツェ、久しぶりだな。この数日、会えなくて寂しかった……」
「自業自得でしょ。……ったく少しは反省しなさいよ。……あ、カッツェはここね。私の隣」
ルナに向かって両手を限界まで広げるコニーにミレーは手で払ってあっちいけとゼスチャーで示しながら牽制する。そして並んで空いている席にルナを座らせた。
「よし、全部に行き渡ったか……」
部屋の真ん中では材料を配って歩いていたブルックが腰に手を当てて周りを見回す。
「では、いつも通りの手順で作っていくように!」
「おお!」
指示を飛ばすと今まで静かに待っていた男たちは途端に元気になり、そして各々ゴムベラやボウルを手に取った。
この数日でルナが見た男たちは剣を振っていたり、馬にまたがっている姿で、到底お菓子作りなんてする姿は想像できなかったが、意外にも慣れた手つきで材料を混ぜ始めた。




