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白紙の続きを、君と  作者: 遙 カナタ


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3/5

第3話:間に合わなかった結末

「……海、行けそうにないや」

 病室の窓の外には、皮肉なほど透き通った五月晴れが広がっていた。

 陽菜の声は、もう聞き取るのが精一杯なほど細い。数日前まで座れていた車椅子も、今は部屋の隅で、主を失った抜け殻のように佇んでいる。

「いいんだよ、陽菜。海ならここからだって見える。……また今度、体調が良くなったら行けばいいんだから」

 僕の精一杯の嘘を、陽菜は力なく、けれど慈しむように笑って受け流した。

 彼女の枕元には、あの一冊のアルバムが置かれている。

 前半は、三人の笑顔や、ピンボケした風景で埋まっている。けれど後半は、指で弾けば虚しい音を立てるほど、真っ白なページが続いていた。

「悠太……結菜……」

 陽菜が、シーツの上で震える手を左右に伸ばした。

 僕と結菜は、吸い寄せられるようにその手を握りしめる。

 驚くほど熱い。彼女の命が、最後の灯火を燃やし尽くそうとしているのが、掌からダイレクトに伝わってきた。

「……大好きだよ。二人とも。私の、自慢の……」

 言葉は、そこで途切れた。

 握られていた手の力が、ふっと抜ける。

 モニターの電子音が、残酷なほど規則正しいリズムを刻み、やがて一本の長い線になった。

「お姉ちゃん? ……ねえ、お姉ちゃん!」

 結菜の叫びが、狭い病室に木霊(こだま)する。

 僕は、ただ呆然と、陽菜の穏やかすぎる寝顔を見つめていた。

 約束した海は、窓の向こうでキラキラと輝き、僕たちを嘲笑(あざわら)っているようだった。

 結局、僕のカメラは、彼女が一番行きたがっていた場所を捉えることができなかった。

 アルバムの重みは、そのまま僕の後悔の重さになった。

 陽菜がいなくなった。

 僕の世界を照らしていた太陽が、永遠に沈んでしまったのだ。



 

 陽菜の葬儀が終わってからの数週間、僕の世界から一切の音が消えた。

 学校へは行かず、カーテンを閉め切った自室のベッドで、ただ天井の木目を数えるだけの日々。

 机の上に置かれたカメラは、あの日から一度も触れていない。レンズの奥に閉じ込められた陽菜の笑顔を見るのが、今の僕には何よりも恐ろしかった。

『結局、僕は何もしてあげられなかった』

 その思考が、毒のように全身を回る。

 陽菜に「逃げるな」と言われてやっと握った絵筆も、今は握り方も思い出せない。彼女が僕の人生に灯してくれた光を、僕は守りきることができなかった。その自責の念が、僕を暗い底へと引きずり込んでいく。

 そんなある日の午後、部屋のドアが小さくノックされた。

 返事をする気力もなく横たわっていると、ドアが静かに開き、母さんが顔を出した。

「……悠太。結菜ちゃんが、来てるわよ。陽菜ちゃんの遺品を整理してたら、あなたに渡したいものがあったって」

 結菜の名前を聞いて、胸の奥がキュッと締め付けられた。

 あの日、病院で泣き叫んでいた彼女の姿。姉を失い、僕とも気まずい距離になってしまった彼女の孤独を、僕は無視し続けていた。

 重い体を起こし、玄関へ向かう。

 そこに立っていた結菜は、驚くほど痩せていた。

 頬はこけ、月のように穏やかだった瞳は、光を失って濁っている。

「……悠太くん」

「……結菜。久しぶり、だね」

 二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。

 かつて三人で笑い合っていた時間は、もう遠い前世の出来事のように感じられた。

 結菜は震える手で、大切そうに抱えていた一冊のノートを僕に差し出した。

「これ……お姉ちゃんの机の奥に、隠してあったの。鍵がかかってたけど、私、お姉ちゃんの誕生日の番号で開けちゃった」

 それは、あの日病室にあったアルバムではない。

 使い古された、厚みのある日記帳だった。

「私、これを読んで……。悠太くんにも、読んでほしいと思って」

 結菜の瞳に、久しぶりに小さな感情の火が灯ったように見えた。

 それは悲しみでも絶望でもない。どこか、祈りにも似た強い意志だった。

 結菜から受け取った日記帳は、ずっしりと重かった。

 陽菜の体温がまだ残っているのではないかと錯覚するほど、その表紙は使い込まれて端が丸まっている。

「……中、見たのか?」

「うん。……ごめんなさい。でも、読まないといけなかった気がして」

 結菜の声は、かすかに震えていた。彼女はそれだけ言い残すと、逃げるように玄関を出ていった。彼女の後ろ姿もまた、僕と同じように深い喪失の影を引きずっている。

 僕は部屋に戻り、机に向かった。

 埃を被ったカメラの横に、その日記を置く。鍵はすでに外されていた。

 意を決して、最初のページをめくる。

 そこには、僕の知らない陽菜がいた。

『〇月〇日。悠太がまた図書室で悩んでた。あいつ、絵を描いてる時が一番カッコいいのに。お父さんのこと、私がガツンと言ってやりたい!』

 初期の記述は、僕への愚痴や応援、そして隠しきれない恋心で溢れていた。

 読み進めるうちに、文字は少しずつ乱れ、内容も変わっていく。

『〇月〇日。検査結果が出た。……嘘でしょ。私、まだ悠太とやりたいこといっぱいあるのに。結菜にも、伝えなきゃいけないことあるのに』

 そして、入院生活が始まった頃のページで、僕の心臓を素手で掴むような記述を見つけた。

『アルバムの後半は、わざと白紙のままにしておこうと思う。

 私が埋められなかった場所を、悠太と結菜に埋めてほしいから。

 私が死んだら、二人はきっと、自分を責めて動けなくなっちゃう。

 だから、これは私からの「宿題」。

 二人で一緒に、私の見たかった景色を探しに行って。

 それが、私が二人に遺せる、最後のお願い』

 日記の最後には、震える手でこう書き添えられていた。

『悠太、絵を辞めないで。

 結菜、悠太のことを、私がいなくなった後のあいつを、支えてあげて。

 二人が笑って生きてくれることが、私の本当の幸せなんだから』

 視界が歪んだ。

 日記の紙面に、大粒の涙が落ちて文字を滲ませる。

 僕は、陽菜を幸せにできなかったと自分を責めていた。でも、陽菜は最初から分かっていたんだ。自分が去った後に残される僕たちの弱さを。そして、その先にある未来まで、彼女は僕たちを救おうとしてくれていた。

「……陽菜。バカだよ、お前は。……お節介すぎるよ」

 僕は日記を抱きしめ、声を上げて泣いた。

 閉ざしていたカーテンの隙間から、細い光が差し込んでいた。

 それは、あの日公園で見た、陽菜のような力強い光だった。

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