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聖女を選んだ王子に婚約破棄されたので、私は魔女を選びます

作者: 宇多川マチ
掲載日:2026/07/24

「聖女が見つかった以上、白魔法の適性もないあなたとの婚約を続ける理由はありません」


 夜会の広間に、ユーリウス王子殿下の声が響いた。


 シャンデリアの光が殿下の金髪を照らす。その隣には銀髪の少女、聖女オフィーリアが白い法衣を纏い凛と佇んでいた。私から見てもこの二人はお似合いだと思ってしまった。


 周囲の貴族たちが息を呑む音がさざなみのように王宮を支配した。百人以上いる。春の夜会に集まった王国の名だたる貴族たちは、百人以上だ。婚約破棄を告げる場に、殿下はあえてこの場を選んだのだ。


 同情の視線が針のように私の肌に突き刺さる。その視線の中に安堵の色が混じっていることにも気づいていた。よかった、自分の娘ではなくて。そういう目だ。


 ああ、やっぱり。


 私は思った。「やっぱり」だ。驚きはなかった。白魔法の適性がない公爵令嬢など、王子の婚約者としては不釣り合い。幼い頃から、ずっとそう囁かれてきた。殿下がそう思っていることも分かっていた。


 ただ、こんなに大勢の前で言うことはないのではないか、とは思った。せめて二人きりの場で伝えてくれれば、私だって。


 私だって……何だ?


 泣けたとでも?


 いいや。どこで言われても同じだ。私は泣けない。

 感情を殺す。私はそれだけが得意だった。


「承知いたしました」


 私は深く頭を下げた。広間にざわめきが広がる。視界の端に映った父が何か言いかけたのだが、私は目を合わせなかった。ここで父が口を開けば、公爵家そのものが王家に刃向かったことになる。それに、どんなに泣き叫んだところで、私の婚約破棄は覆らないだろう。


「ひとつ、お願いがございます」


 殿下が眉を上げた。何か言い返されると思ったのかもしれない。


「辺境のエルデンフェルト領への退去をお許しください。公爵家にこれ以上ご迷惑をおかけするわけにはまいりませんので」


 自ら去る。捨てられたのではなく、私からこの国を去るのだ。

 それだけが、私に残された矜持だった。


 殿下の表情が一瞬だけ揺れたのを、私は見逃さなかった。まさかこうもあっさり受け入れるとは思っていなかったのだろう。もしかしたら聖女の前で泣いてすがる私を寛大に許す絵を描いていたのかもしれない。

 残念ながら、その演出は手垢がつき過ぎている。


     ◇ ◇ ◇


 三日後、私は護衛もつけず小さな馬車で王都を出た。


 行き先は北の果て、エルデンフェルト領。領地とは名ばかりの、住んでいる人間はほとんどいない辺境だ。この地ほど公爵家にとっては体のいい厄介払い、王家にとっては存在を忘れるのに都合がいい場所はないだろう。


 馬車の窓から灰色の空を眺めた。泣こうと思えば泣けたかもしれない。だが、涙の流し方はとっくの昔に忘れていた。


 異変が起きたのは五日目の峠道だった。


 季節外れの吹雪が馬車を揺らした。御者が何かを叫んでいたが、風にかき消されて聞こえない。そうこうするうちに馬車が傾き横転、私は雪の中に投げ出された。


 白い世界。音が消えた。


 手足の感覚がなくなっていく。寒さというより、世界そのものが遠ざかっていく。


 このまま死ぬのだろうか。


 怖くはなかった。王都にいた頃と同じだ。感情を凍らせてしまえば、恐怖は感じない。


 意識が薄れる直前、温かいものが頬に触れた。


     ◇ ◇ ◇


 目を開けると、暖炉の火が揺れていた。


 私は、毛皮の敷物の上に寝かされていた。石造りの部屋は狭いが、薬草と蝋燭の匂いがして、妙に気持ちが落ち着いた。天井の梁には干した薬草の束がぶら下がっている。


「起きたの?」


 声の方を見ると、暖炉の傍に女性が座っていた。


 黒い髪を無造作に束ね、飾り気のない黒のローブを纏っていた。二十歳を少し過ぎたくらいに見えるが、その紫色の瞳にはもっと長い年月が沈んでいるようにも思えた。


「ここは?」

「私の家。あの吹雪の中で倒れてたから拾ってきた。死にたかったのなら、余計なお世話だったんだけど」


 ぶっきらぼうな物言いだった。だがテーブルの上には私のためのスープが、湯気を出していた。


「ありがとうございます」

「礼はいいから、まずは食べなさい。三日も寝てたんだから」

「三日」

「ほとんど凍死してた。治すのに苦労したわ。男性の方は間に合わなかった」


 男性とはおそらく御者のことだろう。彼には申し訳ないことをした。

 気が沈んだが、ぐぅと鳴るお腹の音に我に返る。


 スープを受け取り、一口飲んだ。温かい液体が喉を通る感覚に、身体が震えた。


「あなたは?」

「ルナリオン。ただの魔女よ」


 魔女。

 私は目を見開いた。魔女とは、黒魔法を使う者の総称、聖女と対をなす存在。王国において迫害の対象であり、見つかれば直ちに処刑される。


 なのに、なぜ私を助けた?


「そんな顔しないで。とって喰いはしないから」


 ルナリオンは肩をすくめた。


「それより、あなた、面白いわね」

「面白い?」

「その身体の中に、とんでもないものが眠ってる」

「とんでもないもの?」

「魔力よ」


 何を言っているのか分からなかった。私は白魔法が使えない。幼い頃からそう診断されていた。公爵令嬢でありながら魔法の適性がない。それが私の恥であり、婚約破棄の直接の理由でもあった。


「魔法の適性がない? 嘘よ。あなたの中にあるのは、あんな枠に収まるものじゃない」


 私は驚いた。心の声を読まれたからだ。


 ルナリオンは暖炉の火を見つめたまま、薄く笑った。


「いいわ。しばらくここにいなさい。外はまだ吹雪いてるし」


     ◇ ◇ ◇


 「しばらく」は、一日、また一日と伸びていった。


 吹雪は収まったが、私にはどこにも行く理由がない。名ばかりの領地に行ったところで、誰が待っているわけでもない。


 ルナリオンは干渉しない人だった。一緒に暮らしていても、必要以上に話しかけてこない。ただ毎日、私の分の食事を作り、毛皮を多めに用意し、暖炉の炎を絶やさなかった。


 近くも遠くもない距離感だった。王都では、誰もが私に何かを期待するか、何かを求めるかのどちらかだった。だがルナリオンは何も求めなかった。


 ただ、ときどき、薬草を煎じている彼女の横顔がひどく寂しそうに見えることがあった。


 窓の外の雪景色を眺めているときの紫の瞳。自分がそこに映っていないかのような、遥か遠くを見据える目。その表情がふと消えて、私の視線に気づいたルナリオンが「何?」とぶっきらぼうに聞く。「いえ、何でも」と答える。そんなやり取りしかしていなかった。だが、不思議と心地よかった。


 ある夜、私が暖炉の前で本を読んでいると、ルナリオンが隣に座った。いつもより距離感が近い。今夜は特に冷え込んでいて、暖炉の熱が足りないのだ。


 ルナリオンも本を読んでいた。古い魔術書だった。ページをめくる指は相変わらず冷たそうだったので、私は思わず自分のショールの端をルナリオンの膝にかけた。ルナリオンが一瞬手を止めて、何も言わずにページをめくり直した。彼女が私に肩を寄せる。その部分がとても、温かかった。


 転機は、翌朝訪れた。


「手を出して」


 朝食の後、ルナリオンが唐突に言った。


 言われるまま差し出すと、ルナリオンが両手で私の右手を包んだ。指先が思いのほか冷たくて、私は少し驚いた。この人の手はいつも冷たい。


「目を閉じて。胸の奥にある『熱』に意識を向けなさい」

「『熱』?」

「いいから、やってみて」


 言われるまま目を閉じる。しばらく何も感じなかった。

 だがルナリオンの手が微かに私の手に力を込めた瞬間、胸の奥で何かが脈打った。


 熱い。


 身体の芯から熱が湧き上がってきた。押さえつけられていた蓋が外れたように、その熱は奔流となって全身を駆け巡る。目を開くと私の手とルナリオンの手の間で、淡い光が揺れていた。白でも黒でもない、温かな金色の光だ。


「やっぱり」


 ルナリオンが呟いた。その声はいつもと違って、かすかに揺れていた。


「あなたの魔力、とんでもない量よ。白魔法の枠に無理やり押し込もうとしたから溢れて、適性なしと判定されただけ。紅茶のカップに海の水を全部注ぐようなものね」

「紅茶のカップに海の水全部」


 その比喩は、うまく頭で理解できなかった。


「でも私、白魔法に適性がないから……これって、黒魔法になるんですか?」


 ルナリオンは笑った。今度ははっきりと、声を上げて。


「ねえ、シャルルロッテ。教えてあげる」


 名前を呼ばれたのは初めてだった。ルナリオンはこれまで私のことを「あなた」としか呼ばなかった。


「魔法に白も黒もないの。元は同じ力よ。人の身体に流れる魔力を、王家が勝手に二つに分けて名前をつけただけ。白魔法は、王家に都合のいい範囲に制限された魔法のこと。それ以外を黒と呼んで、使い手を魔女と呼んで排除した。ただ、それだけ」


 頭の中が真っ白になった。


 白魔法と黒魔法は別のもの。聖女は白を、魔女は黒を使う。それは王国の常識で、生まれた頃からずっと疑ったことすらなかった。


「あなた、どうしてそんなことを……」

「知ってるのか? って、聞きたいんでしょう?」


 ルナリオンは暖炉の火を見つめた。紫の瞳に炎が映っている。


「私はね、昔、聖女候補だったのよ」


 息が止まった。


「白魔法の適性が高いって大騒ぎされて、王都に連れてこられた。けど、学べば学ぶほど分かってしまった。白と黒の区別なんて存在しないって。私が使う魔法は、最初から白でも黒でもなかった。ただの魔法だった」


 ルナリオンは視線を落とした。


「それを上に報告したら、妖術に堕ちたって発表されて、追放された。それだけの話よ」


 そっけない口調だった。彼女はずっと一人で、その真実と向き合っていたのだ。ずっと本当のことを知っていて、誰ともわかりあえないまま。


「ルナリオン」


 気がつくと、私は彼女の手を握り返していた。ルナリオンが少し目を見開いた。だが手は引っ込めなかった。


 この人の手が冷たい理由が、分かった。


     ◇ ◇ ◇


 それからの日々は、王都にいた十八年間のどの一日よりも輝いていた。


 ルナリオンは私に魔法を教えてくれた。白でも黒でもない、ただの魔法だ。制限を外した魔力は、驚くほど素直に私の身体を流れた。


 最初は小さなことからだった。手のひらに光を灯す。水を温める。ルナリオンが淹れてくれた薬草茶が冷めないように、カップを両手で包んで熱を保つ。


「力を押し込めるのではなくて、流すの。川の流れと同じよ。堰き止めれば溢れてしまう。流れを感じて、その流れの向きを変えるだけ」


 ルナリオンの教え方は、王都の魔法教師とはまるで違った。王都では「白魔法とは聖なる祈りである」「心を清めて神に捧げよ」と言われた。私にはそれがずっとできなかった。


 だがルナリオンは、祈りとか神とかそういうことは一切言わなかった。ただ「感じなさい」「流しなさい」「あなたの身体が知ってるから」と、私の体の中に問いかけるように、導いてくれた。


 それだけで、魔法は嘘のように私の手に馴染んだ。


 雪を溶かすことを覚えた。風の声を聞くことを覚えた。ルナリオンが普段使っている結界の仕組みが分かるようになった。


 ある日、練習で生み出した光が大きくなりすぎて、家の外の雪をすべて蒸発させてしまった。雪解け水が家の中まで入り、床下まで浸水してしまった。


「やりすぎよ」

「す、すみません……」

「謝らなくていい。加減を覚えなさい」


 そう言いながら、ルナリオンは濡れた床や家具を魔法で乾かした。ため息をついたあと、口元をほんの少しあげる。


「筋がいいわね。その才能に、嫉妬するくらい」


 ルナリオンが優しい瞳で言った。私は思わず視線をそらした。褒められ慣れていないのだ。王都では「適性なし」としか言われたことがなかったから。


 魔法の枷が外れるにつれて、私の中の別の枷も緩んでいった。


 ある朝、ルナリオンが作った薬草茶がいつもと味が違うことに気づいて、思わず笑った。声を出して笑ったのは、もう何年ぶりだろう。


「どうしたの。急に」


 ルナリオンがぎょっとした顔をした。


「今日のお茶、いつもと配合が違います。シナモンを入れすぎたでしょう」

「入れすぎたんじゃなくて、あなたが寒がりだから多めに入れただけよ」

「そうなんですか」

「何よ、不味いの?」

「美味しいです」

「だったら変な顔で笑わないで」


 そっぽを向いたルナリオンの耳先がほんの少し赤くなったのを、私は見逃さなかった。



 笑顔だけでなく、怒りも戻ってきた。


 婚約破棄されたことへの怒りではない。

 白魔法不適格の烙印を押され、自分には価値がないと信じ込まされてきたことへの怒り。

 何も知らずに、ただ殿下に選んでもらうことだけを生き甲斐にしていたあの頃の自分への怒り。


 そしてルナリオンと同じ真実を知っていたかもしれない人々が、それを隠し制度を維持してきたことへの、静かな怒り。


「いい顔するようになったじゃない」


 ルナリオンが、魔法の練習中に暴走しかけた私を見て、呆れたように、でもどこか嬉しそうに言った。


「やっと人間らしくなってきた」

「なんですかそれ。まるで私が、人間じゃなかったみたいじゃないですか」

「最初に拾ったときは、人形みたいだった」

「人形」

「目が死んでた。笑わない、泣かない、怒らない。今の方が、ずっといい。あなたらしいわ」


 あなたらしい、と言ったルナリオンの声が、普段より柔らかかった。


 だがその平穏は、長くは続かなかった。


     ◇ ◇ ◇


 ある朝、いつものように窓辺で魔力の流れを練習していると、ルナリオンが鍋の蓋を閉める音がやけに大きく響いた。振り返ると、ルナリオンが窓の外を見ていた。その目が鋭い。


「客よ」

「客?」

「招かれざるね」


 窓から外を覗くと、山の麓に王国の紋章を掲げた騎士団の一隊が見えた。銀の甲冑が朝日を反射して、白い斜面に光の列を作っている。完全武装の十数騎の騎士団だ。


 思わず息を呑んだ。あの紋章は見覚えがある。ユーリウス殿下の直属、近衛騎士団のものだった。


「わ、私を捕まえに来たんでしょうか」

「公爵令嬢が行方不明で、辺境の領地にも到着しなかった。途中には、魔女が住むという噂の万年雪の山。繋がりを疑うのは当然ね」


 ルナリオンはいつもの調子で言った。だが、薬草を棚に戻すその指先は微かに震えていた。

 何度も追手を退け、結界を張り直し、一人で山を守ってきた手。その指が、今、震えている。


「シャルルロッテ」


 ルナリオンが暖炉の炎を見つめながら言った。


「逃げなさい」

「え?」

「山を下りて、東の街道に出れば隣国に行けるわ。私のことは知らなかったと言えばいい。魔女に攫われて監禁されていたとでも言えば、咎めは受けない。まだ間に合うわ」


 その声はあまりにも慣れた口調だった。何度も同じ台詞を言ってきたのだと分かった。


 ルナリオンはこうやって、何度も人を逃がしてきたのだ。そして、一人でここに残り続けた。一人で戦って、一人で結界を張り直して、一人でスープを作って、一人で暖炉の火を見つめて。


 だから手が冷たいのだ。ずっと、一人だったから。


「嫌です」


 私が言うと、ルナリオンが振り返った。


「私は、ここにいたいんです」


 声が震えた。感情を殺す癖が、初めて効かなかった。


「あなたが教えてくれたんです。私の力は、枠に収まらないだけだって。魔法に白も黒もないって。だったら、私の居場所も、自分で決めます」


 ルナリオンが目を見開いた。紫の瞳は暖炉の炎ではなく、私を映していた。


「馬鹿ね」


 それだけ言って、ルナリオンはそっぽを向いた。

 だが、その指の震えは止まっていた。


     ◇ ◇ ◇


 騎士団が山を登ってきた。


 先頭の騎士団長が剣を抜き、結界の前に立つ。私とルナリオンは家の前に出た。隠れていても無駄だと思ったからだ。


「公爵令嬢シャルルロッテ。王命によりお迎えに参りました。黒魔法の使い手に唆されたものと判断し、保護の上、王都へお連れいたします。そこの魔女は、問答無用で拘束する」


「保護、拘束」


 その言い方が妙に鼻についた。私は一歩前に出た。

 ルナリオンが「待ちなさい」と言った。だが、私は聞かなかった。


「騎士団長。ひとつお聞きしたいのですが、白魔法と黒魔法の違いを、あなたは説明できますか?」

「何を言っている。白は聖なる力、黒は禁忌の力。子供でも知っていることだ」

「では、これはどちらですか」


 私は両手を前に出した。


 胸の奥にある熱に意識を向ける。枷はもうない。私の中を流れる魔力が、手のひらから溢れ出した。

 温かな光が広がった。金色の光だ。


 雪が溶けた。私を中心に、凍りついた地面から緑の芽が顔を出す。同時に、騎士たちの周囲に風の壁が生まれ、穏やかに、しかし絶対的な力で、彼らを押し返した。


 癒しと防御と、そして力の顕示。白と呼ぶにはあまりに強く、黒と呼ぶにはあまりに優しい光。


 押し返された騎士の一人が、呆然と足元を見た。凍土だったはずの地面から、名もなき花が咲いていた。一輪ではない。万年雪の山に、花畑が急に現れた。


 騎士団長の顔から血の気が引いた。


「こ、こんな魔法は、見たことがない」

「でしょうね。これは白魔法でも黒魔法でもありません。ただの魔法です。魔法にはもともと、色なんてないんです」


 騎士たちが動揺していた。剣を構え直す者、後退る者。足元の花を踏まないように無意識に避ける者。反応はさまざまだが、皆この花を悪意の産物だとは、誰も思っていないようだった。


「騎士団長」


 私は静かに言った。感情を殺しているのではない。初めて、自分の意志で感情を選んでいた。怒りでも恨みでもない。


「王都にお戻りになり、ユーリウス殿下にお伝えください。白魔法不適格のシャルルロッテは、この山で元気に暮らしております、と。保護は不要です」


 一呼吸。


「そして、もし殿下が聖女の白魔法の適性だけを見て私を切り捨てたのだとしたら、それがどれほどの誤りだったか、いずれお分かりになるでしょう。この花を見せれば、伝わるのではないですか」


 私は足元の花を一輪摘み取り、結界の外にいる騎士団長に手渡した。騎士団長は長い間、私を見つめていた。それから手元の花に目を落とし、ゆっくりと剣を鞘に収めた。


「撤退する」


 部下たちがざわめいた。


「しかし団長、王命では……」

「見なかったのか、あの魔法を。我々の手に負えるものではない。帰還後、ありのままを報告する」

 騎士団長は低く言った。


 ありのまま。


 その言葉に、私は少しだけ笑みを浮かべた。ありのままが報告されれば、王都は揺れるだろう。白魔法不適格の公爵令嬢が、白でも黒でもない、とてつもない魔法を使った。それは「白と黒の区別」そのものに疑問を投げかけることになる。


 殿下がそれを聞いたとき、どんな顔をするのだろうか。


 いや、もうどうでもいい。


 騎士たちが山を下りていくのを、私とルナリオンは黙って見送った。最後の一騎が峠の向こうに消えるまで、動かなかった。


「大丈夫?」

「はい?」

「膝」


 ルナリオンの視線を辿る。私の膝が小刻みに震えていた。強がってはみたが、王国の騎士団を相手に啖呵を切るなど、一ヶ月前の私には想像もつかないことだった。あの頃の私は、殿下の隣で黙って微笑んでいるだけの人形だったのに。


「まあ、上出来よ」


 ルナリオンが私の肩に手を置いた。その手の冷たさが、今では心地よく感じる。


     ◇ ◇ ◇


「ねえ」


 家のドアを開けたところで、ルナリオンが振り返る。


「はい?」

「本当にいいの。ここにいて」

「いいんです」


 私は笑った。頬が少し痛かった。まだ笑い慣れていないのだろう。でも、この顔の筋肉は、これからたくさん使うことになる。そんな予感があった。


「だって私は、自分でここにいることを選んだんですから」


 ルナリオンが何か言おうとして、口を閉じ、また開いた。


「スープ、作るから。入りなさい」


 ぶっきらぼうに言って、ルナリオンは家の中に消えた。


 ドアを閉めなかった。私が入ってくるのを待つように、開けたままだった。


 私は振り返り、空を見上げた。


 万年雪の山に、夕焼けが広がっている。世界は白でも黒でもなく、茜色に染まっていた。さっき私が咲かせた花が、風に揺れて光を反射させている。雪と花が共存するこの景色は、ここに来るまで見たことがなかった。


 凍っていたのは山ではない。私の心の方だった。


 家の中から、コトコトとスープを温める音がした。それと、何かメロディが聞こえてくる。ルナリオンが小さく鼻歌を歌っていた。彼女の鼻歌なんて、初めて聞いた。


 王子殿下。


 あなたが聖女を選んだから、私は魔女を選びました。

 あなたにとってそれが得だったのか損だったのかは、もう私の知ったことではありません。


 でも、ひとつだけ確かなことがあります。


 私はいま、生まれて初めて、幸せです。


     ◇ ◇ ◇


 王都、玉座の間。


 騎士団長の報告を聞き終えたユーリウスは、しばらく口を開かなかった。

 テーブルの上には一輪の花が置かれていた。それを見つめるユーリウスの指先が、微かに震えていた。


「もう一度、最初から説明しろ」


 その声は、春の夜会の時とはまるで別人のように掠れていた。

 騎士団長は繰り返した。一言一句、ありのままを。


 ユーリウスの背後で、聖女オフィーリアが静かに目を伏せた。

 その横顔は、誰が見ても清らかだった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

少しでも楽しんでいただけましたら、ブクマ・評価で応援していただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
元聖女の魔女より聖女のが魔性のものっぽい不穏さ。 なんか続編がありそうな終わり方ですね。
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