ジョバンニ・クエントという男
ナシエラの王立医術研究所は、特に再生医療に特化した研究施設が集まっている。
人口わずか230人のナシエラの村は、谷間の広葉樹の森の中にひっそりと横たわる村で、住民の多くは、キノコ栽培で生計を立てている。山がちなドレイファスの国内には針葉樹の森が多いのだが、氷河が削りだしたこの辺りの谷間には、珍しく広葉樹の広い森が続いている。そのため、昔からキノコ栽培が盛んだ。流路を変える前のリビエラ川が作りだした礫層の土地は農業には適さないが、朝霧がもたらす適度な湿度がキノコの生育に良いのだという。
ナシエラ王立医術研究所は、その村の郊外に建てられた新しい研究施設だ。もともと医学の研究が盛んだったキール(現在はドレイファス王国従属)の都市トリステルに近いということもあるが、山間の静かな村で、しかも十分な平地を確保できるこの場所は、研究施設を作るのに最適だと判断されたのだ。そのため、トリステルで手狭になった研究の一部が、昨年の夏くらいからナシエラに移され始めている。
カロリーナは、少し緊張した面持ちでドアをノックした。
乾いた音が2回した後はわずかな沈黙。
「失礼します」
わずかに開いていたドアの隙間から室内に声をかけた。
「入っていいぞ」
中から、ぶっきらぼうな男性の声が聞こえた。
室内に入ると、紙の山に埋もれるような机の向こうに男性の姿が見えた。
「カロリーナ・レイ・ソートです。今日から…」
「早速やってもらいたいことがあるんだよ。きみに」
男性は、カロリーナの自己紹介を遮って、振り向きもせずに無造作に会話を続けた。それどころか、フラスコを振る手を止めることすらしない。
新しく入ってきた自分の助手に、一切の興味がないかのようにみえる。
「きみ、ミシバロッキの花が毒性を持っているのを知っているね? その毒の成分が何かを、調べてもらいたいんだよ。それから、どのくらいの量で致死量になるかもだよ。必要な物は、なんでも言ってくれればいいから」
そこまで話してようやく、男性はこちらを振り向いた。
男の名はジョバンニ・クエント。
肩までかかる焦げ茶色の髪に黒縁の丸眼鏡。一瞬で相手を品定めするかのような眼光。寡黙な上に、自ら人との交わりを拒絶するようなオーラを身にまとっている。3年前、34歳の時にトリステル王立研究所の主任研究員になったこの男は、人に好かれるような要素の一切を持ち合わせていなかった。それでも彼は、天才だった。その才能ゆえに、彼の元には多くの研究者が集まり、その多くが彼の才能に驚嘆し影響を受け、そして離れて行った。レベルが違いすぎる、と。
カロリーナは、その男の元に助手としてやってきたのだ。彼女がアカデミーへのレポートとして提出した薬草学に関する論文が彼の眼に触れ、彼から直接、アカデミーの彼女の指導教授宛に要請があったのだという。
「荷物なら、どこにでも、空いているところに置いていい。白衣が必要なら、突き当たりの棚にかけてある」
そこまで言って再び男は視線を手元のフラスコに戻した。
「先生、お一人ですか?」
呪縛から解けたかのように、カロリーナはようやく彼に質問をした。研究室の中には、たくさんの実験器具が並んでいてそのほとんどが使用中だったが、広い研究室には、ジョバンニたった一人しかいなかったのだ。
「きみのアカデミーへの論文を見た」
質問の答えではない言葉を口に出して、彼は再び視線を上げた。
「きみは毒性学に興味はあるかね。植物には、薬効とともに毒性がある。毒性の研究をすることで、より一層その薬効が生かされるのだよ」
「は、はい。そうだと思います」
カロリーナが小さく頷くと、何事もなかったかのように彼は立ちあがり、
「ついてきなさい」
いきなり歩き始めた。
壁際の空いている椅子の上に荷物を投げ出して、カロリーナは慌ててその後を追った。
ジョバンニは、廊下に出ても黙々と歩き続け、角を曲がって中庭に出た。中庭の奥に温室がある。
「この温室で、植物の栽培をしている。他の研究員は、そこの実験室で研究をしている。そしてあちらが動物実験棟だ。知っているだろう? 俺はリジェナチュール、再生医療の研究をしている。今は、失った組織を取り戻すことしかできないが、ゆくゆくは、失うことがないようにしたいと思っているのだよ」
カロリーナは、彼の言葉に違和感を覚えた。その違和感が何なのか確認しようとした瞬間、二人の間に別の声が入り込んできた。
「先生」
若い男性の声だ。
「先ほど子供が生まれて、20%の陽性率でした。ご覧になりますか」
「あぁ、見よう」
ジョバンニは、返事をしてからカロリーナを振り向いて、
「きみも来るかね」
ぶっきらぼうにそう言った。
「セルカ君だ。彼は遺伝子組み換えのスペシャリストでね。動物モデルを作ってもらっているのだよ」
「はじめまして。セルカ・ニードです」
ジョバンニとは対照的な人懐っこい笑顔で、セルカは左手を差し出した。
差し出された手に、カロリーナは一瞬躊躇した。
「あ、ごめん」
その表情の変化に気がついたのか、彼は自身の左手を白衣にこすりつけて拭いてからもう一度差し出した。自分の手が汚れているのを気にしたのだろうと思ったのだ。
「はじめまして。カロリーナ・レイ・ソートです」
今度は彼女も躊躇せずにその手を握り返した。
「ごめんなさい。そういう意味ではなくて…左手だったので」
カロリーナはそう弁解した。騎士の家に育ったため、左手での握手には反射的に嫌悪感を持つ。左手での握手は、敵意をもった挑戦とみなされると、幼いころから教えられて育ったのだ。
「す、すいません。僕左利きで……それに僕は農家の出で、そういうことに無頓着でした…」
相手の意図をようやく理解したセルカは、真っ赤になって頭を下げた。家柄の違いに関係なく学びたいものには大学の門戸を開く、というのがドレイファス王国の方針だ。そして出自に関係なく、研究員の身分は同等だ。二人がそんな自己紹介をしている間に、既にジョバンニは歩き始めていた。
「噂は聞いていますよ。薬草学に精通されておられるとか。ここの温室には、国内外の薬草植物が栽培されている。まぁ、研究所自体ができたばかりだから、ほとんどがトリステルの大温室から運んできたものばかりだけど。それでも、僕達が好きなように使っていいんだから、すごいことだよ。きっときみも気にいるよ。ここの責任者はイリアという女性で、とてもいいやつなんだ。後で紹介するよ」
「はい」
ジョバンニのあまりのそっけない応対にどうなるかとちょっと心配になっていたカロリーナは、セルカの気さくな笑顔に安心感を抱いた。きっとここで上手くやっていけそうだ。ここでの未来に明るい希望を見出して、カロリーナの足どりは軽くなっていた。
地上二階建て、地下三階建ての動物実験棟は、完全にクリーンに保たれた実験区域だ。
「入るためには、ここで殺菌灯を浴びて、完全滅菌服に着替えて入らなくちゃいけない。それから、実験室に入るには登録が必要だ」
セルカが説明をしてくれる。
「すぐに戻るから、そこの部屋で待っていなさい。会議室になっていて、我々が行っている研究についての資料も置いてある。自由に見て構わないよ」
「はい」
ジョバンニとセルカが殺菌灯室へ入っていくのを見送ってから、カロリーナは指示された部屋に入った。
壁には研究グループの紹介とその研究内容が張り出されている。
中でも一番多くのスペースを取って紹介されているのは、ジョバンニの行っている研究だった。実験室の容器の中で人工的に作られた心臓を移植することに成功した、という動物実験の成果は、昨年末に発表されて大きなニュースとなった。
「フッサ草の毒が、ある種のウイルスの活動を一時的に止める…か……」
机の上には、研究報告と題された厚いファイルが数冊置かれている。
椅子に腰かけたカロリーナは、薬草学というタイトルの付けられたファイルを手元に引き寄せて読み始めた。
今までとは比べようもないほどの膨大な情報に、彼女はワクワクしていた。ジョバンニとセルカが部屋に入ってくるまで、ページをめくる手は止まることがなかった。