二話
「春華」
玄関に着くと、母様が怖い顔で睨んできた。
その声に、私はうんざりしながらも母様を無表情で見つめる。
「こんな遅くまでどこに行っていたの?電話も出ないで・・・」
残念な子を見るような目に、私も負けないくらい冷たい目で言ってやる。
「海に行ってました。お友達と話していたので母様の電話なんて知りません」
その物言いがここ最近で一番気に入らなかったらしく、いつにも増して顔を真っ赤にして怒鳴り始める母様。
「それでも辻宮家の人間ですか!夜中にふらふら海に出歩くなんて・・・」
そこまで言って、私のスカートの半分から下がびしょ濡れのことに気付いたのか、母様はさっと青ざめる。
真夏の温い潮風も、乾かし切れなかったみたいだ。
それを何だか面白いと思えてしまうのも、少年のおかげだろうか。
(あの人ー明日も本当に来るのかな)
そう思うと玄関先で母様に怒られていることなんか忘れられた。
口元が緩んでいたのか、母様がさらに金切り声を上げた。
「春華、聞いてるの!?」
「えぇ、聞いてます。でも母様、誰のせいで私は夜中に海をふらふらすることになったと思ってるの?」
嫌悪に口を歪めながら問うと、母様は一瞬苦い顔をする。
私は更に畳み掛けてみる。
「母様が『お前のような子は要らない』って言ったんですよ?」
自分で言った台詞に気分が悪くなる。
自嘲気味な笑みを零しながら母様を見ると、母様は盛大にため息を吐く。
「要らないなんて嘘よ。あなたは大切な私の娘なのよ?だから海に膝まで浸かるなんてバカなことしないでちょうだい」
いつもの言葉だった。
母様は私にいつも『要らない』なんて言葉を浴びせるくせに、最後にはそういうことを言う。
私には分かっていた。
甘い言葉の裏に隠された母様の本音。
母様は私を道具としてしか見ていない。
私は、母様の操り人形ー。
それが私、辻宮春華という人間。
***
「外に出たい」
次の日の昼、私の斜め後ろに微動だにせずに座っている世話係の真希に呟いてみた。
「いけませんお嬢様。まだお勉強の途中です」
真希は固い声で冷たいことを言い放つ。
私は学校には通っていなかった。
毎日毎日、あてがわれた自分の部屋でこうして真希に勉強を教えてもらう。
ピアノ、バイオリン、習字に茶道・・・。
習い事だってすごい数。
だからほとんど外には出してもらえない。
隙を見て屋敷を抜け出すくらいしか、私には出来なかった。
「真希はいいな」
ごろりと畳みの上に寝転がり、天井を見つめて呟く。
「これじゃまるで幽閉されてるみたいじゃない」
声に出すとなんだか更に空しくなってくるから不思議だ。
母様ならこんな私を見た瞬間顔色を変えるけれど、長年私の世話係の真希はこういうことも許してくれる。
この屋敷で唯一気を許せる相手だ。
「ねぇ、今夜私を外に連れてってよ」
がばっと身を起こして真希に詰め寄る。
互いの吐息が聞こえそうなほどに近づくと、真希は慌てたように少し身を引いて困ったように眉を寄せる。
「私ね、約束したの。今日の夜も会うって約束したの」
懇願するように、祈りを込めて真希を見る。
真希はしばらく答えに悩んで、小さくため息を吐く。
「その課題をやり終えたら、私が責任を持って外にお連れしましょう」
小さく笑う悪戯好きな目が、私は大好きだ。
「だから真希って好き!ありがとっ」
そう言って笑うと、真希も笑い返してくれた。
「奥様には内緒ですよ」
秘密な夜の約束を取り付けると、私の心は舞い上がって仕方なかった。
山積みの課題もいつになくやる気になり、それからは一言も話さずに鉛筆を動かし続けた。
***
「では、お気を付けてくださいね」
夜、家の裏からこっそり脱出を手伝ってくれた真希がにこやかに手を振ってくれる。
「奥様にばれてななりませんので、2時間後にはちゃんと帰ってきてくださいね?」
私に与えられた時間は、母様が入浴中の2時間だった。
それ以上はあっという間に母様に見つかってしまうだろう。
「うん、行って来ます!」
私も笑顔で頷いて、真希に背を向けて歩き出した。
海まではそう遠くないからすぐに着く。
(昨日より早いけどーいるのかな)
そんなことを思いながら、月を見上げて歩くのは楽しい。
横に結んだ長い髪が風に揺れる。
段々潮の匂いが濃くなってくるのを感じながら、昨日別れた砂浜に続く階段に着いた。
そこに昨日の彼が、風に吹かれるままになって座っていた。
石の階段に座って海を見つめる後ろ姿は、昨日と同じように寂しげだった。
私がもうちょっと近づこうと足を動かすと、足元でざりっと小さな音がする。
その音に気付いたのか、彼がばっとこっちを向いた。
「誰っ?」
その目には怯えの色が浮かんでいた。
今までに私が見たことのない目だった。
(何にそんなに怯えているのー・・・?)
でもそれも一瞬で、彼はそれが私だと分かるとぱっと表情を変えた。
安堵したような、力が抜けたような声で私に笑いかけてくれる。
「来てくれたんだ」
その笑顔に惹かれて、私は彼の側まで駆けて行く。
「だって約束したもの!」
彼はズボンに付いた砂を叩きながら立ち上がる。
半ズボンや半そでから覗く手足は、驚くほど白くて細い。
「そっか」
その笑みは、何だか寂しそうに私には見える。
時折見せる暗い影は、私を何だか不安な気持ちにさせた。
だけど一瞬でそれを消して明るい笑顔になるから、そんなことは忘れてしまう。
「歩こうか?」
「うん!」
昨日と変わらない満月の光を受けて、砂浜を二人で歩き始める。
黙ってさくさくという足音と波の音を聞きながら歩いていると、嫌なことは全部風に流れていくみたいだった。
生ぬるい潮風が私と彼の髪を、服をさらって行く。
そこまでして、私はふと思い出した。
(まだ名前も知らないなー)
昨日の夜出会ってから今まで、お互い名前も知らないまま。
私はそれがちょっと寂しくて、風に泳ぐ髪で目の隠れた彼の横顔に問いかけてみる。
「ねぇ・・・あなたなんて言う名前なの?」
彼ははっとしたようにこっちを見て、にっと笑って口を開く。
「聞く前に名乗らなきゃじゃないの?」
こっちを向く笑顔に、私の頬が染まるのを感じる。
それを誤魔化そうと私は慌てて口を開いた。
「そ、そうだよねっ!私はっ、春華。辻宮春華!春に豪華で春華」
上手く口が回らなくて、かみまくりで喋った。
ついでに余計なことまで言ったのに私は気付く。
「や、今のはそのっ・・・・」
慌てて取り繕おうとすると、彼は可笑しそうに声を上げた。
「やっぱり面白いなぁー春華さん」
優しい声で名前を呼ばれ、顔が更に赤くなるのを止められない。
初めて、自分の名前をそんな風に呼んでもらった気がする。
「俺は『たまき』って言うんだ」
彼の名前を知ったことは、何だか彼を近くに感じられて嬉しい。
「漢字は口で言うのは難しいな・・・」
彼は、たまきはそう言うとポケットから携帯電話を取り出して操作を始めた。
私が教えたから、彼も真似して教えようとしてくれているらしかった。
それがたまらなく嬉しくて、私の口はどんどん緩んでいく。
「ほら、こう書く」
ふいにそう言いながら見せてくれた画面には、『珠稀』と書かれていた。
(綺麗だなー)
何となくそう思った。
「え・・・?」
側で聞こえた不思議そうな声に珠稀の方を見ると、驚いた顔で私を見ていた。
「わ、もしかして声に出してた・・・!?」
私の焦った声に、珠稀は無言で頷く。
(何てこと・・・!)
恥ずかしさのあまり顔がさっきとは違う意味で赤くなる。
両手で顔を覆っていると、風に紛れて小さな声が聞こえてきた。
「あ・・と」
(何?今『ありがと』って言ったの?)
小さな小さな声で、半分は風に掻き消されたけれど、確かにそう言ったように聞こえた。
指の隙間から珠稀のことを見て、思わず笑い出してしまいそうになる。
だって珠稀の顔がちょっと朱に染まってたから。
可愛いなぁ、なんて思ってしまったらもう自分を止められない。
「ねぇ、何でありがとうなの?」
「な、何でもないっ」
私が意地の悪い笑みで詰め寄ると、焦った様子で後退する。
それがもっと見たくて、私はさらに一歩近づく。
珠稀がもう一歩下がろうとしても、後ろは堤防でゲームオーバー。
「ねぇ何で?」
もう一度問いかけると、観念したみたいに珠稀は口を開いた。
「あ、あんなこと言われたの初めてだから・・・!」
一気にそう言うと、『もういいでしょ』という目でこっちを見つめられる。
「へぇ・・・初めてなんだ」
私も満足して壁から離れる。
ほっとしたように息を吐く珠稀は、壁から離れると苦笑いした。
「春華さんて意地悪だね。見た目可愛いのに」
「なっ・・・・」
何かを言い返そうとした瞬間、携帯電話のアラームが辺りに響いた。
いつの間にか約束の2時間が迫っていたのだ。
「ごめん、私もう帰らなきゃ!母様に叱られるっ」
名残惜しいけれど、珠稀に背を向けて走り出そうとする。
そんな私に、強い声がかかった。
「明日も!」
切実な響きが、私の胸に届く。
足を止めた背中に、声は続いた。
「明日もここにいるから」
振り返ると、海を背景に立つ細い人影は笑っていた。
「毎日ここにいるから」
その台詞に、私も精一杯の笑顔で答えた。
「私も、毎日会いに来るよ!」
それに満足したように珠稀は私に手を振る。
私も大きく手を振り返して、夜の街へ駆け出した。