第10話 はじめての外
「ゆ・き・だあっ!はぁっい!」
眼前に広がる大雪原へ向かって、両手を掲げながら声を張り上げる。声量の殆どは白雪に染み込んで、消えていくが、心中の熱は冷めるどころか更に燃え上がる。
右を見ても左を見ても、白。背後を振り返れば、霊峰ガンドロッドが天を突き抜けんばかりにそびえるが、山頂あたりは標高が高すぎるせいで雲を貫通しているため、麓からは目視不可能。
つい10分程前まで、自分はあそこにいたのだが、今はこうして雪上に立っている。
そう、外だ。生まれて初めての外出なのだ。
当然の如く、昨日は中々寝付けなかった。今日の日が楽しみで仕方なく、十日前から準備を開始した。背負ったリュックには2号さん特製弁当を始め、吟味した各種アイテムを詰め込んできた。
「うっはー、息が白い!寒い!楽しいぃ!」
地面にフライングダイブし人型の跡を雪原に刻んだあとはゴロゴロ転がってみて、雪と大地の感触を存分に味わう。
五年である。《ギフト》が原因で昏睡してから、更に二年の月日を重ねて計五年。生まれてこのかた、塀に囲まれた敷地内から出してもらえず、正直鬱屈とした感情がなかったか言えば嘘になる。が、特に文句を言ったことはなかった。
我が家が、世間一般の家庭とは少々毛色が違うことは、薄々感じていた。
来客もなければ、両親が敷地内から外にでることも稀。食料は8号さん管理の農場での生産分と、メイドさん達が狩ってくる獲物でまかなっており、買い出しに行くこともない。日用生活での消耗品などは屋敷の倉庫に大量の備蓄が所蔵されおり、これまた買い足す必要がない。
要するに、我が家の住人は主従血縁含めて、外界との接触が絶無なのだ。
ここまでの環境となると、自然とは発生しない。徹底的に、人との繋がりを排除する意志の元に計画し、行動しなければこのような状況にはなりえない。
霊峰ガンドロッドと言えば、ヒト種既知圏内最北端、地図上での一番上の端だ。凶悪な魔獣が多数生息しており、自然環境も年中無休でブリザードが吹き荒れている。大凡、ヒト種が居住するには過酷な環境であるのだが、我が家は親父殿のアビリティ《領域》を用いて、ワザワザ環境そのものを支配・掌握して年中常春の快適環境に作り替えて生活してる。好き好んで滅多に人が訪れない場所に二百年も住んでいることから、筋金入りの引き籠もりと言えよう。
そんな面倒なことをしている理由は、未だに聞いていない。
親父殿は人見知りで、御袋殿は人嫌いであるが、ここまでくると度を超えている。複雑な事情でもあるのか、逆にあの二人の事だから、余人からすれば瑣末な事情で人生の指針を決めた可能性もある。
どちらにしろ、両親が語ってくれるまで、息子としては待つつもりだ。
親子ではあるが、親父殿と御袋殿の人生はあくまで、二人のものだ。息子と言えども、そこに口出しすべきではない。無論、その事情とやらが両親を不幸にしたり、苦しめたりするものであるなら、どんな手を使ってでも聞き出し、解決に全力を注ぐ気概だが、傍で眺める両親の顔は、至って幸せそうで、無理に事を起こす必要は無いと判断している。
なので、今もっとも重要なのは、初めての外の思う存分堪能することだ。
「よし、折角の機会だ、あれをやってみるか」
最近、練習していることを試すことにする。
「《翼》、発動」
使用した《アビリティ》の効果で、羽のように軽くなり、加速の領域に入る。五体投地状態から足を立て、反動を付けて立ち上がり、着地を決める。使い始めた頃は、四足での安定した体勢のもと、ごく単純な動作のみを行うことができたが、二年の修練を経た今ではこの程度のモーションならば完全に制御が可能だ。
能力を更に完熟させるため、発展としてパズルを超高速で組み立てる、コップの水を空中にバラ撒き、落下までに再度コップで受け止めるなどの精密動作を練習している。
そして、もう一つ多くの時間を割いているのが、コレだ。
手付かずの処女雪へ、足を踏み出す。
ひと呼吸の間に、五歩。十歩。二十歩。
加速の領域の中、雪原を高速で走り抜けていく。白い息が後ろへ置いてきぼりにされ、ガンドロットがどんどん小さくなる。
しかし、いくら走ろうともその道程に足跡は、ない。
仕掛けは、足の裏の重心移動にある。
《二足歩行》によって得られる技術・知識に《戦闘器官》-《翼》の体重が軽くなる能力を併用し、足が雪に触れ、沈む前に負荷が掛かる点を移動させて、前へ走っているのだ。
これにより、雪には足跡を残さず走ることが可能となる。
発展系として、水上走行。極めて行けば、親父殿が見せてくれた空中走行へと繋がる技術だ。最近はこうした、《アビリティ》と《スキル》を連携させる技術を練習している。
しばらく走っている内に、《翼》の加速制限時間が来たので、何度か再発動を繰り返していると、身体が熱を帯び始める。
呼吸の間隔が短くなり、心臓の鼓動が早くなってくる。
《アビリティ》は無制限に発動できるわけではない。連続使用すれば、当然消費も大きくなるし、疲労も蓄積する。ましてや、龍人族とは言え、身体は五歳児なので体力の底は割と浅い。授業でも、最近になって走り込みなどの体作りが始まったばかりで、知識や技術はあっても、土台は未成熟なままだ。
早く《アビリティ》を解除して、どこかで休憩をとらなければ、と思う反面、もう少しこのまま走り続けていたい願望もある。
自分は、身体を動かすこと全般が好きだ。特に、歩いたり走ったりしていると、それだけで気分が高揚していく。自分の力だけでは一歩も動けなかった前世での反動なのか、知らなかっただけで、元々の気質がこうだったのかは不明だが、走行中に感じる筋肉の悲鳴すら快感に感じているフシがある。所謂、痛気持ちいというやつだ。
とはいえ、体力の限界まで走り続けて意識を失うなんて失態を、二度も三度も繰り返していては自己管理能力の欠如を疑われる。そうなってしまえば、二度目の外出の機会は遠のくだろう。
ここらが、潮時か。出発前の一週間前から擦り切れるまで繰り返し見た周辺地域の地図を頭の中で広げる。背のリュックに一応入れてきてはいるが、ワクワクに身を任せて見続けた結果、すっかり脳内に記録されてしまっていた。
地図上の子供の足で歩いていける距離に、町村などのコミュニティはなかったが、魔獣の肉や毛皮目当ての猟師達が、現地で過ごすために共用小屋などが僅かに点在する。それを利用させてもらおう。
目的地を決めてから10分後、霊峰から流れる渓流が分派した支流の一つへ辿りついた。川を下って南下するとそこには目指していた、小屋が建てられていた。
「おお、あったあった」
丸太を組みあせて作られた、ワンルームタイプのログハウス。戸を開けると、中央に暖炉、机と椅子など最低限の家具が設置されていた。しばらく使用されていなかったようで、どれもこれも埃が溜まっている。使わせてもらうのだ、感謝の代わりに掃除をすることにする。
窓を開けて空気の入れ替え。備え付けの箒で塵などを掻き出、家具は埃を落として、雑巾で拭く。ついでに、丸太の木が一部腐っていた箇所があったので、修繕しておく。工具も補修用の木材も併設されていた倉庫に保管されていたのが幸いした。
技術に関しても、《スキル》の恩恵で問題ない。《掃除》も《建築》も我が家のメイドさん直伝。やはり、メイドさんは偉大だ。この二年、メイドさん達のおかげで《スキル》がとても充実した。
補助系
《両利き》Lv5 《二足歩行》Lv5 《四足歩行》Lv4 《筆記》Lv4 《呼吸》Lv5
《礼儀作法》Lv3 《掃除》Lv3 《医術》Lv1
生産系
《調理》Lv4《建築》Lv2 《農業》Lv1 《裁縫》Lv2
なお、二年前の事故以来、《積想励起》は親父殿達から、使用禁止を言い渡されたため、一度も使っていない。《スキル》の修得、経験値の大量獲得などの多大な恩恵があるが、今のままでは不用意に《再構築》の《アビリティ》が発動してしまうため、リスキー過ぎるとの見解のようだ。
戦闘行為や修行とは別口で経験値を得られるのは、成長速度に難を抱える龍人族にとって喉から手が出る程の垂涎なのだが、死んでしまっては元も子もない。今は、《再構築》の肉体破壊に耐え切れるだけの体作りが授業内容として取り入れられている。
屋根の穴を塞ぎながら、額の汗を拭う。掃除と修繕の二工程が終了することには、空の太陽は南中していた。もう昼の時間のようだ。
「一息、入れるか」
一旦、小川に持ってきたタオルを浸して、絞る。小屋に戻ると暖炉に火を入れ、服や防寒コートを脱いで汗や雪で染み込んだ水分を乾燥させていく。その間に、タオルで身体を拭う。洗浄の意味もあるが、メディカルチェックも兼ねている。あれだけの距離を能力を併用させて走ったのは初めての経験なので、なにか異常が現れていないかの確認だ。特に、足を含めた下半身は、入念に行う。
そうして、ほぼ下着のみを身につけた状態でセルフチェックをしていると、冷風に背中を撫でられた。暖炉を使う際に、扉は閉めたし、壊れていた箇所は全て修繕したはずだ。どこから見落としがあったのか。
振り返ると、開放された扉の前に一人の少女が立っていた。
年頃は、同年代か。年の差は精々二、三歳上程度だろう。短く切り揃えられた金髪に、意志の強そうなハッキリとした碧の双眸。旅装の動きやすい身なりの、腰には短剣を佩いていた。
身内以外では、転生して初めて接触する人間だった。しかも、歳も近そうだ。
非常に興味深く、色々話をしてみたい。同意が得られれば、一緒に遊んで欲しいところが、駆けっことかどうだろう。何しろ、走るのは楽しい。ツレが入れば、なお良し。
もっとも、彼女が肩先からバッサリと切り裂かれ、血を流していなければ、だが。
「・・・・・・はぁ・・・はぁ・・・悪りぃ、ちょいと失礼する」
息が荒く、恐らくはここまで走ってきたのだろうが、その顔には血の気が足りていない。手で押さえつけて無理やり止血しているが、指の隙間からは雫が滴り落ち、床に赤い斑点を作っていた。ただでさえ、子供は血の量が大人より少ないのだ。少量の失血でも、子供なら致命に至る場合は、多々ある。
「・・・近くで、熊型の魔獣に襲われた。少しだけ、匿って、くれ・・・礼は必ず・・・する」
そこが、彼女の限界だったのだろう。苦痛に顔を歪ませたかたと思うと、膝が折れ、その場に倒れ伏した。このまま放置すれば、出血多量でほぼ確実に死ぬだろう。
基本的に、自分は自身の事を、酷薄な人間だと評価している。縁もゆかりもない人間を助ける程、お人好しではない。
身内・縁者ならば、当然助ける。
他人であっても、そこに利あるいは理が絡むのならば、助けようとする。
今回の場合、彼女は見ず知らずの少女であり、助けたところで生まれる利もなければ、助ける理もない。寧ろ、状況背景を考えるに、厄介事を背負い込む可能性が大きい。
情も倫理も何もかも捨てるなら、死に体の彼女を雪原に投棄し、件の熊型魔獣に餌になってもらう間、自分は早々にここから逃げ出すのが上策だろう。
だが、自分は彼女の碧の瞳に、懸命に生きようとする意思を垣間見てしまった。
自らの弱さに胡座をかき、「助けてくれ」と懇願しながら何もしない者を、自分は侮蔑の対象としている。逆に弱さを自覚し、それでもなお生きようと努力する者こそ、自分は賞賛する。
彼女は、子供ならば泣き出して全部をほう放り投げてしまうような激痛を噛み殺し、死の恐怖に抗ったのだ。走って走って、走り抜き、結果ここまで辿りついた。
ならば、自分は彼女に報いなければならない。どれだけ願っても、どれだけ努力しても、叶わない時は叶わないし、出来ない時は出来ない。嘗ての前世は、大抵そうであった。
だからこそ、自分だけは彼女の行為に報いなければならない。
「勝手ながら、助力させてもらう」
倒れた彼女を背負い、扉の前から移動させる。リュックに入れてきた道具の中から使えそうな物をピックアップしていき、これからの行動を考える。
傷の手当は勿論だが、他にもやるべきことは多い。手早く、確実に事を進めなければならない。
肩から胸にかけての裂傷に一通りの処置を施すと、丸太小屋の外に出た。
雪原を見れば案の定、赤い斑点と足跡が扉の前まで続いている。身につけた装備を確認後、足の軌跡を逆走していく。雪が降り出してこなかったのは、幸運だった。新しい雪が積もれば、足跡も血痕も見えなくなってしまう。
怪我人を放置してでも外に出たのは、少女に怪我を負わせたという魔獣を仕留めるためだ。魔獣というのは、人語こそ解さないが、前世の動物よりもずっと頭がいい。すぐに、個人の顔と体臭を憶え、判別することができる。致命に至る傷を負わせた弱い子供の少女は、格好の獲物として魔獣に認識された可能性が高い。座して丸太小屋で少女の回復を待っていては、恐らくは襲撃を受ける。血痕やその場に残された匂いなど、追跡する材料には事欠かないだろう。
だから、襲われる前に、こちらから奇襲を掛ける。
屋敷から出る前に、親父殿や御袋殿に質問したり、書庫で調べるなどして、周囲一帯に生息する魔獣の一覧は頭に入っている。
少女の身長を考慮するに、彼女を襲ったのは四足歩行する魔獣か、あまり体長の大きいタイプではないだろう。肩から奔る裂傷、あれは爪痕だった。大型魔獣なら、高低差から爪が低身長の子供には届かない。ただ、四足歩行で移動しながら、爪を振るったなら、可能だろう。
少女は熊型とも言っていた。熊型なら、四足歩行で爪を使う事も出来る。
情報を統合しつつ、憶えてきた魔獣リストを鑑みるに、該当は一件しか無かった。
前方、遠くにそれを視界に収めたとき、即座に近くの木の枝に登った。その魔獣がいたのは、雪原に幾つか存在する森林の一つだった。息を潜めながら確認した魔獣は、地面に染み込んだ血の後に鼻を当て、匂いを確かめている。全身を覆う黒い体毛に、隆々とした筋肉の鎧。全長で2m以上はあるだろうか。
書庫の図鑑で見た名前は、アスラ・ベアー。多くの魔獣がそうであるように、雑食。単純な腕力、肉体強度だけなら、近郊一番の猛者だ。特筆すべきは、脇腹あたりから生える、第三、第四の副腕。伏せた状態なら、歩行を補助、安定した攻撃姿勢を維持し、立ち上がった状態なら、手数を二倍に増やす、器官だ。
推測される重量と膂力から考えて、一撃まともに受ければ、骨が砕けて内蔵に至るだろう。捕縛されても、力だけで押しつぶされる。
失敗すれば、結果は明白。手が震えているのは、決して寒さだけが原因ではない。覚悟を決めてきたというのに、初めての命の遣り取りを前に、自分は恐怖している。正直、自分の死ぬ様なら、前世では何度も妄想した。身体が身体だっただけに、想像は容易だった。
だが、殺し合いを想像したことは、一度もない。凶暴なる殺意。震えが、止まらない。
そんな時、ふと思い出したのは、身体の芯に刻まれた御袋殿の言葉だった。
「恐怖に背中をあずけろ。恐れとは己を縛る枷ではなく、生きようとする本能そのもの」
危険を前に、恐怖するのは正常な反応だ。
故に、怖いならば怖いままでいい。それは本能が告げた、生きるための貴重な警告なのだから。不屈の意志さえがあれば、前には進む事はできる。ただ、進めば進んだだけ、後ろが疎かになる。だから、背中は恐怖に守ってもらう。一番臆病で、しかし決して消えない不滅の本能に。
それが、御袋殿の持論だった。
教えてもらったのは、心構えだけではない。戦闘理論、武器の扱い方、魚の捌き方、的確な掃除術から、生活の豆知識に至るまで。身に余るほど、家族からは多くの物を貰った。
それらを一つ一つ思い返してみれば、なるほど、負ける道理はどこにもない。
感覚が不鮮明だった手足に、血液が循環しだす。拳を作ればドクドクと反応を返す様がなんとも頼もしい。
腰の両脇に佩いていた得物を左右の手で抜き放つ。護身用の短剣と、薪割り用の鉈だ。戦闘行為は想定していなかったので、持ってきた武器になりそうな物はこれだけだった。配陣処理されたガジェットでもなんでもない、只の短剣と鉈。
こちらの得物に対し、アスラ・ベアーは分厚い筋肉の鎧の上から、更に鋼以上の強靭さをもつ硬化体毛で全身を覆っている。どれだけ切りつけたところで、致命傷には程遠く、打倒することは叶わない。
故に、狙うは目、耳、などの体内へと通じる局所。
「さあ、来い。勝負だ、アスラ・ベアー」
短剣と鉈の先端を軽くぶつけて、金属音を発生させる。
木々が生い茂る森林の中で、金属同士の接触音は目立つ。異音に気づいた、アスラ・ベアーが反応を示す。鼻先を血痕ではなく、空中へと向けた。同時に耳も動かしたかと思うと、すぐさまこちらの位置を把握したのか、猛然とこちらへ駆けてくる。
今の自分は、少女-魔獣からすれば追っている獲物-の手当をしていたため、その体臭と血液の真新しい残り香が身体に付着している。後は、音で注意を引けば、こうして誘い込める。
アスラ・ベアーが木の根まで辿り着くと、咆哮と共に二対の豪腕を振るいだした。丸太のような熊手が幹を抉り、枝をへし折る。爪の斬撃が振るわれるたびに、木が大きく揺れた。
だが、届かない。彼我の距離は、アスラ・ベアーがどれだけ手を伸ばしても、その間合いにこちらは存在しない。魔獣の全長を見越した上で、余裕を持って高い枝へ足を掛けていたのだから、当たり前だ。幹もちょっとやそっとでは切り倒されない樹齢を重ねているものを選んだ。
業を煮やしたアスラ・ベアーは幹に爪を引っ掛けると、そのまま木に登りだす。前世での熊がそうであったように、アスラ・ベアーも木に登ることができるのだ。
ここまでは、想定通り。
仮に、地上であの大型魔獣の打倒を考えた場合、厄介なのは防御力もそうだが、他にも幾つかの難所がある。二本足で立たれると、身長差からこちらが有効打を狙える箇所が遥か遠のき、四つん這いの体勢でも安定した体勢からの繰り出される攻防を掻い潜り、顔面まで肉薄するのは至難の技だ。
だから、馴れぬ樹上へ誘導した。地上での安定性は失われ、しかも重量級の体重を支えなければならないため、腕の何本かは殺すことができる。
僅かな所作で、《アビリティ》を使用しながら枝から幹へ移動し、ほぼ垂直に立つ。
これも《戦闘器官》-《翼》による体重の軽量化と力場展開の副次効果に《二足歩行》Lv5を併用させた技術。幹を道とし、そのまま敵へと疾走する。
こちらの接近に気づいたアスラ・ベアーが豪腕にて迎撃してくる。だが、不安定な状態で放たれた、力任せの雑な攻撃。加速状態である今なら捌くのは容易く、急停止で一、二と空振りさせ、三手目は呼吸を合わせて左手の鉈の背で爪先を滑らせて後ろへ流してく。
敵の懐へ、一歩踏み込む。目の前には、この瞬間でさえ捕食者としての凶暴性を滲ませ、こちらを射殺さんばかりの魔獣の眼光があった。
右手の短剣を走り込んだ勢いのまま、アスラ・ベアーの眼球へ捻りこんだ。
血が弾けて、肉片が飛ぶ。
「――――――――――っ!!!!」
その咆哮は、苦痛の叫びか。
魔獣の唾液やら血液などの体液を浴びるが、躊躇することなく、刃を押し込む。
二度も三度も攻防を繰り返して、容易に勝ることができる程、近郊の猛者は甘くない。この一撃で、アスラ・ベアーの脳髄を破壊しなければ、死体を晒すのは自身かもしれないのだ。だから、容赦なく突き入れ続ける。
更に、力を込めて付き入れようとした瞬間、魔獣の首が跳ね上がった。
握っていた筈の短剣が手から離れ、身体が、空中に放り出された。
恐るべきことに、アスラ・ベアーは首の筋力だけこちらを投げ飛ばしたのだ。《翼》はまだ、空を掴む段階へは至っておらず、なすすべなく地面にそのまま投げ出された。
背に悪寒が走る。再び立ち上がった時、既に目に短剣を突き刺したままの、怒り狂った魔獣が迫っていた。
剛爪が振るわれる。咄嗟に回避行動に移るが、動きが鈍い。《翼》の効果時間が切れたようだ。視界隅のカウントはとっくの前に0になっており、自分の状況すら把握できていなかった甘さが露呈した。
足を根元から刈り取るような弧の軌道。鋭利かつ太い剛爪は、皮を裂き、肉を抉り、骨を削る。攻撃の勢い余って、もんどりを打ちながら体ごと吹き飛ばされ、地面に何度もぶつかりながら、背中から木に激突してやっと止まった。
アスラ・ベアーが鼻息荒く、近づいてくる。
止めを刺す気だろう。足を最初に狙ったのは、恐らくは逃げられないようにするため。
おかげで、右足はもう殆ど動かない。折れてはいないようだが、ヒビぐらいは生じているだろう。ギリギリのところで恐怖に背中を引っ張られ、足が身体から離れることだけは阻止できたが、これでは、《翼》を使ったところで、まともに移動ができるとは思えない。
退路はなく、前に進むことすらできない。
「なら、この場で仕留めればいいだけだ」
意地で離さなかった鉈を右手に持ち替えて構える。
咆哮と共に、二対の腕による、連撃が降り注いだ。爪の鋭利さもそうだが、重量とパワーも十分に驚異。《翼》の加速領域で武器を振るい、弾き、逸らし、怒涛の猛攻を防いでいく。だが、何分相手の方が手数が圧倒的に多く、徐々に身体が切り裂かれていった。《翼》の効果時間は有限であり、再発動するまでのタイムラグでも防御に隙が生じる。
元々、この状況に陥るのを避けるために樹上での戦闘を選択したが、結局は元の木阿弥。今はなんとか持ち堪えているが、そう長くは続かないだろう。
だから、一撃。次の一撃で決める。
鉈を、アスラ・ベアーの顔面へ投擲した。
全力の一投だが、所詮はただの薪割鉈であり、切れ味は鈍く、直撃したところで体毛を切り裂けず皮膚にすら届かない。無視しても何ら支障のない攻撃。
だが、アスラ・ベアーは右手を全力で旋回させて、鉈を弾き飛ばした。
そう、あの魔獣の脳裏には、抉られた眼球の激痛と怒りが焼き付いている。たとえ、どんなに些細な攻撃であっても、顔面、特に目の周囲への攻撃は無視できず、過剰に反応する。
大きく振るわれた右手は外側に伸びきり、さっきまで存在していた位置には空白が生じる。歩幅にして現在地から二歩分の道。この道こそ、死中に得た活路。
一歩。腕が戻ってくるまでの、僅かな時間に飛び込んだ。
踏み込んだ右足の先から脳天まで熱が走るが、噛み殺す。
接近に気付いたアスラ・ベアーが、残った左腕を叩きつけてくる。
「《鱗》、発動!十枚!」
翳した右腕に、剛爪が振り下ろされた。皮が裂け、肉に食い込み、しかし骨には至らず。
《戦闘器官》-《鱗》。
防御・強化の《アビリティ》であり、その能力は対象の強靭化。単純に硬度を上げるのではなく、対象が持つ特性を保持したまま、強度を飛躍的に高める。《鱗》は発動時、上乗せする鱗の枚数を増やせば増やすほど効果は上昇するがその分だけ、重量が増すという《翼》とは真逆の性質を備える。十枚は、現時点での限界値。これ以上増やすと、まともに動けなくなる。
二歩。大地を踏み砕かんばかりに、左足で踏破する。拳の間合いに、アスラ・ベアーを捉えた。
初撃は、《翼》の効果で体重が乗らず、魔獣の命へ届かなった。
だから、もっと強く、もっと深く、もっと重い一撃を。
左足、その先端から全力で踏み込んだ際の運動エネルギーを肉体へ伝導させる。接地面から関節の駆動、筋肉の伸縮を利用し、身体を一種の「路」とすることで、内側を通して力を腕へ運ぶ。更に、《二足歩行》で得た荷重移動の技術を応用し、全体体重を総動員。
掌で、突き刺さった短剣へ触れる。
「通す!」
収束させた力の奔流を、刃を通して魔獣の頭蓋に打ち出した。
起点とした短剣は粉々に砕け、微細な数十の刃となって頭蓋の内部で暴れまわる。だが、それすらあくまで余波。凝縮された力の波は、怒濤の渦流となってアスラ・ベアーの骨や肉、そして脳を蹂躙し尽くす。防御など、不可能。
「!!!!!!!!!」
顔面、頭部全体が歪に膨張する。眼球が飛び出しそうなほど目を開いたアスラ・ベアーは、牙によって喉笛を掻っ切ろうとするも、切っ先が喉に達するより早く、頭蓋の強度は限界に達した。
破裂。頭が、弾け飛んだ。
頭部を失った巨体が、音を立てて大地に沈んだ。
もぎ取った勝利の余韻に浸る間もなく、右足を《鱗》を発動させて無理やり止血、早々にその場を後にした。血の匂いを嗅ぎつけた、また別の魔獣が近寄ってくる可能があったためだ。
木の枝を植物の茎で繋ぎ合わせた即席のソリに、首なし魔獣を載せ、押して運ぶ。
前世も含めて、初めて命を奪う行為を行った。
まな板の上の生きた魚を捌いたことはあったが、それとは決定的に違う。
食べるためではなく、また、毛皮や骨などを欲した訳でもなく、完全にこちらの都合で、生命活動を行っているひとつの生物を手にかけたのだ。
この世界は、人よりも圧倒的に魔獣の数が多い。山に、海に、空に、そして人里に。ありとあらゆる場所に、魔獣は生息している。
将来は、屋敷を出て独り立ちする事を計画しており、当然ながら外の世界で生活すれば、魔獣との邂逅は避けられず、結果的により多くの魔獣を殺す事になるだろう。
躊躇いはない。
虎に身を投げ出したどこぞの聖人のようにはなれないし、殺されるくらいなら殺す方を当然選ぶ。いちいち迷っていては、それこそ何もかもが手遅れになる。
ただ、無感動に、無意味に殺すことだけは絶対にしないと決めた。
殺めた上で発生する結果は、すべからく受け入れ、その死は僅かも無駄にしない。
仕留めたアスラ・ベアーは、持ち帰り解体し、肉も皮も骨も余さずに使うつもりだ。
進むごと重量過多でギシギシ異音を上げて崩れていくソリを押しながら、空を見上げると、オレンジ色の夕日が見えた。
地平線へ沈む太陽が、光で雪原を夕日の色に染めていた。
前世では、夕日が好きでなかった。
夕日が来れば、夜が来る。夜が来れば、世界は暗闇に包まれる。
真っ暗な中で、自分が消えてしまうのではないかと、何度も思ったものだ。
今、夕日を見て思うのは。
「腹が、減った」
嘔吐する可能性や内蔵をやられた場合、消化中の内包物で臓器を汚染させないために、昼食は抜いてきた。神経を尖らせながらの逆走に命懸けの戦闘、もうすでに腹の中は空っぽだった。戦闘の緊張感で忘れていた空腹感が、今になって戻ってきたらしい。
虚しく、腹が空虚な音を鳴らした。
次回以降、大体一週間を目処に更新していきたいです。




