第3話:間に合わなかった結末
「……海、行けそうにないや」
病室の窓の外には、皮肉なほど透き通った五月晴れが広がっていた。
陽菜の声は、もう聞き取るのが精一杯なほど細い。数日前まで座れていた車椅子も、今は部屋の隅で、主を失った抜け殻のように佇んでいる。
「いいんだよ、陽菜。海ならここからだって見える。……また今度、体調が良くなったら行けばいいんだから」
僕の精一杯の嘘を、陽菜は力なく、けれど慈しむように笑って受け流した。
彼女の枕元には、あの一冊のアルバムが置かれている。
前半は、三人の笑顔や、ピンボケした風景で埋まっている。けれど後半は、指で弾けば虚しい音を立てるほど、真っ白なページが続いていた。
「悠太……結菜……」
陽菜が、シーツの上で震える手を左右に伸ばした。
僕と結菜は、吸い寄せられるようにその手を握りしめる。
驚くほど熱い。彼女の命が、最後の灯火を燃やし尽くそうとしているのが、掌からダイレクトに伝わってきた。
「……大好きだよ。二人とも。私の、自慢の……」
言葉は、そこで途切れた。
握られていた手の力が、ふっと抜ける。
モニターの電子音が、残酷なほど規則正しいリズムを刻み、やがて一本の長い線になった。
「お姉ちゃん? ……ねえ、お姉ちゃん!」
結菜の叫びが、狭い病室に木霊する。
僕は、ただ呆然と、陽菜の穏やかすぎる寝顔を見つめていた。
約束した海は、窓の向こうでキラキラと輝き、僕たちを嘲笑っているようだった。
結局、僕のカメラは、彼女が一番行きたがっていた場所を捉えることができなかった。
アルバムの重みは、そのまま僕の後悔の重さになった。
陽菜がいなくなった。
僕の世界を照らしていた太陽が、永遠に沈んでしまったのだ。
陽菜の葬儀が終わってからの数週間、僕の世界から一切の音が消えた。
学校へは行かず、カーテンを閉め切った自室のベッドで、ただ天井の木目を数えるだけの日々。
机の上に置かれたカメラは、あの日から一度も触れていない。レンズの奥に閉じ込められた陽菜の笑顔を見るのが、今の僕には何よりも恐ろしかった。
『結局、僕は何もしてあげられなかった』
その思考が、毒のように全身を回る。
陽菜に「逃げるな」と言われてやっと握った絵筆も、今は握り方も思い出せない。彼女が僕の人生に灯してくれた光を、僕は守りきることができなかった。その自責の念が、僕を暗い底へと引きずり込んでいく。
そんなある日の午後、部屋のドアが小さくノックされた。
返事をする気力もなく横たわっていると、ドアが静かに開き、母さんが顔を出した。
「……悠太。結菜ちゃんが、来てるわよ。陽菜ちゃんの遺品を整理してたら、あなたに渡したいものがあったって」
結菜の名前を聞いて、胸の奥がキュッと締め付けられた。
あの日、病院で泣き叫んでいた彼女の姿。姉を失い、僕とも気まずい距離になってしまった彼女の孤独を、僕は無視し続けていた。
重い体を起こし、玄関へ向かう。
そこに立っていた結菜は、驚くほど痩せていた。
頬はこけ、月のように穏やかだった瞳は、光を失って濁っている。
「……悠太くん」
「……結菜。久しぶり、だね」
二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。
かつて三人で笑い合っていた時間は、もう遠い前世の出来事のように感じられた。
結菜は震える手で、大切そうに抱えていた一冊のノートを僕に差し出した。
「これ……お姉ちゃんの机の奥に、隠してあったの。鍵がかかってたけど、私、お姉ちゃんの誕生日の番号で開けちゃった」
それは、あの日病室にあったアルバムではない。
使い古された、厚みのある日記帳だった。
「私、これを読んで……。悠太くんにも、読んでほしいと思って」
結菜の瞳に、久しぶりに小さな感情の火が灯ったように見えた。
それは悲しみでも絶望でもない。どこか、祈りにも似た強い意志だった。
結菜から受け取った日記帳は、ずっしりと重かった。
陽菜の体温がまだ残っているのではないかと錯覚するほど、その表紙は使い込まれて端が丸まっている。
「……中、見たのか?」
「うん。……ごめんなさい。でも、読まないといけなかった気がして」
結菜の声は、かすかに震えていた。彼女はそれだけ言い残すと、逃げるように玄関を出ていった。彼女の後ろ姿もまた、僕と同じように深い喪失の影を引きずっている。
僕は部屋に戻り、机に向かった。
埃を被ったカメラの横に、その日記を置く。鍵はすでに外されていた。
意を決して、最初のページをめくる。
そこには、僕の知らない陽菜がいた。
『〇月〇日。悠太がまた図書室で悩んでた。あいつ、絵を描いてる時が一番カッコいいのに。お父さんのこと、私がガツンと言ってやりたい!』
初期の記述は、僕への愚痴や応援、そして隠しきれない恋心で溢れていた。
読み進めるうちに、文字は少しずつ乱れ、内容も変わっていく。
『〇月〇日。検査結果が出た。……嘘でしょ。私、まだ悠太とやりたいこといっぱいあるのに。結菜にも、伝えなきゃいけないことあるのに』
そして、入院生活が始まった頃のページで、僕の心臓を素手で掴むような記述を見つけた。
『アルバムの後半は、わざと白紙のままにしておこうと思う。
私が埋められなかった場所を、悠太と結菜に埋めてほしいから。
私が死んだら、二人はきっと、自分を責めて動けなくなっちゃう。
だから、これは私からの「宿題」。
二人で一緒に、私の見たかった景色を探しに行って。
それが、私が二人に遺せる、最後のお願い』
日記の最後には、震える手でこう書き添えられていた。
『悠太、絵を辞めないで。
結菜、悠太のことを、私がいなくなった後のあいつを、支えてあげて。
二人が笑って生きてくれることが、私の本当の幸せなんだから』
視界が歪んだ。
日記の紙面に、大粒の涙が落ちて文字を滲ませる。
僕は、陽菜を幸せにできなかったと自分を責めていた。でも、陽菜は最初から分かっていたんだ。自分が去った後に残される僕たちの弱さを。そして、その先にある未来まで、彼女は僕たちを救おうとしてくれていた。
「……陽菜。バカだよ、お前は。……お節介すぎるよ」
僕は日記を抱きしめ、声を上げて泣いた。
閉ざしていたカーテンの隙間から、細い光が差し込んでいた。
それは、あの日公園で見た、陽菜のような力強い光だった。




