三話
「真希!」
通りでうろうろしていた、見る人が見れば通報されてしまいそうな世話係に小さく声をかけると、真希は私をみてぱっと顔に笑みを広げる。
「おかえりなさいお嬢様!」
裏口で靴を脱ぎながら私は早口で問う。
「ただいま!母様は?」
「今入浴を終えたところです」
「そうー」
ほっと安堵の息を吐く。
浴室からほど近いこの場所にいつまでも留まっていては危険だろう。
手早く靴を脱いで足に残った砂を払う。
「海に行かれたのですか?」
それを見た真希が不思議そうな顔をした。
そういえば行き先までは言っていないということに思い当たる。
「うん、そう。月が海に反射してすごく綺麗なのー」
砂を落とし終わり、部屋への道を歩きながら真希に昨日からのことを話した。
海に膝まで浸かった少年を見たこと。
私も膝まで浸かって彼を助けたこと。
それから、海を背にした約束のこと。
全部話し終わる頃にはとっくに部屋に着いていた。
私の話をただ黙って聞いていた真希は、静かに口を開いた。
「それでは、これから毎日海へ行くのが日課ですね」
私のわがままな、身勝手な約束も笑って許してくれた。
そのことが純粋に嬉しい。
「もうお風呂に入っておやすみください、お嬢様」
「うん」
***
1週間後のこと。
昼間、いつもの自室でいつものように分厚い参考書に向かっていた。
そんな私を嘲笑うかのように、部屋には熱気がこもる。
昨日クーラーが壊れたことにより急にうだるような暑さの中放り出された私は汗だくだった。
細い肩ひもしかかかっていない涼しいデザインのワンピースも、全然意味がないような気がする。
「ほらお嬢様、今日も約束のためですから頑張ってください」
鉛筆の止まった私に風を送ってくれているのは、世話係の真希だ。
夜、母様が入浴している間だけ彼に会いに行くのを許されているのは、真希が指定するノルマをクリアするのが条件だった。
「うぅ・・・真希は意地悪ね」
うちわの生ぬるい風を受けながらぼやく。
「私も見つかったら大変ですから、これくらいしてもらわないと」
真希は意地悪な微笑を浮かべる。
それでも、『約束』という言葉が出ると不思議とやる気になれる。
「さぁーやろっかな」
そう口に出して気合を入れなおし鉛筆を握った瞬間、部屋の扉を叩く音。
「春華様、奥様がお呼びです」
その後に聞こえた使用人の言葉に、私は一気に不愉快な気分になる。
「何!せっかくやる気になったのに!!」
そう叫んで、鉛筆を机に叩きつけるようにしてから勢いよく立ち上がる。
荒々しい雰囲気を察したのか声をかけてくる真希に、
「お嬢様ー」
「真希はそこにいて」
冷たく言い放って扉を閉めた。
(不愉快だ・・・とっても)
***
「あなた・・・最近毎晩出かけてるでしょう」
母様の部屋に入った瞬間、こっちを見ずに言われた言葉に頭が真っ白になる。
(何で・・・!?ばれてないと思ったのにー)
動揺で何も言えずにいると、母様はさらに話し続ける。
「それも海ね。あなたから潮の匂いがするわ・・・」
どうして分かるんだろう。
母様とは廊下でたまにすれ違うだけなのに。
改めてこの人が恐ろしくなった。
「夜に海に行ったら問題ありますか」
嫌悪の念を視線にこめると、母様はちらりとこっちを見てまた逸らす。
「辻宮家の長女として問題だわ。でもそれを阻止出来ない無能な世話係はもっと問題ねー」
蔑むようなその口調に、一気に頭に血が昇るのを自覚する。
気がつくと、叫び声を上げていた。
「真希を悪く言わないで!真希は悪くない!」
それから母様の、人を殺せてしまいそうな目にはっとする。
「・・・・いいでしょう」
静かに静かに、感情を抑えた声音。
「ならばあなたが出てお行きなさい。真希は私の使用人にしてやるから」
その冷ややかな笑みに、何だか腹が立った。
「-こんな家こっちだって願い下げ!!」
くるりと背を向けて、驚き戸惑う使用人を押しのけて屋敷を飛び出した。
(母様は、やっぱり私がいらないんだ)
のろのろと歩きながらそんなことを考えていると、泣きたくなってきた。
遠くに陽炎が揺らめいていてもおかしくないような熱気の中、ただひたすら下を向いて歩く。
(もういいやーもう)
口を引き結び必死に涙を堪えていると、ふいに前から声がした。
「春華さん・・・?」
その声にはっとして顔を上げると、斜め前に不思議そうな顔をした、細くて白い、茶色の髪をした少年が立っていた。
「-珠稀!」
私は彼の所に走っていって、ぎゅっと抱きついた。
「いっー、春華さんどうしたの?」
珠稀は驚いたような声を上げて、だけど嫌がったりはしなかった。
夜の約束の砂浜に炎天下の中座るのはさすがに無理そうだったから、木の陰になっている石階段に並んで座った。
珠稀は、容量を得ない私の話をただ黙って聞いてくれた。
私の感情を全部、受け止めてくれた。
「そっか・・・春華さんやっぱりお嬢様だったんだ」
そんな珠稀の呟きに私は苦笑する。
「やっぱりって?」
分かってるけれど質問する。
「辻宮って言ったから・・・。名家じゃん」
海を見つめたままの呟きには邪悪な裏が感じられなくて、とても心地よかった。
「そうね・・・。嫌になっちゃうな」
古い家なんて何もいいことがなかった。
私も珠稀みたいに、自由に生きてみたい。
「何かさ、シンデレラみたいだね」
ふっと笑って、珠稀が独り言みたいに呟いたから笑ってしまう。
「母様にいじめられてるから?」
私がわざと出した自嘲気味の声に、珠稀は慌てて手を振った。
その姿がとても可愛くて、家を飛び出して良かったと思える。
「いや違・・・何ていうか・・・・こう、」
俯いて小声で何かと葛藤しているのが可笑しくて、笑いを堪えるのも限界だった。
「あはは、ちょっと意地悪しただけじゃない!『期限付き』な所がでしょ」
「うん」という小さな肯定に、私はもう少し意地悪してみた。
「私がお姫様なら・・・珠稀が王子様だ!」
「え、な・・・・!」
顔を赤くして何か言おうとしている珠稀を見て、急に自分も恥ずかしいことを言ったというのを自覚した。
「や、あの・・・忘れてっ!」
そのままふいっと背中を向けて黙る。
向こうでも、こちらから視線を外す気配がした。
蝉の声と波の音しか聞こえない、微妙な沈黙が降りる。
どれくらいそうしていたんだろう。
沈黙に耐えられなくなって、私はばっと珠稀を振り返った。
「ねぇ・・・、」
かけようとした言葉が、止まった。
俯いた顔は髪で隠れてしまって見えないけれど、何かに耐えているように見えて。
半そでから覗いた白い腕には、いくつものアザが見える。
(何・・・?全然気付かなかった・・・)
「珠稀・・・?」
不安になって声をかけると、はっとしたようにこっちを向いた。
「ごめん、何?」
何でもないような笑顔が、とても作り物めいていた。
私が無言で見ていると、珠稀も視線に気付いたのか苦笑いした。
「あー・・・これね。喧嘩したんだよね」
「喧嘩?」
「そ。拳で語り合ったんだー」
そう言ってにっと笑う珠稀は、いつもの笑みに見えた。
それなのに、何故か目に影を見つけてしまう。
「痛いのに春華さんが抱きついてくるから焦った」
疑問を頭で考える前に次の言葉が降って来る。
だから私は疑問なんか一瞬で放棄した。
「だってそんなの知らなかったし・・・!」
「俺も抱きつかれるなんて知らなかったなー」
可笑しそうに笑う姿はいつも通りで、私はその笑顔にいつの間にか癒されていて。
「なん・・・!あれは別にっ」
「分かった分かった」
適当に言いながら珠稀は石階段から立ち上がる。
「俺もう行かなきゃ。用事の途中だったんだよね」
珍しく珠稀のほうから手を振られる。
「また何かあったら来なよ、ぎゅって!」
後ろ向きに走りながらの声に顔が赤くなる。
「も、もうしないー!!」
早足で遠ざかる珠稀に、あらん限りの声で叫んだ。
どうやら本当に急いでいるらしく、珠稀はにっと笑うと前を向いて走り、視界から消えた。
(ー帰ろうかな)
このままいても仕方ないと思い、ゆっくりと家路に着こうとした時。
ポケットの中の携帯電話が着信を告げる。
(どうせ母様だ)
少し憂鬱な気分で電話に出ると、予想通りの私を不愉快にさせる声。
『春華。帰って来て、今すぐに』
自分で出て行けって言ったのに。
そう思うけれど、出て行けと言われても困るのは私。
つまり、どんなに嫌でも戻るしかないのだ。
「・・・はい」
本当に小さく呟いて電話を切った。