第1話:三人の季節
放課後の図書室。窓から差し込む西日は、埃の粒を金色に光らせ、古びた紙の匂いをより濃くしていた。
「……はぁ」
思わず漏れた溜息は、静まり返った部屋に驚くほど大きく響いた。
僕、悠太の目の前にあるのは、進路希望調査という名の一枚の紙だ。第一志望の欄には、何度も書いては消した跡があり、紙の表面は毛羽立っている。
『美大進学』
その四文字を書く勇気が、僕にはなかった。厳格な父は、僕が家業の工務店を継ぐことを疑っていない。絵を描くことは、僕にとって呼吸をするのと同じくらい大切なことなのに、家の中では「ただの遊び」として扱われる。
「悠太くん。また、手が止まってる」
隣から、鈴の音のような静かな声がした。
双子の妹、結菜だ。彼女は僕の顔を覗き込むわけでもなく、ただ自分の読みかけの文庫本に目を落としたまま、そっと僕の指先に触れた。
「……結菜。いつからいたの?」
「さっきから。……コーヒー、飲む?」
彼女が差し出した缶コーヒーは、自販機から出したばかりなのか、結菜の手が冷たいのか、驚くほどひんやりとしていた。彼女はいつもこうだ。僕の領域を侵さず、けれど僕が一番欲しい温度で、隣にいてくれる。
「ありがとう。……落ち着くよ、結菜の隣は」
「……そう。なら、よかった」
結菜は少しだけ口角を上げ、また本に視線を戻した。その横顔は、夜の湖のように静かで、見ているだけで僕の波立った心が凪いでいく。
しかし、その静寂は長くは続かなかった。
「おーい! 悠太、結菜! こんなところにいた!」
図書室の重い扉が勢いよく開き、場違いなほど明るい声が飛び込んでくる。双子の姉、陽菜だ。彼女が歩くたびに、図書室の空気が物理的に動くような気がする。
「陽菜、ここ図書室だよ。静かにして」
「わかってるってば。でもさ、悠太がまたこんな暗い場所で、カタツムリみたいに殻に閉じこもってるっていうから、結菜が!」
陽菜は僕の目の前にどっかと座り込むと、僕が隠そうとした進路希望調査の紙を、ひょいと取り上げた。
「あ、ちょっと……!」
「ふーん……。また白紙。悠太、あんたさ、いつまでそうやって自分の心に嘘つくつもり?」
陽菜の言葉は、いつも鋭い。隠したいところを、容赦なく突いてくる。
彼女の大きな瞳が、僕の視線を逃さず捉えた。
「お父さんが怖い? それとも、自分の才能を信じるのが怖い?」
「……どっちもだよ。陽菜には、わかんないよ」
「わかんないね! 私はやりたいことしかやらないもん!」
陽菜は椅子をガタッと鳴らして立ち上がると、僕の進路希望調査の紙に、その余白に太いマジックで殴り書きをした。
『逃げるな、悠太!』
「今日の夜、公園に来て。絶対だよ。来なかったら、あんたが描いた恥ずかしいポエム、全校放送で読み上げてやるからね!」
「……持ってないよ、そんなの!」
嵐のように去っていく陽菜。
残された僕と結菜の間に、再び沈黙が流れる。
結菜は、陽菜が書き残した乱暴な文字をじっと見つめていた。その指が、わずかに震えていることに、僕は気づけなかった。
「……行ってあげて、悠太くん。お姉ちゃん、昨日もずっと、あなたのこと考えてたから」
結菜の声は、どこか遠い場所から聞こえてくるようだった。
夜の公園は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
街灯のオレンジ色の光が、寒々としたアスファルトに丸い溜まりを作っている。
「……本当に全校放送しそうな勢いだったからな」
独りごちて、僕はベンチに座る陽菜の隣に腰を下ろした。
陽菜は指定のジャージの上に、分厚いダウンを羽織っていた。首元までマフラーに顔を埋めているせいで、大きな瞳がより強調されて見える。
「……来た。不戦勝かと思ったのに」
「勝ち負けじゃないだろ。……で、話って?」
僕が問いかけると、陽菜は黙って僕の手を掴んだ。
驚くほど冷たい。それなのに、彼女の熱が伝わってくるような、不思議な力強さがあった。
「悠太、私ね。あんたが描いたあの絵、大好きだよ」
「……どの絵?」
「去年の文化祭。内緒で美術室に置いてあった、あの夕暮れの街の絵。私、あれを見て初めて、この街を綺麗だと思った。……悠太の目には、世界がこんなに美しく映ってるんだって、感動したんだから」
心臓が跳ねた。誰にも見せていない、自分だけの逃げ場所だった絵。それを、陽菜は見ていた。
「お父さんに何を言われてもいいじゃん。あんたが描かなきゃ、あんたが見てる世界は、誰にも伝わらないんだよ。……そんなの、もったいなさすぎる」
陽菜は僕の手をぎゅっと握りしめ、真っ直ぐに僕を見た。その瞳には、迷いも濁りもない。
「私が味方になってあげる。お父さんに怒鳴られたら、私が代わりに喧嘩してあげる。だから、悠太は悠太を諦めないで」
不器用で、一方的で、強引な励まし。
でも、その言葉は僕の心に深く刺さった棘を、力技で抜いていくような心地よさがあった。
「……陽菜はさ。どうしてそこまで、僕に構うんだよ」
僕が訊ねると、陽菜は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
頬が赤くなっているのは、寒さのせいだけではないのかもしれない。
「……好きだからだよ。……それ以外に理由、必要?」
その告白は、夜の風に乗って僕の耳に届いた。
あまりに直球で、あまりに潔い。
僕は言葉を失い、ただ彼女の力強い体温を手のひらに感じていた。
その一言が、僕の中で澱んでいた迷いを一気に吹き飛ばした。父に逆らう恐怖よりも、自分を信じてくれるこの手を離したくないという衝動が勝った。
「……僕も。僕も、陽菜が好きだ。陽菜がいれば、僕は僕でいられる気がする」
僕は、陽菜の冷たい手を両手で包み込んだ。
陽菜は「……へへ、言わせちゃった」とはにかみ、そのまま僕の肩に額を預けてきた。二人の距離がゼロになる。今まで幼馴染という名前の壁に守られていた僕たちの関係が、決定的に塗り替えられた瞬間だった。
その時、背後でカサリと乾いた音がした。
「……あ」
振り向くと、街灯の光が届かない境界線に、結菜が立っていた。
彼女の手からこぼれ落ちたのは、僕が図書室に忘れた進路希望調査の紙だった。夜風に煽られ、白紙の紙がアスファルトの上を虚しく転がる。
「結菜……いつから」
「……割と、前から。これ、悠太くんの忘れ物……」
結菜の声は、消え入りそうなほど細かった。
彼女は、僕たちの繋がれた手と、陽菜の幸せそうな顔を交互に見て、それからゆっくりと視線を落とした。
「おめでとう、お姉ちゃん。……悠太くん」
結菜は、いつも通りの穏やかな、けれどどこか透き通って消えてしまいそうな微笑みを浮かべた。その笑顔を作るのに、彼女がどれほどの力を込めているか、その時の僕は気づくことができなかった。
「……よかったね。お姉ちゃんが悠太くんの『一番』になれて。私、すごく嬉しいよ」
結菜は一歩下がり、足元に落ちた紙を拾い上げると、僕に差し出した。
受け取った紙には、先ほど陽菜が書いた『逃げるな、悠太!』という乱暴な文字が躍っている。その隣、結菜が持っていたはずの場所が、彼女の指先で少しだけ湿って、しわになっていた。
「私、先に帰るね。お母さんに、二人は少し遅くなるって言っておくから」
彼女は背を向け、一度も振り返らずに夜の闇へと溶けていった。
陽菜は「結菜、ありがとー!」と無邪気に手を振っていたけれど、僕はなぜか、胸の奥を細い針で刺されたような、奇妙な痛みを感じていた。
こうして、僕と陽菜は付き合い始めた。
太陽のような恋人と、それを静かに見守る妹。
完璧なバランスで保たれていた三人の季節は、ゆっくりと、しかし確実に次の章へと進んでいく。
その先に、残酷な冬が待ち受けていることも知らずに。




