紅茶とバター入りのお菓子
いつの間にか振り出していた雨はルナとクロード家との距離が開いていくのと比例するかのように強くなっていった。
ルナの薄手のドレスは肌にピタリとくっつき、裾は歩くたびにはねる泥で汚れてしまっている。そんなことも気にせずにルナは歩き続けた。どこかを目指しているわけではない。ただクロード家から遠ざかりたい、ルナの頭にはそのことしかなかった。
ルナはただひたすらに歩き続けた。途中、雨で前がよく見えなくなってしまっても、周りの音がかき消されるようになってもルナは決して足を止めなかった。
だから気が付かなかった。何者かがルナの背後に近寄ってきていることに。
「ちょいとお嬢ちゃん失礼するぜ」
背後の何者かによってルナの視界は暗闇へと誘われた。その人間はルナをひょいっと荷物のように抱え込んで馬車へ連れ込んだ。ルナにはその力に抗うこともできずにただ運ばれていると頭の中で理解するだけしかできなかった。
◇◇◇
「あの、すみません。これは……」
「? ああ、どこ産かって? お嬢ちゃんがどんなのが好みかわからなかったからな、とりあえずランドール産にしてみたんだが…………嫌いか?」
「いえ……」
ルナは戸惑っていた。
何者かに連れ攫われたルナは近くで待機させてあったであろう馬車で連れ去られた。目はおろしたばかりであろう、フカフカなタオルと思われるものでふさがれ、馬車の椅子は明らかに誘拐されているとは思えないほど上等な素材を使われたものであった。おかげで長い時間揺られていたが、下されるときにも身体は全く痛みを感じなかった。
馬車から降ろされる際にも実はサプライズでした、と言われても信じることが出来るほどに慎重に扱われていた。だが、ルナにはこんな大掛かりなサプライズを仕掛けてくるような知り合いなど思いつかなかった。
タオルと拘束というにはあまりにも簡易的に手に結ばれた布のようなものを外され、初めに目に映ったのは、一人の男だった。男はこのクマのようにがっしりとした体格をし、ケガでもしているのではないかと思うほど、首に隙間なく包帯を巻きつけていた。癖なのか男は首の後ろに手を置き、どこか居づらそうな顔をしていた。
「よし」
気合をいれるかのように男は首の後ろに置いていた手と空いていた手で勢いよく自分の太ももを叩き、仲間と思われる男に紅茶を用意するよう声をかけた。
ルナの目の前には綺麗なガーネットのような色をした紅茶とそれに不似合いな体格のいい男。そして、ルナと男は、紅茶が置かれた透明の机を挟んで今にも身体がうずもれてしまいそうなほどに柔らかい3人掛けのソファに腰をかけている。
そして今に至る。
「うちのやつが入れる紅茶はうまいぞ。飲んでみるといい」
男はルナが紅茶を口にしないのは味を疑っているのだと思ったのかしきりにお茶を進めてくる。得体も知れない相手から出されたお茶など何が入っているかはわからない。普通なら飲むわけがない。幼いころから誘拐や犯罪に巻き込まれないように、そう教育されているからだ。
今の待遇は誘拐されたとは思えないほど優遇されていて、普通ではないといえるのだがこれも油断させるための罠かもしれない。
「なんだ、飲まんのか。もったいない。ランドール産のお茶は味も香りも最高級なのにな……」
心底残念だという顔をして、男はカップを口元に持っていき、紅茶の香りを楽しみだした。そして、香りに満足したのかカップに口をつけた。
その途端「おい、この茶入れたの、誰だ!」とドアのほうを向いて叫んだ。部屋中に響く男の声にルナは自分が怒られたように体を震わせた。
今までだってルナにとっては十分大きな声だったというのに、男の声はその倍以上だった。男が何かに怒っているというのは簡単に想像がつく。
「は、はい。私です」
「ちょっとこっちへ来い」
ドアの間を少し開けて顔を出した、ルナよりもずっと幼い少女に向かってこっちへくるよう男は手招きをし、部屋に入れた。
「これ飲んでみろ」
男は少女にカップを差し出した。少女は失礼しますと一礼し、おずおずとそれを手に取って口に運んだ。
「これは……」
「わかったようだな、ルーシィ。お前が入れた紅茶は確かにうまい。うまいが……お前、砂糖入れただろう」
「……はい。あの、この紅茶は少し苦みがあるとお聞きしたので、ヒューイ様には少し苦いかな……と」
「そうか。お前の気づかいは分かった。……だがな、お前ちゃんとこの紅茶、飲んだか?」
「いえ」
「何故だ。俺はいつも言っているよな。お客様に出すものは最高の状態に仕上げろと。そのための努力をなぜ怠ったんだ」
「あの、この茶葉は高いものだと……」
「ああ、高いがこれならまあ妥当という値段だな。手間暇を惜しまず最高の状態で仕上げているこの茶葉はさすがという言葉でさえも十分な賛辞にはなりえないほどだ。そしてこれは淹れるものの技術次第で美味くもなり、またすべて台無しになることもある。お前は砂糖を入れることによって台無しにしたんだ」
「すみません」
「これからはちゃんと確かめてから出すように」
「はい」
「それと俺ではなく、お嬢ちゃんに謝れ」
「すみませんでした」
ビクビクと震えるルーシィと呼ばれるその少女は涙目になりながらルナに頭を下げた。一連のやり取りをただ見ていることしかできなかったのにいきなり話を振られたルナは慌てた。どうするのがこの場合正しい行動なのかわからなかったルナは、ランドール家でしてもらったことを思い出した。
「えっと、あの、大丈夫ですよ」
ルナはルーシィの頭に手を置いて、なだめるようになでた。これはルナが落ち込んだ時にグレンがとる行動だった。
「……っ」
言葉を失ってしまったルーシィを見て、ルナはとるべき行動を間違えたと思い、謝ろうとした。その途端、下を向いていたルーシィは勢いよく顔をあげた。
「あの、お菓子! お菓子はちゃんと味見したんです! そっちは大丈夫です。だから、食べてくれませんか?」
必死に挽回のチャンスを求めるルーシィの顔は焦っているのか、リンゴのように顔を真っ赤にしていた。そんなルーシィの言葉をルナは拒むことが出来ず、つい
「ええ」
と返事をすると、ルーシィはバタバタと部屋を出て行ったかと思うと、すぐに息を切らして平な器を持って戻ってきた。
「どうぞ」
いくら幼い少女とはいえ、知らない相手。そんな相手から貰ったものを食べるのはやはり気が乗らない。だが、目の前の少女が早く食べてほしそうにこちらを見ている視線にこれ以上耐えられなかったルナは覚悟を決め、ルーシィの差し出すお菓子を口に運んだ。
「美味しい……」
「本当ですか!!」
「ええ、美味しいわ」
口の中で広がるバターの味と滑らかな舌触り、これに紅茶があればどれだけ最高かと思い先ほどカップがあった場所を見るとそこには何もない。
いつの間にか下げられてしまっていたのだ。
残念に思っているとルーシィは「どうぞ」と新しいカップをルナとヒューイという名前であろう、ルナの目の前にいる男に差し出した。
(ああ、美味しい。)
幸せに浸っているとヒューイは
「うちのルーシィはすごいだろ!」
と自慢げにルーシィの頭をガシガシとなでた。
「ええ、すごいわ」
ルナがそう褒めると少女は真っ赤になってドアの隙間から子猫のように逃げて行った。




