第4話:姉の遺した日記
陽菜が旅立ってから、季節は一つ分、残酷に通り過ぎていた。
結菜から託された日記を、僕は何度も読み返した。擦り切れるほどめくったページには、陽菜の力強い筆跡で、僕たちへの「遺言」が刻まれていた。
『結菜、あんたが悠太のこと好きなの、実はずっと前から気づいてたよ』
日記の中ほど、病状が悪化し始めた頃の記述に、その一文はあった。
『私が悠太と付き合い始めた時、あんたが笑って「おめでとう」って言ってくれたの、本当はすごく胸が痛かった。私の自慢の妹は、優しすぎるから。……でもね、もし私が先に行っちゃったら、あいつのこと頼むね。悠太は一人じゃ、きっとまた殻に閉じこもっちゃうから』
心臓が早鐘を打つ。陽菜は、すべてを分かっていたのだ。僕の弱さも、結菜の秘めた恋心も。そして、自分が去った後に僕たちが互いに顔を合わせられなくなることまでも。
『アルバムの白紙のページは、私からの宿題。二人がこれからの人生で出会う景色を、私の代わりに埋めていって。それが、私の最後のお願い』
僕は日記を閉じ、震える手でスマートフォンの画面を叩いた。
数ヶ月、一度も送ることのできなかった結菜へのメッセージ。
『……結菜。今から、公園に行ってもいいかな』
返信はすぐに来た。
『待ってるね』
たった五文字。けれどその文字が、止まっていた僕の時間を、ゆっくりと、けれど確実に動かし始めた。
夜の公園。街灯の下に立つ結菜は、あの日と同じように、少しだけ寂しげな微笑みを浮かべて僕を待っていた。
「……読んだよ、日記」
僕が切り出すと、結菜は静かに頷いた。
「お姉ちゃん、お節介だよね。……自分が一番辛いはずなのに、最後まで私たちのことばっかり」
結菜の瞳には、かつての濁りはなかった。
彼女もまた、日記の中に遺された姉の「許し」を受け取ったのだ。
「私ね、悠太くんのことが好きだった自分を、ずっと消したかった。お姉ちゃんを裏切ってるみたいで、自分が大嫌いだったの」
結菜の声が、夜の風に震える。
「でも、お姉ちゃんに『頼むね』なんて言われたら……もう、嫌いなままでいられないよ」
僕は、ポケットに入れていたあの「未完のアルバム」を取り出した。
後半が真っ白な、陽菜との思い出の欠片。
「結菜。……この続き、一緒に埋めてくれないか」
夜の公園のベンチ。僕たちは、あの日陽菜と座った時と同じ距離で並んだ。
手元にあるアルバムの、重くて白い後半のページをめくる。指先が震えた。
「お姉ちゃん、意地悪だよね」
結菜が、膝の上で手をぎゅっと握りしめながら呟いた。
「こんなこと書かれたら、もう逃げられないじゃない。悠太くんを一人にするなって、幸せになれって……自分の場所を、私に譲るみたいなこと書いて」
結菜の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちてアルバムの白い紙に染みを作る。
「私、お姉ちゃんが大好きだった。でも、同じくらい……同じくらい、悠太くんのことが好きだったの。だから、お姉ちゃんがいなくなった時、心のどこかで『これでいいんだ』って思っちゃった自分がいて……それが、たまらなく怖かった」
彼女の告白は、静かな夜の空気を切り裂くようだった。
結菜がずっと抱えていた孤独。姉の恋人を想い続ける罪悪感。そして、姉の死によってその想いが「自由」になってしまったことへの恐怖。
「結菜……」
僕は、彼女の震える肩に手を置こうとして、躊躇った。
僕だって同じだ。陽菜を幸せにできなかった自分を責めることで、結菜から逃げていた。彼女の中に陽菜の面影を探してしまうのが怖くて、彼女の優しさに甘えてしまう自分が許せなくて。
「でもね、日記の最後に書いてあったの」
結菜が顔を上げ、涙を拭った。
「『二人が出会うこれからの景色を、私の代わりに埋めてほしい』って。お姉ちゃんは、私に場所を譲ったんじゃない。私たちが、自分たちの足で歩き出すのを、一番特等席で見守るって決めたんだよ」
結菜の手が、アルバムの白紙のページにそっと触れた。
「悠太くん。……私、お姉ちゃんの代わりにはなれない。でも、お姉ちゃんが見たかった景色を、一緒に探しに行くことならできると思う」
その言葉は、呪縛のようだった陽菜の死を、ようやく「思い出」という名の光に変えてくれた気がした。
僕たちは、陽菜を忘れるために歩き出すんじゃない。
陽菜が愛してくれた自分たちを、もう一度愛するために歩き出すんだ。
「……行こう、結菜。陽菜が待ってる場所に」
僕の言葉に、結菜は溢れそうな涙をこらえ、強く、何度も頷いた。
翌朝。僕は数ヶ月ぶりにカメラバッグを肩にかけた。レンズに溜まった僅かな埃を吹き飛ばすと、ファインダー越しに見える世界が、昨日までより少しだけ鮮明に見えた気がした。
玄関を出ると、そこには結菜が待っていた。
彼女は、陽菜がよく着ていたカーディガンを羽織っていた。サイズが少し大きいのか、袖口から覗く指先が小さく見える。それは、姉の形見を身に纏うことで、ようやく彼女が「お姉ちゃん、一緒に行こう」と心に決めた証のように思えた。
「準備、できた?」
「……ああ。行こう」
二人が最初に向かったのは、リストの続きにある「海が見える駅」だった。
陽菜が病室で「行きたかった」と零し、結局一度も辿り着けなかった場所。
電車に揺られながら、僕たちはほとんど言葉を交わさなかった。けれど、座席の間で触れそうで触れない距離にあるお互いの手の甲が、不思議と熱を持っているのを感じていた。
駅に降り立つと、潮の香りが鼻をくすぐった。
目の前に広がるのは、陽菜が夢見た、どこまでも続く真っ青な水平線。
「……綺麗だね、悠太くん」
「……うん。陽菜にも、見せたかったな」
僕はカメラを構えた。
ファインダーの中には、遮るもののない青空と、その下で潮風に髪をなびかせる結菜の姿。
シャッターを切る。その音は、止まっていた僕たちの心臓が再び鼓動を始めた音のようだった。
現像された写真を、あのアルバムの「白紙だったページ」にそっと差し込む。
陽菜が遺した空白。そこを埋める最初の一枚。
「お姉ちゃん……見てる? 私たち、ちゃんとここに来たよ」
結菜が写真の端をそっとなぞる。
陽菜が愛した僕と、陽菜が愛した妹。
二人が並んで歩き出す姿を、陽菜はきっと、この空のどこかで「遅いよ!」と笑いながら見ているはずだ。
アルバムのページは、まだたくさん残っている。
けれど、その白さはもう、絶望の象徴ではなかった。
これから二人が描いていく、新しくて眩しい「未来」のためのキャンバスだった。




