本物川殺人事件
事件記録:本物川という人物を巡って口論となった二人が争いの末に片方を殺害。警察はこれを殺人事件として処理した。だが、事件の不可解な点を公判で明らかにするために裏づけが求められた。
その捜査を担当することになったのが俺だ。殺人課の刑事の端くれで現場での経験も充分にある。殺人課でもこの事件は特に難しいものとは考えられていなかった。“本物川”という人物の裏づけさえ取れてしまえば片が付くものだった。そう、事件の不可解な点、それが“本物川”という人物の存在だった。言い争いをした二人が揉めることになった元凶の本物川という人物。それが何者なのかが判然としていなかった。被害者の自宅を調べても、加害者の自宅を調べても、二人の身辺をざっと洗ってみても、それらしい人物との関わりは見えてこなかったのだ。
俺が職場で事件ファイルをボンヤリと見ているときだった。
「死人に口無し……」
年配の刑事がそんなことを口にした。そして後にこう続けた。
「本当は別の理由で殺したのかもしれない。それを隠すために本物川などという存在しない人物をでっちあげた」
俺は聞き返す。
「それなら容疑者は妄想癖か何かということなんですかね」
年配の刑事は首を振る。
「本当に妄想を信じ込んでいるならそうなるが……」
間を置いて年配の刑事が言葉を続ける。
「意図的に犯行理由をごまかそうとしているのなら明確な犯行ということになる」
俺は冗談めいて肩をすくめる。
「容疑者の頭がまともかどうかを確かめるなら精神科の先生方の出番だ。俺の分野じゃない」
実際にそうなるかもしれない。だが容疑者にこれまでそういった治療の前例はない。簡単なテストにも通っていた。少なくとも今のところ容疑者は正常な精神の持ち主だとされていた。
何日かかけて俺は容疑者の両親、友人、同僚、知人らに聞き込みをしてみたが容疑者は普通の人間のように思われていた。だがそれが当然といえば当然だ。
「まさか彼がー…」
ニュースでよく聞く定例句だ。刑事をやっていると判ってくる。絵に描いたような悪役などいない。黒いマント翻して世界制服を企む悪の親玉は存在しない。アイスホッケーのマスクを被ってチェーンソーを振り回す殺人鬼もいない。容疑者は誰もが普通の人間だ。それがある日、人を殺す、傷つける、盗む、犯す。だが、それが市民には理解しがたいのだ。まるで災害のときに「自分だけは助かる」と根拠なく信じているように自分の周りは安全だと盲信している。危機は日常のそばにある。気づいていないだけだ。例え、庭に爆弾が埋まっていても、知らなければストレスにならないように。
隣人を、人間を知らずに生きていればいいだけだ。あるいは、ひょっとしてみんなそれに気づいていながら知らないふりをしてい生きているだけなのだろうか? その事実を受け止めるのが辛いから。……俺だけがこんなことを考えているのだろうか。いや、今日はもう帰って休もう。こんなことを考えるのはよくない兆候だ。
現場での聞き込みが手詰まりになりつつあるときに後輩から声がかかった。
「先輩、実は最近インターネットで例の名前を目にしたんですよ。先輩が追っている本物川」
それは俺も気が付いてはいた。だがインターネットで検索すれば大抵のワードは何かしらの検索結果が出てくる。さらに人名となれば検索結果が出るのは当たり前だ。俺だって自分と同じ名前を検索すれば著名な誰かのサイトが出てくる。
「そうか」
特に感動も驚きもなく後輩に返す。
「なんすか、せっかく情報提供しているのに」
後輩は少しむくれた様子で言い返すが気にかけることもない。
「俺だってそのぐらいは調べているに決まっているだろう。検索結果に出たからなんだっていうんだ。似た名前や同じ名前の奴ぐらいいるだろう」
確かに“本物川”なんて珍しい姓名だがないこともないだろう。それに流行のハンドルネームか何かかもしれない。
そんな無関心な俺に構わず後輩は食い下がってきた。
「それが例の事件について語っているんですよ」
深夜に一人になってから後輩に教えられたページをチェックする。
掲示板形式で匿名の何人かがID付きでレスポンスしていた。
サイト内のページは消されたりすることもなくログもそのまま残っていた。
“本物川”
その言葉があちこちに散見され、事件について様々な憶測や噂が書かれていた。大抵はテレビで報道されているようなことについてだったが、“本物川”そのものについて語られている箇所に俺は目を惹かれた。
「本物川さんも災難だったな」
「こんなことに巻き込まれて」
「実際には無関係だろう」
「あの二人が勝手に」
存在しているのだ。ハンドルネームか実名かは判らないが本物川と称される人物は実際にいるのだ。
しかし、このままでは何の証拠にもならない。俺は容疑者の自宅から押収したパソコンに同じようなサイトのログがないか調査するように専門部署に依頼した。返事はすぐにきた。そしてそのログから本物川と接触できるかもしれない機会も得ることができた。
休日、俺はあるイベント会場に来ていた。俺自身はまったく関心のないネットコミュニティのイベントだ。ここに本物川がいるという。
“本物川”
いったい何者なのか。ログからはネットアイドルようにも受け取れたが、著名人のようにも思えた。いや、それならそうと確定できるのだが、正直なところはっきりとは解らなかったのだ。どこを見ても“本物川”という単語だけが行き交いフワフワと捉えどころがない。そんな印象しかつかめなかった。
会場に入ると冊子やチラシを交換する者、キーホルダーやタペストリーといったグッズを販売する者、奇妙な衣装に身を包んだ者、それらを撮影する者などでごった返していた。
俺はどこに馴染むでもなく会場を一回りする。そこで目にするいくつかの情報から“本物川”の実態が見えてきた。赤い西洋の服を着た、金髪の子ども。まるでドール(人形)のような容姿、これが“本物川”らしい。アニメーションのキャラクターのような装いだった。
実際に会場内では本物川はキャラクター化していた。冊子の表紙に描かれていたり、コスプレ(というものらしい変装)をしている子供たちを目にすることができた。
俺はイベントのスタッフに声をかけて静かに身分を明かすと主催者のところへと案内してもらった。スタッフの詰め所のようなところに通されて主催者と二人だけで話をする。折りたたみの長机にパイプ椅子。紙コップにお茶が淹れられる。
「どうも」
軽く礼を言ってお茶を口にすると主催者が話し始めた。
「本当は事件を受けてイベントを中止することも考えたんですよ。途中から本物川の名前が出始めちゃって不味いなと思って」
主催者は申し訳なさそうに話す。俺の職業を考えれば当然だろう。
「いえ、こちらこそ突然申し訳ありません。ただ、自分は捜査に来ているだけでイベント自体をどうこうしようというわけではありませんから」
緊張を解こうと試みる。
「いや、そうですか。もしかしたら何かあるんじゃないかと」
確かに当日にいきなり刑事が来たのでは心臓に悪い。俺も配慮が足りなかった。
そのあと本物川というキャラクターについて幾つか知ることができた。
主催者曰く、
「本物川というのは元々は別のキャラクターだったんですよ。なんていうか、派生キャラが本物川というか……」
ということらしいがどうにも的を得ない。
「最初は別の人物が“偽者川”と名乗っていて、いや、逆だったかな?」
このあたりはネットでもチラチラと見た情報だが、いまいち経緯を掴めなかった。
「ともかく一人の人物がハンドルネームとして名乗ったのが“本物川”なんですよ」
それが今ではネットの一部でキャラクター化し、グッズや冊子に登場するまでになっている……、ということらしい。
「では、その本物川というハンドルネームを使っている人物が本人ということなんですね」
俺がそう問うと主催者は渋い顔をした。
「それはそうなんですが」
はっきりとしない物言いだ。
「なんですか」
主催者は少し考えたあとにこう答えた。
「いまでは本物川と名乗る人はたくさんいるんです」
なるほど。少し考えて俺は合点がいった。ハンドルネーム、匿名掲示板、誰もがそれを名乗ることができる。そうなると特定の“本物川”を見つけるのは不可能ということになる。
本物川には迫ることができたが、何か、実体からは遠ざかってしまったような感覚を覚えたまま俺はイベント会場を後にした。
「本物川……」
帰りの電車の中で独り言を口にしてしまう。そう、本物川はもはや概念となっていた。「名無しの権兵衛」のように。ニックネームだが特定性がない。固を特定するという名前の機能を失っていた。むしろ逆にそれが誰のものであるかさえ判らなくなっていた。
もし、現代に陰陽師やエクソシストがいて、妖魔や悪魔の本当の名を探ろうとしたら苦労したかもしれない。現代のそれは希薄で軽薄なものとなった。誰もが同じ名を使い回す。襲名どころの話じゃない。固有名詞がありながら、それが個を特定する要素にならない。
事件は振り出しに戻った。
本物川。
いや、そうだ、振り出しに戻ったのだ。
次の日、俺は朝一番で取調室にいた。容疑者を前にする。
本当の本物川が誰だったのかということはどうでもいいのだ。そう、こいつにとっての“本物川”が誰なのか。重要なのはそこだった。
「本物川とは誰なんだ」
そう聞くと一瞬、容疑者の顔が笑ったように見えた。
「本物川は概念。誰でも本物川になれる。俺もアンタも」
笑っているように見えたのは気のせいではない。実際にあざ笑っていた。馬鹿にした答え……、と昨日までの俺ならブチ切れていたかもしれない。だが実際に本物川とはそういうことなのだ。いまなら理解できる。
「そう、誰もが本物川になれる。だが、お前にとっての本物川。それは、誰なんだ……?」
容疑者の顔からふざけた笑いが消える。置かれたままのパントマイムの人形のように無表情になる。
「俺が、俺の、」
言葉が曖昧になる。俺は一瞬、本当に妄想癖の症状があるのかもしれないと疑った。だが次に放たれた言葉は確かな真実味があった。
「俺の本物川が本当だ……。ちゃんと会うって約束までしたんだ。なのに、アイツはそれを認めないから、しかも本物の本物川を違うって」
ブツブツと独り言のように繰り返す。
「それでアイツ、あんな、俺、本当はそんなつもりじゃ」
まったくもって嫌になる。本当に振り出しに戻された。最初からやり直しだ。本当にいたのだ。“本物川”は。
そして殺人の引き金になった。だが、それが実在の人物だと証明できなければ容疑者の犯行動機は曖昧なままだ。妄想だと言われたら反証できない。公判は不利になる。
「はじめに聞いたが、もう一度聞きたい。お前の本物川とは誰なんだ……」
沈黙が取調室を支配する。やがて容疑者がその沈黙を破る。
「メールのやり取り、ログが残っている……」
容疑者の使っていたパソコンからメールのログを引き出す。俺が行った日時とは異なるが同じイベントに参加して待ち合わせることが書かれていた。およそ3年前のものだった。相手のハンドルネームは普通の名前だった。これは本名か。いや、現代のリテラシーから考えてそれはないだろう。偽名、おそらくこれもハンドルネームにすぎないのだろう。俺は捜査の手配をすると改めてイベントの主催者に連絡をした。
数週間の後、俺は一軒のアンティーク店の前に立っていた。店のショーウィンドウには時計や小さめの家具などが見栄え良く置いてある。ドアを押して店内に入る。木工やニスの香りが鼻腔をつく。
「いらっしゃいませ、何かお探しですか」
接客しにきた店員に警察手帳を見せると聴取目的で任意の同行を求める。
「本物川事件のことで伺いたいことが」
店員はさすがに驚いた様子だったが納得したのか落ち着いた様子で、店長と思わしき人物と小声で何事か話し出した。
「すぐに支度しますので少々お待ちを」
その人はそう言うと店の奥に消えた。一応、裏口や窓には他の刑事を張らせてある。別に犯人探しじゃないが重要な証人かもしれない人物だ。何かあっては困る。
そんな心配も杞憂に終わり、無事に署まで案内すると正式な取調べが行われる。
「あなたが“本物川”さん?」
その人は愛想よく笑顔を見せた。まるで先ほどの接客のときのようだった。
「本物川は……」
「本物川は概念」
食い気味に俺が言った。相手は呆気に取られているようだったが、また営業スマイルを取り戻すと続けた。
「わかっているじゃないですか」
「だが、この事件の引き金になった“本物川”はキミだろう」
「そうなんですかね」
茶化すようなふざけたような物言いだ。
「私のせいなんですかね?」
「容疑者はそう証言している。物的な証拠からキミに辿り着いた。メールのログもある」
相手の笑顔は崩れなかった。むしろ冷ややかさを増したように見えた。
「私が何らかの責任を負わされるわけじゃないでしょう?」
刑事罰的な責任は発生しないことを説明する。だが容疑者の動機となった証人として公判に不可欠だということを説明した。
「やだなぁ」
「……それは、協力できないということですか」
「というよりも、なぜ私が証人にならなければいけないんですか」
面倒くさそうにため息を吐く。
「それは犯行の動機に」
「それ私なんですかね」
「それはどういう……」
「それは“本物川”なんでしょう」
「しかし容疑者は実際にキミとやり取りをして会ったと」
「会ってないんですよ」
「なに」
「会うって約束したイベント当日、やっぱり嫌になって参加するのを止めたんです」
「……」
「だから容疑者の人と面識もないんです」
それでもメールのやり取りがあった以上は動機としては充分なはずだ。この人物は容疑者の動機となり得た実在する人物だ。それで充分なのだ。
後日、公判は行われ、証人も証言台でメールでのやり取りなどを認めたことで事件は決着した。精神異常などの弁護は認められなかった。
公判のあとに俺は証人を送る車内で少しばかり話をした。
「今日はありがとう。おかげで公判を有利に進められた」
「正義を行えた?」
「仕事をしただけだ。ただ自分に納得のいくように」
「あの……」
「何か?」
少し間をおいて証人は口を開いた。
「私、本当の本物川とか、初代の本物川ではないんですよね。もう私が気づいたときに本物川は使われていたっていうか……」
「…………」
高速道路を走る車内に沈黙だけが流れていった。
“本物川”という言葉を置き去りにするように。