顔のない先生。その課題について――。
噂は噂だ。
この学校には顔のない先生がいるって。
「美術の先生らしいの」
「美術の先生は森先生でしょ?」
「違う違う。森先生には顔があるじゃない」
どこにでもあるような噂だ。
小学校でも、中学校でも、高校でも――。
生徒の談笑。
響く足音。
音と声がコンクリートの上で踊る。
他愛もなく、無機質に。
「顔がないって。本当にないの?」
「馬鹿じゃない? そう言うんじゃなくって要するに」
居るはずもない先生の話だ。
顔のない先生。
学校中は勿論、職員室を探したって居ない。
「ある日ね。急に課題が出されるんだって。絵の課題」
「絵?」
「うん。スケッチ帳が一冊机に置かれてね。そこに書かれているんだって」
「何が?」
「それはね――」
あの時、あの子は何て言っていただろうか。
対処法はあっただろうか?
どうすれば良いって教えてくれなかっただろうか?
思い出せない。
外から部活動をする生徒の声は聞こえる。
廊下からは生徒の談笑や先生の叱る声、皆が歩く音が確かに聞こえた。
だけど、私は教室に独りっきりだ。
『あなたの死に様を描いてください』
机に置かれたスケッチ帳。
真っ新なページの下部に書かれた先生の文字。
綺麗で、丁寧で、整っていて――。
無視して教室を出ようとした。
なのに扉は開かない。
窓を開けようとした。
鍵もかかっていないのに開かない。
大声で助けを呼んだ。
返事が返ってこない。
だからもう。
私はスケッチ帳を触るしかなくなった。
ぱらぱらとめくるページ。
今までの生徒の描いた絵が数えきれないほどある。
上手な人も、下手な人も。
全部が全部、死に様で統一されている。
事故死や病死といった想像しやすいものから、誰が描いたのだろう処刑台で首を刎ねられるものから銃で撃ち抜かれるような現代の日本ではちょっと考えづらい死に様まで。
試しに。
震えながらスケッチ帳を破く。
意外なことに抵抗はない。
あっさりとページはビリビリに破けてしまった。
「良かった」
何故かそう呟いて私はスケッチ帳をビリビリに破く。
もう全部がぐちゃぐちゃになった頃。
不意に教室の扉が開いて友達が入ってくる。
「どうしたの? 声が聞こえたけれど」
説明をしようとした私の傍にはもうスケッチ帳はなかった。
安堵した。
ほっとした。
心から。
「ううん。何でもない」
*
翌日。
スケッチ帳はまた机の上に置かれていた。
何事もなかったかのように。
だけど、文字は追加されていた。
『破かないでください。これは私のものですから』
呆然とする私の前でまるでスマホの画面のように文字が書かれていく。
『書いてください。今日中に』
『今日中に。今日中に』
『必ず』
小さな悲鳴をあげながら私は必死に絵を描く。
美術の成績は悪かったけれど、それでも少しでも満足してもらおうと。
ベッドで眠る私の周りに他の人々が泣いている絵。
私は穏やかでお婆さんで幸せそうに眠っていて――。
『年を取りすぎています』
文字が出てきた。
私は半べそになりながらベッドに眠る自分の絵をお婆さんではなく大人に変える。
『まだ年を取りすぎています』
「なんでさ。なんでさ」
理不尽に泣きわめきながら私は等身大の、つまり十代の自分を描く。
『周りの人たちの特徴をしっかり描いてください』
抵抗しても無駄だ。
そう思った私は周りの人々の絵を親しい人たちの特徴に変えていく。
お父さん、お母さん、友達……。
『あなたの父はこんなに太っているのですか?』
『あなたの母はこんなに皺があるのですか?』
『あなたの友達はこんなに女性ばかりなのですか?』
必死に。
なんでこんなことをしているのか分からないまま――。
やがて先生の指摘はなくなった。
『味のある良い絵です。画家になってはいかかでしょうか?』
「しらない」
どうにか呟く。
顔は涙まみれ。
怖くて、悲しくて、意味が分かんないまま一瞬の瞬きと共にスケッチ帳は消えた。
震える私をそのままに。
校舎から響く日常の音が現実であると否応なしに伝えるままに。
私は独り、泣き続けるばかりだった。
お読みいただきありがとうございました。
この作品は【ホラー】として描いた故に削除した結末があります。
蛇足気味になるかもしれませんが、せっかくなので『後書き』に載せています。
*
死に怯え続けた十代が終わり、日に日に記憶が失せていく二十代を過ぎ、結婚して子供が出来て子育てに追われた三十代を乗り越え、四十代になった頃。
私と同じ学校に通うことになった息子が夕食時にぽつりと漏らした。
「学校の七不思議でさ。顔のない先生っていうのがあって――」
解けていく記憶の波に揺られながら、私はくすりと笑い呟いた。
「先生。お変わりないのね」




