日向を覆うもの
日向薬師の朝は、穏やかだった。
山の中腹を包むように朝靄が流れている。
木々の葉には朝露が残り、細い沢からは絶え間なく水の音が聞こえていた。
境内には、薬草を煎じる香りが漂っている。
その薬草畑の一角に、一人の少女がしゃがんでいた。
淡い白色の髪。
光を受けると、わずかに水色が混じって見える。
まだ幼さの残る顔立ちは柔らかく、穏やかな瞳には、人の痛みにすぐ気づいてしまいそうな優しさがあった。
白を基調とした巫女装束は清楚で、飾りも多くない。
けれど、その姿には不思議と目を引くものがあった。
日向薬師の癒巫女。
天音。
彼女は摘み取った薬草を、一枚ずつ手に取って確かめていた。
「これは……まだ使えますね」
小さく呟き、傷んだ部分だけを丁寧に取り除く。
そこへ、境内の下から声がした。
「天音ちゃん!」
天音が顔を上げる。
「はい!」
村の女が階段を上ってくる。
その手には、小さな子供の手を握っていた。
「この子、昨日から熱が下がらなくて……」
「分かりました」
天音はすぐに立ち上がった。
少女の前にしゃがみ込む。
「お名前は?」
「……ゆき」
「ゆきちゃんですね」
天音は微笑んだ。
「少し、手を見せてもらってもいいですか?」
少女が小さな手を差し出す。
天音はその手を両手で包み込んだ。
「大丈夫ですよ」
その声は、まるで陽だまりのようだった。
少女の母親がほっと息を吐く。
「いつも、すまないね」
「そんな……」
天音は少し困ったように笑った。
「私にできることをしているだけですから」
「それが助かってるんだよ」
そう言われると、天音は頬を少し赤くした。
「……ありがとうございます」
その様子を、少し離れた場所から見ている少女がいた。
天音より二つ年上。
淡い色の髪を整え、清楚な巫女装束を身につけている。
姿勢がよく、無駄な動きがない。
優しい雰囲気はある。
けれど、その目には天音とは違う種類の落ち着きがあった。
感情を抑え、状況を静かに見ている目。
瑞雲。
日向薬師の祝巫女。
「天音」
「はい?」
「薬草」
「あ」
天音が振り返る。
さっきまで摘んでいた薬草が、そのまま地面に置かれている。
「……忘れてました」
「知ってる」
瑞雲は淡々と言った。
「患者を見つけると、他のことを全部忘れるから」
「すみません……」
「謝らなくていい」
瑞雲は薬草を拾い上げる。
「でも、自分のことも少しは考えて」
「はい」
「昨日もそう言ってた」
「……はい」
天音は小さく肩を落とした。
その光景を見ていた春霞が、木陰からぽつりと言った。
「……二人とも、似てる」
瑞雲が振り返る。
「何が?」
春霞は少し考えた。
「自分より、人のことを先にする」
「……」
瑞雲が黙る。
天音も黙った。
「春霞」
「うん」
「余計なこと言わない」
「……はい」
天音が思わず笑った。
春霞は天音よりも二つ年下。
淡い青緑を帯びた髪と、少年らしい細身の身体。
顔立ちはまだ幼い。
しかし、その瞳だけは妙に鋭い。
人には見えないもの。
聞こえないもの。
そこにないはずのもの。
そうしたものを、彼は時々感じ取る。
日向薬師の幻術師。
春霞。
その春霞が、ふと空を見上げた。
「……鳥が少ない」
瑞雲が空を見る。
「昨日も言ってたね」
「うん」
「まだ何か感じる?」
春霞は首を横に振った。
「今回は、見えない」
少し間を置く。
「でも……」
木々の奥を見る。
「山が、静か」
天音の笑顔が少しだけ曇った。
「……怖いですか?」
「怖い」
春霞は正直に答えた。
「だから慎重に見てる」
その言葉に、天音が少しだけ微笑んだ。
「それなら、お願いします」
「……うん」
春霞が頷く。
そして。
日向薬師には、もう一人いる。
境内の奥。
薬師堂から少し離れた場所に、一室だけ静かな空間があった。
襖は半分ほど開いている。
そこから淡い風が流れていた。
部屋の中には、長い淡色の髪をした青年が座っている。
白凪。
日向薬師の青年巫士。
穏やかな顔立ち。
落ち着いた眼差し。
白と淡い金を思わせる衣。
その姿は静かで、部屋そのものが彼の居場所であるかのようだった。
白凪は、ほとんど部屋から出ない。
人前に姿を見せることも少ない。
けれど。
境内で何が起きているのかは、よく分かっている。
外から天音たちの声が聞こえると、白凪は小さく微笑んだ。
「……今日も、元気だな」
その声に応えるように、部屋の中を風が通り抜ける。
穏やかな風だった。
*
昼近くになった。
天音が薬草を整理していると、村の入口から慌ただしい声が聞こえた。
「日向薬師はこちらです!」
「急いで!」
天音が顔を上げる。
階段を上ってきたのは、村人に案内された二人だった。
見慣れた姿。
「……祝麻さん?」
天音の顔が明るくなる。
「天音!」
祝麻も驚いたように目を見開いた。
次の瞬間、二人は自然に歩み寄った。
「久しぶり」
「はい!」
祝麻が天音の肩に手を置く。
「元気そうね」
「祝麻さんも」
「ちょっと疲れてるけどね」
その隣では、千早が肩で息をしていた。
山道を急いできたのだろう。
「千早さんも……」
天音が声をかける。
「おう!」
千早はいつものように笑おうとした。
だが、その顔には疲労が残っていた。
瑞雲が二人を見る。
「何があったの?」
祝麻の表情が変わった。
「……話があります」
その瞬間。
境内の空気が変わった。白凪も奥の部屋からできている。
祝麻は日向の四人を見渡した。
「伊勢原大神宮で起きていることは、もう私たちの一つの社だけでは止められない」
千早が続ける。
「大山でも異変が起きた。そして今度は……」
その時。
春霞が空を見た。
「……なにかが、来る」
「え?」
天音が振り返る。
春霞の顔から、血の気が引いていた。
「今度は……分かる」
「何が?」
「山の向こう」
その言葉の直後。
ゴォォォォォ――。
地鳴りが響いた。
境内が震える。
鳥たちが一斉に飛び立った。
木々が激しく揺れる。
「何!?」
天音がよろめく。
千早がすぐに支えた。
「天音!」
「大丈夫です!」
その瞬間。
山の向こうから、黒いものが湧き上がった。
雲ではない。
霧でもない。
空そのものが、黒く染まっていく。
「……何だ、あれ」
千早が呟く。
一滴。
黒い雫が地面に落ちた。
続いて二滴。
三滴。
そして。
ザアアアアアッ――!
黒い雨が、山を叩き始めた。
「全員、中へ!」
祝麻が叫んだ。
黒い雨が境内を打つ。
木の葉が黒く染まる。
石段を流れる水まで、濁っていく。
「これは……!」
瑞雲が息を呑む。
雨の向こうから、巨大な音が聞こえた。
ドドドドド……。
山が崩れている。
いや。
何かが、山を押し潰しながら近づいている。
「来る!」
春霞が叫んだ。
次の瞬間。
山肌が大きく盛り上がった。
土。
岩。
木々。
それらすべてを巻き込みながら、巨大な黒い影が姿を現す。
まるで巨大な土砂崩れそのものが意思を持ったようだった。
天音が息を呑む。
「……大きい」
「天音、下がって!」
瑞雲が叫ぶ。
だが遅い。
黒い塊の一部が、巨大な腕のように伸びた。
ズンッ!
境内の外に叩きつけられる。
地面が弾けた。
石が飛ぶ。
木の枝が吹き飛ぶ。
千早が前に出た。
「――礼節の盾!」
白い光が一気に広がった。
ドンッ!
飛んできた岩が光の盾にぶつかる。
千早の身体が大きく後ろへ滑った。
「ぐっ……!」
「千早!」
祝麻が駆け寄る。
「大丈夫だ!」
千早は歯を食いしばる。
「まだ持つ!」
祝麻は周囲を見る。
黒い雨。
崩れる山。
逃げ惑う村人。
そして迫る巨大な影。
「千早」
「分かってる」
二人が同時に動いた。
千早が正面を支える。
祝麻はその周囲へ光を伸ばす。
村を。
家々を。
薬師堂を。
境内を。
人々のいる場所すべてを包むように。
「ここから先には、通さない!」
祝麻が巫女の舞を踊り始める。それに呼応するように光が地面を走った。
そして。
間一髪。
巨大な黒い影が日向薬師へ押し寄せた瞬間。
二人の結界が完成した。
ドォォォォン!!
巨大な衝撃が結界を揺らした。
「くっ……!」
千早が両足を踏ん張る。
祝麻の髪が風圧で激しく舞う。
「まだ!」
「分かってる!」
二人は必死に結界を支えた。
黒い土砂のような影が、何度も結界へぶつかってくる。
一度。
二度。
三度。
そのたびに地面が震える。
「これ……いつまで……」
天音が震える声で呟く。
瑞雲が答えた。
「分からない」
春霞が目を細める。
「……あれ、攻撃してるんじゃない」
「え?」
「押してる」
春霞は巨大な影を見る。
「全部……押し込もうとしてる」
その意味を理解した瞬間。
天音の顔が青ざめた。
日向薬師そのものを。
村ごと。
飲み込もうとしている。
「だったら……」
天音は手を握った。
「私たちも、守らないと」
彼女が前へ出る。
その時。
黒い影から、細い塊が飛んできた。
「天音!」
瑞雲が腕を伸ばした。
間に合わない。
ドンッ!
天音の身体が吹き飛ばされた。
「きゃっ……!」
地面に叩きつけられる。
「天音!」
瑞雲が駆け寄る。
天音は苦しそうに胸を押さえていた。
「……大丈夫……」
「嘘」
瑞雲が言い切った。
「骨、やられてる」
天音が息を呑む。
瑞雲は天音の肩を支えた。
「治せる?」
「……はい」
天音は痛みに顔を歪めながら、両手を胸の前で重ねた。
淡い光が生まれる。
それが傷口へ流れ込んでいく。
「……っ」
痛みが少しずつ消えていく。
呼吸が戻る。
天音は立ち上がった。
「まだ、動けます」
瑞雲が呆れたように見る。
「無理しないで」
「でも……」
「分かってる」
瑞雲は天音の前に立った。
「だから、私が時間を作る」
結界の小さな隙間を縫って、黒い影が侵入し、再び襲いかかる。
春霞が手を上げた。
「――狐影!」
淡い幻がいくつも生まれた。
白い狐の幻。
それが境内を走り回り、巨大な影の視線を散らしていく。
だが。
ズズズズズ……。
影は幻など構わず、地面そのものを押し潰してくる。
「……効かない」
春霞の顔が強張る。
「でも!」
瑞雲が手を掲げる。
光がいくつもの細い筋となって走った。
影の動きを少しだけ逸らす。
その隙に千早が結界を補強する。
「これなら……!」
だが。
ドンッ!
また一撃。
千早の膝が沈んだ。
「ぐあっ……!」
「千早!」
祝麻が叫ぶ。
「大丈夫!」
千早は立ち上がった。
「まだ倒れてない!」
その時。
薬師堂の奥から、静かな風が流れてきた。
白凪の部屋からだった。
白凪は部屋の中から外を見ている。
ほとんど部屋を出ない彼は、今もそこから動いていない。
ただ。
ゆっくりと片手を上げた。
風が境内を包む。
激しい風ではない。
穏やかな風。
黒い雨を少しだけ逸らし、倒れかけた木々を支え、結界に集まった力を散らしていく。
「……白凪さん」
天音が振り返る。
部屋の奥から声がした。
「天音」
「はい」
「治せる人を、治してやってくれ」
「……はい!」
天音は頷いた。
白凪はそれ以上、部屋から出なかった。
ただ静かに風を送り続ける。
それだけで、戦場のようになった境内に、ほんの少しだけ呼吸できる場所が生まれていた。
天音は傷ついた村人のもとへ走った。
「大丈夫です」
一人。
また一人。
怪我をした者へ手を当てる。
淡い光が傷を包む。
「もう少しです」
傷が塞がる。
「立てますか?」
「……ああ」
「よかった」
その直後。
また衝撃。
結界が大きく揺れる。
天音が振り返る。
「祝麻さん!」
「大丈夫!」
祝麻が叫ぶ。
「千早!」
「まだいける!」
二人の結界は、すでに限界に近かった。
日向の神使たちと祝麻と千早は守ることで精一杯だった。
天音の力は傷を癒す。
瑞雲は流れを整え、支える。
春霞は幻を作り、時間を稼ぐ。
白凪は部屋から風を送り、場を保つ。
だが。
あの巨大な影を倒す力はない。
だから。
ただ耐える。
守る。
治す。
そして、もう一度立つ。
それしかなかった。
「……負けない」
天音が呟いた。
「ここには……生きている人がいるから」
その言葉に。
瑞雲が横を見る。
春霞も。
白凪も。
誰も答えなかった。
ただ、それぞれの力を使い続けた。
*
その頃。
大山阿夫利神社から日向へ向かう山道。
榊音たちは、まだ日向薬師へ到着していなかった。
先頭を走っていた響羽が、突然足を止めた。
「……何だ、あれ」
全員が顔を上げる。
山の向こう。
空が黒い。
異様なほど黒い。
まるで巨大な影が、空そのものを覆っているようだった。
「日向……?」
狛光が呟く。
雪影が目を細める。
「急ぐ」
短い言葉だった。
月詠も頷いた。
「ええ」
榊音は何も言わなかった。
ただ、黒く染まった空を見つめている。
胸の奥がざわつく。
嫌な予感。
それは、これまで感じたものとは違った。
「……急ぎましょう」
榊音が言った。
焔凪が走り出す。
「行くよ!」
叡光も続く。
玉響は一度だけ、山の向こうを見た。
「……間に合う」
榊音が振り返る。
「本当に?」
玉響は答えなかった。
ただ。
いつものように。
未来を見ていた。
そして八人は、黒い空へ向かって山道を駆け下りていった。
その頃、日向薬師では。
千早と祝麻の結界が、再び大きく揺れていた。
ドォォォォン――!
黒い影が、さらに迫る。
結界の表面に、細かな亀裂が走った。
「……まだだ」
千早が歯を食いしばる。
祝麻も両手を広げた。
「まだ、守れる」
その背後では。
天音が、また一人の傷を癒していた。
「大丈夫です」
そう言いながら。
彼女自身の手も、震えていた。
黒い雨は。
まだ、降り続いていた。
ふと、周囲の温度が上がった感じがした。




