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白紙の続きを、君と  作者: 遙 カナタ


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第2話:あまりに短い春

 季節が巡るのは驚くほど早かった。

 僕の進路希望調査の第一志望欄には、もう迷いのない筆致(ひっち)で『美大進学』の文字が書かれている。

 陽菜と付き合い始めてからの数ヶ月は、僕の人生で最も色彩豊かな時間だった。

 放課後の美術室。陽菜は僕がキャンバスに向かう横で、楽しそうに「次に行きたい場所」を指折り数える。結菜は少し離れた席で、僕たちの会話を邪魔しないように、それでいて優しい空気で見守ってくれていた。

「ねえ悠太、見て! 次の日曜、この海浜公園に行こうよ。ネモフィラが満開なんだって。一面の青だよ、絶対絵になるって!」

 陽菜がスマホの画面を突き出してくる。

「いいよ。じゃあ、結菜も一緒にな」

 僕がそう言うと、結菜は少しだけ本から目を上げ、困ったように微笑んだ。

「私はいいよ。二人のデートだし」

「何言ってるの結菜! 三人で幼馴染なんだから、二人の時は二人、三人の時は三人。それが我が家のルールでしょ!」

 陽菜が強引に結菜の腕を引く。結菜は「お姉ちゃん、引っ張りすぎ……」と苦笑いしながらも、その瞳にはどこか安堵の色が浮かんでいた。

 そんな、何気ない、けれどかけがえのない日常。

 それが崩れ始めたのは、そのネモフィラを見に行くはずだった日曜日の朝だった。

 待ち合わせの駅に現れた陽菜は、いつもより少しだけ顔色が白かった。

「ごめん、悠太……。なんか、ちょっと立ちくらみがして」

 その時は、ただの寝不足か、疲れだと思っていた。

 けれど、公園に着いて歩き始めてすぐ、陽菜は膝から崩れ落ちるように倒れ込んだ。

「陽菜!?」

「お姉ちゃん!」

 結菜の悲鳴が、青一色の花畑に響き渡った。

 抱き上げた陽菜の体は、最後に抱きしめた時よりもずっと、頼りなく軽くなっていた。

 救急車のサイレン、無機質な病院の廊下の匂い、そして父と母のすすり泣く声。

 医師から告げられた病名は、僕の聞き慣れない複雑な名前だった。

 けれど、その後に続いた言葉だけは、嫌というほど鮮明に脳に刻みつけられた。

『——現状の進行速度では、完治は難しく……残された時間は、長くありません』

 世界から音が消えた。

 僕が美大を目指すきっかけをくれた、僕の世界に光を当ててくれた太陽が、もうすぐ消えてしまう。

 数日後、病室でようやく二人きりになった時。

 陽菜は、窓の外に広がる夕焼けを見つめながら、枯れた声でポツリと言った。

「……ごめんね、悠太。私、あんまり長くないみたい」

 その言葉に、僕は返す言葉が見つからなかった。

 かけるべき言葉も、かけるべき魔法も持たない自分を、これほど呪ったことはなかった。

 病室に流れる空気は、外の世界とは切り離されたように静まり返っていた。

 陽菜の言葉が、冷たい水滴のように僕の心に波紋を広げていく。

「長くない、なんて……何言ってるんだよ。まだ検査の結果が出たばっかりだろ」

 絞り出した僕の声は、情けないほど震えていた。否定したかった。昨日まで一緒に笑っていた彼女が、この世界から消えてしまうなんて、悪い冗談だと笑ってほしかった。

 けれど、陽菜はゆっくりと首を振った。

 ベッドに横たわる彼女の体は、真っ白なシーツに溶けてしまいそうなほど頼りない。

「先生の話、盗み聞きしちゃった。……ごめんね、悠太。約束したのに。あんたを世界一幸せな美大生にするって、言ったのに」

 陽菜の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。それは彼女が見せた、初めての弱さだった。僕は彼女の手を握った。かつて公園で僕を救ってくれたあの時のように。でも、今の陽菜の手は、驚くほど冷たく、力を入れて握れば壊れてしまいそうだった。

「……陽菜。僕に何ができる? 何をすればいい?」

 絶望に飲み込まれそうな僕を救ったのは、やはり陽菜だった。

 彼女は涙を拭うと、無理に口角を上げて、いつもの悪戯っぽい微笑みを浮かべた。

「……じゃあさ、悠太。お願いがあるんだけど」

 彼女が枕元から取り出したのは、まだ表紙しかない、一冊の分厚いアルバムだった。

「これ。……本当は、付き合って一年の記念に渡そうと思ってたんだけど。……ここをさ、全部埋めたいの」

 ページをめくると、そこはまだ真っ白だった。

「私が行きたかった場所、悠太に見せたかった景色。……全部、写真に撮って、ここに入れよう? 最後のページを使い切るまで、私は絶対に諦めないから」

 陽菜の瞳に、小さな、けれど確かな光が宿る。

 それは、死を受け入れた諦めではなく、最期まで『自分』として生きようとする、彼女なりの戦い方だった。

「……わかった。埋めよう。全部、僕が撮る。陽菜が歩けないなら、僕がおんぶしてでも連れて行くから」

 僕の言葉に、陽菜は「重いよ、バカ」と笑った。

 その時、病室のドアが静かに開いた。

 果物の袋を抱えた結菜が、入り口で立ち尽くしていた。彼女の瞳には、二人が共有している覚悟の重さと、自分だけが入り込めない絆への、形容しがたい悲しみが入り混じっていた。

「……お姉ちゃん。アルバム、私も手伝っていい?」

 結菜の声は震えていたけれど、その眼差しは、姉と同じくらい真っ直ぐに僕たちを見据えていた。

「……もちろん。結菜がいなきゃ、始まらないよ」

 陽菜が細い腕を伸ばし、結菜の手を包み込んだ。

 三人の手が重なる。それは、かつての図書室で分かち合った穏やかな時間とは違う、どこか祈りにも似た、切実な結束だった。

 数日後、一時退院の許可が出たその足で、僕たちは最初の目的地へ向かった。

 向かったのは、僕が初めて陽菜に「好きだ」と伝えた、あの夜の公園。

 昼間の公園は、夜とは違って子供たちの歓声に包まれていた。

 陽菜は車椅子に揺られながらも、春の柔らかな日差しを全身に浴びて、眩しそうに目を細める。

「ねえ、悠太。ここ、夜はあんなに怖かったのに、今はこんなにキラキラしてる」

「……ああ。陽菜が隣にいるからかな」

 照れ隠しにカメラを構える。ファインダー越しに見える陽菜は、少し痩せてしまったけれど、その笑顔は変わらず僕の視界を支配する。

「はい、チーズ!」

 シャッター音が響く。

 現像された写真は、アルバムの一ページ目、左上の特等席に収められた。

 陽菜が震える手で、その下にマジックで書き込む。

『No.1:私たちの始まりの場所。悠太の告白、100点満点!』

「……結菜。私の隣、空いてるよ」

 結菜が少しだけ遠慮がちに、陽菜の車椅子の横に立った。

 二枚目の写真は、双子の姉妹が寄り添う姿。

 太陽のように笑う姉と、その光を優しく反射する月のような妹。

 僕はその光景をファインダー越しに見つめながら、どうかこの時間が一秒でも長く続いてほしいと、神様にではなく、目の前の二人に強く願った。

 けれど、現実は無情だった。

 二箇所、三箇所とリストを回るうちに、陽菜の体調は目に見えて悪化していった。

 車椅子に座っていることさえ辛くなり、外出できる日は一週間に一度、二週間に一度と減っていく。

 アルバムのページは、まだ半分も埋まっていない。

 白いページが、まるで行き止まりの壁のように僕たちの前に立ちはだかる。

「……悠太。次の日曜、海、行けるかな」

 病室のベッドで、陽菜が弱々しく笑う。

 その瞳には、隠しきれない死への恐怖と、それでも「次」を信じようとする意地が混ざり合っていた。

「……行けるよ。絶対。僕が連れていくから」

 僕は陽菜の手を握りしめた。

 その隣で、結菜は静かに窓の外を見つめていた。彼女の横顔には、姉を失うことへの絶望と、それでも姉の願いを叶えようとする、残酷なまでの強さが宿っていた。

 僕たちはまだ知らない。

 アルバムの次のページが、永遠に埋まることのない「空白」へと変わる日が、すぐそこまで来ていることを。

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