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第97話 返す待ち札

印を残す宿になるなら、印を返してもらう場面も必要になる。


 洗い場女が待ち札を返しに来たのは、拍子抜けするほど静かな朝だった。忙しい夜明けを過ぎ、帳場に薄い日が差し込んだ頃、彼女はいつもの桶ではなく小さな布包みを持って現れた。中から出てきたのは、角の擦れた待ち札だった。


「もう使わない、ってわけじゃないんだけどね」


 そう言って、彼女は少し笑った。


「今は待てる夜が前より少ないし、洗い場でも口伝えが通るようになったから。持ちっぱなしじゃない方がいい気がして」


 その言い方に、寂しさと納得が半分ずつ乗っていた。待ち札は助かった夜の印でもある。返すことは、そこから切り離されるようで少し痛い。けれど、それを持ち続けることが正しさでもないと彼女自身が理解している顔だった。


 フィオナは両手で札を受け取った。木片は掌に軽いのに、その軽さが逆に重かった。必要な時だけ渡し、役目が変われば返してもらう。言葉では分かっていたが、実際に戻ってくると印のあり方がようやく宿の中で締まった気がした。


「ありがとうございます」


 礼を言うと、洗い場女は少し驚いた顔をした。


「返す方なのに?」

「返してもらえるから、増やさずに済むんです」


 それは本音だった。配るばかりの印は、いずれ宿の責任ごと膨らませる。戻る前提があるからこそ、待ち札は恒久の資格ではなく、その時の夜を少し持ちこたえるための木片でいられる。


 ユナが箱を開け、札を中へ戻した。木と木が当たる小さな音が、帳場に乾いて響く。その音は拍手よりずっと地味で、だからこそよかった。朝霧亭の印は、配り続けて膨らむより、戻りながら残る方がらしい。


 返却の話を聞いたサラは「次に必要なら、また渡せばいい」とだけ言った。冷たい言い方ではない。待ち札を特別な資格にしないための、ちょうどよい平らさだった。洗い場女もその言葉に気を悪くする様子はなく、かえって肩を軽くしたように見えた。


「持ってると、来る理由まで札に預けちゃいそうでさ」


 帰り際のその一言が、フィオナの胸に残った。確かに待ち札は便利だ。だが、木片があることで自分の疲れの重さまで札に固定してしまう危うさもある。返す場面があってこそ、印は人を縛りすぎずに済む。


 箱を閉じたあと、フィオナは待ち札の数を数え直した。増えていない。減りすぎてもいない。戻りながら残っている。その状態こそ、今の朝霧亭にいちばん似合っているのだろうと、静かな朝の音の中で思った。

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