第5話:二人の再出発
日記を読み終えたあの日、僕と結菜は陽菜の仏壇の前で、子供のように声を上げて泣いた。
これまで我慢していたすべてを吐き出すように。陽菜を幸せにできなかった後悔も、一人残された孤独も、そして彼女の代わりに生きなければならないという重圧も。
けれど、泣き疲れて顔を上げたとき、遺影の中の陽菜は、あの日公園で僕を叱り飛ばした時と同じ、悪戯っぽくて力強い笑顔で僕たちを見ていた。
「……ねえ、悠太くん。お姉ちゃん、怒ってるかな。『いつまで泣いてるの、バカ!』って」
「……ああ。きっと、全校放送の準備を始めてる頃だろうな」
結菜がふっと小さく笑い、僕もそれに釣られて笑った。
陽菜が遺したのは、重い「義務」じゃなかった。僕たちが自分たちの人生を、自分たちの足で歩き始めるための、最後の一押しだったんだ。
それからの日々は、止まっていた時計の歯車が、錆を落としながらゆっくりと噛み合っていくような時間だった。
僕は再び、絵筆を握った。
キャンバスに向かう時、隣に陽菜はいない。けれど、筆を動かす指先に、彼女がくれた「逃げるな」という言葉が、確かな温もりとして宿っているのを感じる。
結菜もまた、少しずつ自分の色を取り戻していった。
彼女は陽菜が使っていた部屋のカーテンを開け、花を飾り、自分の将来のために勉強を始めた。姉の影を追うのではなく、姉が愛した自分自身を大切にするために。
二人の間には、まだ言葉にできない淡い感情が揺れている。
それは「恋人」と呼ぶにはまだ早すぎるし、「幼馴染」と呼ぶにはあまりに多くの痛みを共有しすぎていた。
「悠太くん。……次の休み、空いてる?」
ある日の放課後。図書室のあの指定席で、結菜が僕に問いかけた。
彼女の手には、あの後半がまだ少し白いアルバムが握られている。
「……ああ。例の場所、行こうか。陽菜が、一番最後に行きたいって言ってた……」
「うん。約束の場所へ」
結菜の瞳には、かつての「月」のような儚さだけではなく、明日を見据える強い光が宿っていた。
週末、僕たちは陽菜が最後の一頁に書き残していた場所へ向かった。
街の喧騒を離れ、バスに揺られること一時間。たどり着いたのは、海を見下ろす丘の上にある、小さな天文台跡だった。
陽菜が病室で、酸素マスク越しに「……星が、一番近くに見える場所に行きたいな」と零していた場所。
丘の上へと続く坂道は急で、僕は結菜の足取りを気にかけながらゆっくりと歩いた。かつてなら、陽菜が僕の背中を叩いて「遅いよ!」と駆け出していたはずの道だ。けれど今は、僕たちの隣にその足音はない。
「……ねえ、悠太くん。お姉ちゃん、本当にここにいたのかな」
立ち止まった結菜が、額の汗を拭いながら空を見上げた。
昼間の天文台は、星こそ見えないけれど、空が驚くほど近かった。手の届きそうなほど低い雲が、ゆっくりと流れていく。
「ああ。きっと、今もここにいるよ。……僕たちのこと、見て笑ってるよ」
僕はカメラバッグから、あの一冊のアルバムを取り出した。
後半のページには、この数ヶ月で僕と結菜が二人で歩いた景色の写真が、少しずつ、けれど着実に増えている。陽菜との思い出を上書きするのではなく、陽菜が見守ってくれる世界を広げていく作業。
「……悠太くん。私、ずっと言えなかったことがあるの」
結菜が、僕のカメラのレンズをじっと見つめながら言った。
「お姉ちゃんのお願いを『背負わなきゃ』って、ずっと思ってた。お姉ちゃんの代わりに悠太くんを支えて、お姉ちゃんの代わりに幸せにならなきゃいけないって。……でも、それって違うんだよね」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれた。それは悲しい涙ではなく、何か重い荷物を下ろしたような、晴れやかな涙だった。
「お姉ちゃんは、私に『身代わり』になってほしかったんじゃない。私が、私として悠太くんの隣にいることを、許してくれたんだと思う。……そう思っても、いいかな」
結菜の声が、風に溶けていく。
僕は、彼女の手をそっと握った。陽菜の手とは違う、柔らかくて、少し震えている結菜の手。
「……いいんだよ、結菜。僕も同じだ。陽菜を忘れるためじゃなく、結菜と笑い合うために、僕はここに来たんだから」
二人の間に流れる時間は、もう止まってはいなかった。
陽菜が遺した「宿題」は、いつの間にか僕たちの「意志」に変わっていた。
「……行こう。一番高いところまで」
僕たちは、陽菜が最後の一頁に描いた、その先の景色を見るために、再び歩き出した。
丘の頂上に辿り着いた瞬間、視界が一気に開けた。
眼下には街並みがミニチュアのように広がり、その先には陽菜が行きたがっていた、銀色に光る海が地平線まで続いていた。
「わあ……凄い。お姉ちゃん、本当にここに来たかったんだね」
結菜が感嘆の声を漏らし、手すりに駆け寄る。風に吹かれる彼女の髪が、午後の光を透かしてきらきらと輝いていた。
僕はカメラを構えた。
ファインダー越しに見えるのは、亡き姉の面影を宿しながらも、今この瞬間を懸命に生きている一人の少女の姿だ。
「結菜、こっち向いて」
僕が呼ぶと、結菜は少し驚いたように振り向き、それから照れたように、でも今までで一番自然な満面の笑みを浮かべた。
カシャリ、と乾いた音が響く。
それは、陽菜が遺したアルバムの、最後から二番目のページを埋める音だった。
「……ねえ、悠太くん。最後のページ、何にするか決めてる?」
結菜がアルバムの、たった一枚だけ残された真っ白なページを指差した。
僕は首を振った。
「いや。そこは……まだ空けておこうと思う。これから先、僕たちがもっと歳をとって、もっとたくさんの景色を見た後に、一番いいやつを入れればいいから」
僕の言葉に、結菜は一瞬目を見開いた。それから、納得したように深く頷いた。
「そうだね。お姉ちゃんもきっと、『気が長いね』って笑いながら待っててくれるよ」
僕はカメラをバッグにしまい、結菜の隣に立った。
陽菜が病室で願った「星に近い場所」は、夜になればきっと満天の星空に包まれるだろう。でも、今の僕たちには、この眩しい太陽の光と、隣にいる体温だけで十分だった。
「……行こうか。次は、どこに行こう」
「お姉ちゃんのリストにはない場所、探してみる?」
結菜が僕の手を、今度は迷いなく握り返した。
その手は温かく、しっかりと僕をこの現実へと繋ぎ止めてくれている。
僕たちは、陽菜の「お願い」を背負うのをやめた。
その代わりに、陽菜が愛したこの世界を、僕たちの足で歩いていくことに決めたんだ。
丘を下りる僕たちの背中を、追い風が優しく押した。
まるで、見えない誰かが「ほら、早く行きなよ!」と、悪戯っぽく背中を叩いたかのように。
振り返らずに歩き出す二人の足跡は、重なり合いながら、新しい物語へと続いていく。




