王太子殿下はかく語る
ソフィー視点というタイトル詐欺。
目覚めたら、いつもの天井が見えた。
起きあがると現実とも夢の記憶ともつながらない、着慣れた寝間着が目に入る。
「とんでもない夢を見たあああああ」
私は頭を抱えてうめいた。甘酸っぱくはなかったけれど、身悶えしそうなくらいあり得ない夢だった。
現実の記憶は本を読む途中でぷつりと途切れているようだった。頭を抱えながら、いつの間に着替えてベッドに入ったのだろうと不思議に思う。
「お目覚めですか、ソフィーさま」
私が目覚めたのに気付いたメイドのアンナが扉を開けてやってきた。
「昨日はお疲れのようでしたけど、早くお目覚めになって良かったです。皆さま食堂でお待ちですから、急いで下さいね!」
アンナはさっきまで私が頭を抱えて身悶えていたなんて想像もしていない様子でなにやら慌てている。
それでも彼女はいつものように身支度を手伝ってくれた。いつものようにあれこれお話しするようなことはなく無言だったけれど。
着替えたのは夢の中のように落ち着いたものではなく、普段着のこどもっぽいドレス。着慣れていてその方が私にはかえって落ち着くものだ。
ほっとする暇もなく急かすアンナ見て、よほどいつもより遅くなったのかと私は小走りで食堂に向かった。
はしたないとたしなめられないように少しあがった息を整え、食堂の扉を開けた私はそこでぴたりと動きを固めてしまった。
いつも父が座るはずの上座に、彼が座っているのが見えたからだ。
「おはよう、婚約者どの」
挨拶さえできずに動きを止めた私に平然と彼は言う。私はひゅっと息を飲んだ。
「……な、何で?」
「やはり昨日はずっと夢だとばかり思っていたのだな」
彼は面白くなさそうに呟いた。
「だがまあ良い。昨日のうちに外堀は埋めておいた」
「自慢げに仰ることではないと思いますが」
だけど一転してにやりとする彼に、ため息混じりに父が反論している。
「ともかく座りなさい」
上座には彼が座り、両親は兄夫妻の席に座っている。兄夫妻はといえば、椅子を足していつも私が座る場所にいた。
応接間でもない、ごく普通の家族の食卓を王太子殿下が共に囲んでいるというあり得ない風景がそこにある。
現状把握もできないままどこに座ればいいのかと戸惑う私を手招いたのは彼だ。
「空いているのは俺の隣だけだな」
促されて、普段であれば母が座る場所に私は腰を落ち着けた。
「あのう、そのう。なぜ殿下が我が家にいらっしゃるんでしょうか」
問いかけたのは彼に対してだったつもりなのに、
「お前のためにわざわざ早くお越しくださったのだ」
先に返事をしてきたのは、父だ。
「昨日は途中で寝てしまったからな。夢だと思っていた様子だし、現実だと理解させてやらねばとな」
鷹揚にうなずきながら彼は続いた。
「現実、といいますと、その」
「君が俺の求婚を喜んで受け入れてくれた件についてだ」
「う、うわああああ」
恐る恐る確認した言葉に――彼はイイ笑顔を見せて下さった。思わず頭を抱えてしまったけど、いい年してはしたないと叱られかねない行為だと気付いて、二重に頭を抱えたい。
「ソフィー」
案の定咎める声がいくつも飛んできて、顔を上げるのが恐ろしい。
「よい。慣れないから照れているのだろう」
ただひとつ優しい彼の声に、私は勇気を得た。
「ううう、夢が夢じゃなかったということでしょうか?」
「最初っから現実だ。本当に寝てしまった後にどんな夢を見たかは知らんが」
「我が家に向かう馬車に乗ったところまでは……」
「ならば、君が覚えていることは全て現実だ」
ちらりと横の人を見ると、私を安心させるように請け負ってくれたけれど、残念ながら内容が内容なので全く安心できない。
「夢ではないのでしたら。なぜ昨日突然、王太子殿下が私に求婚されたのか、理解できません」
「そうか?」
はいとうなずいてみせると、彼は軽く首を傾げる。
「ソフィー、お前は今更何を――」
呆れたように兄は口を出してくるが、かまわんと彼は手を振ってその言葉を止めた。
「何故昨日だったか、か。それは三日前、君が近々社交界に出ると聞いたからだ」
「た、確かにそれはお話ししましたけど」
答えてくれる気はあるらしい彼だけど、残念なことに私が気になっているのは日付の理由ではなく、求婚の理由だ。
家族から突き刺さる視線の中で、不躾な質問は重ねにくい。
「君に聞いてから一日はじっくり考えてみたのだが、やはり余計な虫が付いてしまう前に先に手は打っておくべきだと思ってな」
「むし、ですか?」
「ああ」
それは、つまり、どういうことなんだろうか。よけいな虫を付けないために、私に結婚を申し込んだ?
ええと、それは――。
横から伸びてきた手が、混乱する私の頭をぐしゃりとかき混ぜる。
「俺もさすがに、君の家族の前で愛を語るような真似は無理だな」
「あ、愛って」
「社交デビューも果たしていない年の離れた妹分に求婚したんだ。そこに好意があるのは当たり前だ」
好意はわかるけれど、愛なんて感じたことは一切ない。
感じたことがあったならもっと、私の恋の形は違っていたんじゃないだろうか。
もやもやと渦巻く感情をうまく言葉で吐き出せなくて、私は口ごもる。頬がやけに熱い気がするので、きっと顔は真っ赤だろう。
重ねて私の頭をかき乱す彼の行動は、愛しい人へのそれというよりもやはり妹分に対するそれじゃあないだろうか。
なのに、彼は私の頭を撫でながら迷いのない様子なのだ。
「そして君も俺を好きだろう?」
疑問形で言われたはずなのに、それが事実だと疑っていない顔が目の前にある。
確かに事実なんだけど、それこそ家族の前でおいそれとそうだとうなずけるわけがない。
「実の兄と従兄と――君には身近に二人も兄がいる。なのに俺まで兄のように慕ってくれたのは、恋心からだろうと自惚れていたのだが、違うか?」
なのに、彼は畳みかけるように続けてきた。
まっすぐ私を見つめる真剣な眼差しに、私は敗北した。
「そう、です」
「ならば全く問題はないな」
強情を張るのをやめてうなずけば、求めていた答えを得たらしい彼は満足げだ。
問題は山積みだと思うのだけど、それは私の気のせいだろうか。
問うように視線を向けた父はなにやら苦い顔をしていて、その横の母の顔色はあまり思わしくない。兄夫妻はそろって呆れたような顔を見合わしている。
「お言葉ですが殿下、問題はありますわよ」
口を開いたのはかつては彼の婚約者候補にも名が上がっていたというお義姉さまで、お兄さまはそれに同意するようにうなずいている。
「なんの問題がある?」
王太子殿下と、その元婚約者候補の一人であったお義姉さまとその夫が一堂に会している――というのは、よくよく考えればものすごいことじゃないのかしら。
考えるとちょっと怖いような気がして、そんな思考にふたをして私は固唾をのんだ。
不審そうに切り返した彼に、義姉は豊満な胸を張る。
「色々ございますけれど。さしあたっては、空腹に耐えながら徐々に甘みを増す空気に耐えている臣下にご配慮いただければ幸いですわね。胸焼けして何も食べられなくなってしまいます」
「あ……ああ、すまぬ」
義姉の言葉が予想外だったらしく、彼は珍しく虚を突かれたようだった。
「朝食を運んでもらってもよろしくて?」
「うむ」
「私からもよろしいでしょうか」
義姉が満足げに家の者に指示を出すのを横目に、次に口を開いたのは兄だ。
「いくら殿下といえども、目の前で妹を口説かれると私も父も相手を張り倒したい気分になって不敬を働くとまずいので、そういうのはよそでやっていただけないでしょうか?」
許可を得ての発言はすでに不敬だと思うのだけど。
「お前、今の言葉がすでに不敬なんじゃないか? まあ、気持ちは分かるが」
兄に指摘だけはしつつも彼は特に機嫌は損ねるようなこともない。
もともと兄は私が彼と出会う以前から、王太子殿下と同い年という縁で同じ年頃の子どもたちが集まるサロンで公的な面識があったらしい。それから私と同様に従兄の屋敷で私的に出会うこともあったから、どれくらいが彼の許容範囲かよく理解しているのだろうか。
ともあれ、何事もなかったかのようにやってきた朝食を食べてから彼と二人その場に残ることになったのだった。
「さて、何を聞きたい?」
「どうして私に求婚して下さったかが聞きたいです」
他にたくさん聞きたいことはあったけど、まず一番に聞きたいのがそれだった。
「先ほど説明しただろう?」
「だって、私は妹も同然だったでしょう? 一足飛びに求婚されても、現実とは思えないです」
訴えると彼は顔をしかめてため息を漏らしたので慌てたけれど、
「長く妹のように思ってたのは事実だな」
苦笑いで彼は呟く。
「ただ四年ほど前からは、あえてそのようにしていた」
「四年前、ですか?」
「そう。君が俺との身分差を気にし始めた頃だ」
きょとんとする私に、彼は「慣れない敬語を使い始めただろう」と憮然と続ける。
「今もそうだが――君にそうされると、距離を感じるので嫌だ」
「いやだ、って」
「ソフィーは妹のようなものなのに、なぜ息抜きに出かけた姉上の屋敷で敬わなければならないのだと最初は思った」
「はあ」
「それがきっかけで、君が俺の特別なのだと悟った」
「あのう、論理が飛躍しすぎてないでしょうか」
彼は私を軽く睨んで「城ではないのだからいつも通りにしろ」と言う。
「ええっとそんなので私が特別になっちゃったの?」
慌てて言い直すと、不機嫌さを潜めて彼は重々しくうなずいた。
「なんで?」
「君は妹のようなものだったが、妹ではないことに改めて気付いたのだ。俺にとって、姉上の屋敷で君と過ごす時間は癒しだった。君がいずれ成長すれば、気安く会うこともままならなくなる――そう気付いてそれは嫌だと思ったのだ」
飛躍したと思った論理には裏打ちがあったらしい。
「成長した君が誰かと生涯を誓うのを、俺は姉上の時のように祝えそうにない。そう感じた時から、君をただ妹のようには思えなくなった」
「そ、そうなの? ずっと同じように扱われてたと思うんだけど」
「うむ、まあ――自分が幼女趣味なのではないかと悩んだこともあったが、子どもに手を出す趣味はなかったようだな」
返答に困るようなことを彼は平然と口にして、それからにやりとする。
「あえて、幼く装っていたのだろう? 君が長く俺の側にいるためにそう装っているのだろうからと、俺は安心して成長を待とうと考えた」
思いを見透かされた事実に、今度は恥ずかしくなって私は何も言えなくなった。
「だから、いよいよ君の社交デビューが近づいたと聞いて、求婚に至ったのだ」
「ううう、断られることを想定しないほど見透かされてたことが、恥ずかしい」
「俺は君より年上だし、君より遙かにたくさんの人と会っているからな」
ようやく口にした言葉にさらりとフォローをされても、全然フォローされたと思えないし、余計に羞恥心が煽られる。
「私は、いよいよ初恋を諦めなければいけないと思ってたのに」
「今更諦めて、他に目を移されると俺が困る。だからこそ、早めに動いた」
「こんな子どもっぽい伯爵家の娘が、なんであっさり周りに受け入れられたの?」
私は問うように彼を見つめる。
王太子殿下とは公的な関わりがなきも同然の、特徴といえばこどもっぽい所くらいしかあげれないような私をすんなり国王陛下ご夫妻が受け入れてくれたところからしてあり得ない。
「それは」
言い掛けた彼は、らしくなく決まり悪そうに目をそらす。
「数年かけてしておいた根回しの結果、だな」
「は?」
「父上や母上はともかく、うるさいのは周りにもいたからな」
王家と縁付くことを諦められない公爵家や侯爵家はいたのだと彼は言う。
「それを、どう根回ししたんですか?」
「聞かない方が幸せなことはあると思うぞ?」
「えっ」
優しい声で言う彼は、相変わらずこちらを見ようとしない。
「えええ、何をしたの?」
「何って――言うと大したことでもないが、周りにごちょごちょ寄ってくる女たちと出来るだけ関わりを持たないでおくとか」
「うん」
まだ聞きたいのかと言いたそうな顔で私をちらりと見て、彼はため息を吐いた。
「あることないこと含めて、俺が結婚しそうにない理由をでっち上げて噂を流すこともした。それが功を奏したのか、未来の王妃を夢見る令嬢やその親は現実に目を向けるようになったな」
兄を含め二年前に結婚するカップルが多かったのは、そのためだろうか。思わず納得して、私は大いにうなずいた。
「君とは年が離れているが、それがかえって良かった。このまま独身を貫くのだろうかと考えていた俺が結婚の意志を表明すると、相手は誰でもいいからと賛成する声が多かった。むろん、いくら伯爵令嬢でも正妃にはどうかという意見もあるが」
「王妃さまは、モディール国の王女さまだったのでしょ? なのに、次代の王太子妃が伯爵家の出では見劣りするよね」
「ふふ。見た目は子どもらしく装っても、君は賢い人だ。きちんと現実を見据えて控える姿が好ましい」
そんな風に言いながら、彼はまるきり子ども扱いで私の頭をぽんとする。
「だが、案ずることはない。これまで十全に根回しはしておいたし、昨日のうちに外堀は埋めたと言っておいたろう?」
「えーと、うん、確かに」
「公爵である君の伯父上に後見を頼んでも良かったが、我が姉上が嫁がれている家に頼むと権力バランスが崩れるのでな――レイノルドの義父であるオーディアル公爵に後見を依頼した」
「えええ? カティアお義姉さまのお父さまに?」
「快く引き受けてくれたぞ」
「こころよく? カティアお義姉さまは殿下の婚約者候補のおひとりであったくらいなのに?」
私とはあまり面識はない義姉のお父さまは、兄との結婚を認めるのも渋々であったような苦いお顔で結婚式に挑んでいらっしゃった方なのに。
「近頃文官が力を持っているからな。公としては、武門の筆頭として王家に食い込みたかったのだよ」
「はああ」
「令嬢はレイノルドと恋仲なのだと説得したのは俺だからな。渋々であれど応じてくれた公に、今回見返りに持ちかけた」
そんなこと初耳で、私は驚いて彼を見た。
「そうだったの?」
「うむ」
一緒の家に暮らしているというのに全然知らなかったことに私は衝撃を受ける。
「お兄さまは……どうやって格上のお義姉さまとの結婚許可を頂いたのかしらとは思っていたけど、エセルお兄さまの後押しがあったんだ」
結婚式でカティアお義姉さまのお父さまが渋い顔をしているはずだ。
王太子殿下と同じ年頃の公爵家や侯爵家の令嬢たちは、以前そのほとんどが婚約者候補の肩書きを持っていたように思う。今では一人もいらっしゃらないのは、もしかして殿下が何かしたのかしら。
「もしかして、他の候補の方々も?」
「想う相手がいた者は、そう多くなかったな。良くすれば俺に、そうでなくても弟に――王家と縁を結びたい家は多いものだし、親の意向に逆らい難い娘もいる」
彼は苦い顔を隠さない。
「障害を取り除くのは簡単ではなかったが、幸い協力者もいた」
「協力者?」
「弟――つまりはリックだ。俺たちは双子だからな。俺が結婚しそうにないのならば、リックの子が王位を継ぐ可能性も高くなる。山ほど文句は言われたが、彼女らをどうにかしなければあいつも想い人とどうにかなるわけにいかなかったからな」
弟殿下にはすでに妻子がいらっしゃる。私も奥様に何度かお茶会で出会ったことがあった。
優しげな面立ちで落ち着いた物腰の奥様は……そう確か元は私と同じ伯爵家の方で、殿下よりもお年が上だったのではなかっただろうか。
考えてみると、そのご結婚にも障害が多かったのだろうなと今更ながら思い当って、私はなるほどとうなずいた。
「持つべきものは利害の一致する頭の回転の速い仲間だ」
「お二人で協力されたってことなの?」
「そうだ。散々嫌みは言われたがな」
利害の一致する弟殿下にどんな嫌みを言われたのか少し気になったけど――なんとなく予想はつく気がした。
――なんでよりによって七つも離れた伯爵家の娘に懸想するんですか?
うん、こんな風におっしゃるリック殿下の姿、想像できる。お優しい方なのだけど、時々ひどく冷静な言葉で場に水を差すこともある方だから。
私が納得したのを感じたらしい彼は満足そうに唇を持ち上げる。
「疑問は解消されたか?」
「いま思いつく限りは」
他にも何か聞くべきことはあると思うんだけど、混乱からさめきらない今はこれが精いっぱいだ。
彼は「それはよかった」とつぶやいた後、「では」と居住まいを正した。
「今度はこちらから質問していいか?」
「えっと、何を?」
私から尋ねることはあっても彼から尋ねられることなんて想像できなくて、思わず問い返した私はすぐに後悔した。
だって、これまで気持ちを押し隠すことばかり考えてきた私にいつから俺のこと好きだったなんて聞かれたって、すぐに「はじめて出会った頃からだよ」なんて言えるほど恋愛慣れしていないからだ。
想像→なんでよりによって七つも離れた伯爵家の娘に懸想するんですか?
現実→まったく、見合う年頃の手ごろな家柄の娘を娶ってくれれば僕がこんな苦労をすることはなかったでしょうに。
よりによってルガッタの親戚の伯爵家の年下の娘って……いえ、僕も兄には幸せになってほしいので協力はしますよ?
でも文句の一つや二つ言っても問題ないですよね。
せっかくこちらはエセルが身を固めた後に悠々と「貴方の後ろ盾が弱い方が後々ややこしいことにならずに済むから」と彼女を口説こうと思っていたのに、伯爵家って同格じゃないですか!
それは口説き文句じゃない? うるさいですよ、そういう風に持っていかないと彼女が納得してくれない気がするんですよ。つつましやかな方ですからね?
そんなことより姉上の嫁ぎ先の親戚なんて、ルガッタに権が集中すると不満が上がりますよ。ええ、ええ、そうならぬようにきりきり動きましょうねえ?
僕が協力するんですから、しっかりソフィー嬢を囲い込むんですよ?