カロリーナ
森の向こうに黒い煙が立ち上っている。
時折赤い炎が火の粉を空へと吹き上げるのさえも見える。
いやそれどころか、森全体が燃えているようだ。
実際にはそこに川があって、燃えているのは5キロも先の村のはずなのに、風に乗ってやってくる焦げ臭さが、その辺一帯を支配していた。
「延焼を食い止める! 森の周囲に防火剤を撒くのだ」
軍の指揮を執るバルディスが、馬上から指示を出す。
「ナシエラの村へは踏み込むな。生存者は発見次第拘束、隔離しろ」
指示を受けた兵士達が、防火剤の袋を乗せた荷車を慌ただしく引いて行く。
「ここは任せて構いませんか」
自分より倍以上も歳の離れた部下に、バルディスは丁寧な口調で尋ねる。
実力主義のドレイファスのしきたりに従い、実力があるものが王宮騎士として騎士たちの頂点に立つ。部下が自分より年上などということは、ざらである。
「承知しました」
小隊の一つを取りまとめるその男は、力強く返事をする。
「第2小隊以下、この場はミカエルに従え。第1小隊は俺と来い」
バルディスは声を張り上げると、一瞬の躊躇もなく馬の腹を蹴った。
異臭が鼻を突く。マスクをつけていても、その臭いは防げるものではない。焦げ臭さと、人の焼ける臭い。ナシエラの村は、炭化した木材がくすぶっているせいで異様なまでの熱気だ。すでに燃やす物を無くした炎は、鎮静化の方向に向かっているようだった。
動くものはない。
たとえわずかに動くものがあったとしても、それに留めを刺すことを命じられている。
ナシエラの村は、汚染されたのだ。
村の処理を部下に任せて、バルディスは一人、研究所に向けて馬を走らせていた。
その後を、もう一頭の馬が追いかける。
村のはずれにある王立医術研究所は、まだ大きな炎をあげていた。
研究用の試薬なのか、時折大きな爆発が起きて火柱が上がる。
石造りの研究所は、その外観を残したまま燃え落ちようとしていた。
「カロリーナ!!」
「お兄…様……」
天井の抜け落ちた温室の陰から、カロリーナがふらふらと歩み出てきた。
真っ青な顔をしている。清楚で美しかった妹の面影はもはやない。破れたドレスから覗く腕も足も、異様なほどに青い。内出血が始まっているのだ。水色の美しかった髪は、炎の熱でチリチリになってしまっていた。
「来ないで、お兄様」
馬を下りたバルディスに、カロリーナが悲鳴のような声を上げた。
「こんな姿、お兄様にはお見せしたくない……」
「カロリーナ!」
「ごめんなさい、お兄様。お父様にもお母様にも…そして、メンフィス国王陛下にも……私は……」
カロリーナの銀色の瞳から、血の涙が流れた。
「私を斬って、お兄様。カロリーナの最後のわがままを、ぜひ叶えて下さい。最後はお兄様の剣で、私を送って下さい。そうして灰になるまで、私の体を焼いて下さい」
ポタポタと赤い涙が頬を伝い、白いドレスに血の染みを作っていく。眼球の血管から出血し、白目が真っ赤に染まっていた。
「バルディス隊長!」
追いかけてきた若い騎士が、馬を下りて走ってくる。
「来るな! アラン!」
バルディスの声は震えていた。
カチャリ
冴えた金属の音が空気の熱を吸う。抜き放たれた刀身にゆらゆらと赤い炎の色が映る。
その剣を右手に下げ、バルディスはカロリーナの方へと一歩一歩歩んでいく。
彼女は両手を組んで跪き、歩いてくる黒い騎士の姿を見上げた。
朝日を背に受けた騎士の姿は神々しく、その表情は陰になってみることはできなかった。
「ありがとう。お兄様。さようなら」
カサカサに乾いた唇が最後の言葉を紡ぐ。それは祈りの言葉であった。
「イーグルがその御霊、空へ……」
血の飛沫が彼女のドレスを赤く染める。
「うおぉぉぉぉぉぉぉ~」
騎士は咆哮した。
頬を伝う涙が、日の光に照らされてダイヤモンドのように輝きを放つ。
大きな爆発音がして、温室の真裏から火柱が上がった。カロリーナが送ってよこした資料によると、その地下には、ジョバンニのみが入れる秘密の研究施設があるはずだ。
騎士は、纏っていた黒いマントをはずして地面に横たわる妹の体の上に掛けた。
再び何かがはぜる音がして、火柱が上がる。
ドサッッ
重たい物が大地に落ちる音がした。
少し先の炎のきわに、薄茶けた塊が落下していた。その塊の表面を、青紫色の炎が嘗める様に包んでいるのが異様だった。
「うっ…」
目を凝らしたバルディスは、喉の奥で小さく呻いた。それが、人の子供のように見えたからだ。しかしその塊からは、長い尻尾の様なものが出ていた。
弾けるようにして炎がますます高くその触手を広げ、小さな塊はすぐに赤い炎に飲みこまれた。
その向こうに、黒い鳥が羽ばたく姿が見えた。
「ジョバンニ・クエントぉぉ!!!!!」
騎士は走り出していた。
「隊長!」
彼の側近、アラン・デービスがその後を追う。
5メートルはあろうかという大型の黒いユレキニアがその大きな羽を広げ、ジョバンニ・クエントを乗せて今まさに飛び立とうとしていた。温室の骨格が音を立てて崩れ、火の粉が雨のように降る。
「ダメです。隊長。行ったらだめです」
炎の川の前でアランが必死に追いすがり、バルディスの巨体を捕まえる。
「離せ、アラン。頼む。離してくれ!」
「ダメです、ダメです。ダメです、隊長」
必死に振りほどこうとするバルディスの体にしがみつきながら、アランも泣いていた。
炎がますます大きくなる。
キエェェ~~
ユレキニアが鳴き声を上げ羽ばたいた。
その背に乗るジョバンニ・クエントの不敵な笑みは、燃え盛る炎と黒煙ですぐに見えなくなった。
こうしてナシエラの王立医術研究所は崩壊した。
のどかな山間部の村一つとともに。