第8話 湯と香草の順番
夜の支度で一番先に尽きるのは、体力ではなく順番だ。
湯を先に回すか、香草を先に焚くか。寝具を入れ替えるか、食後の器を片づけるか。朝霧亭は大きな宿ではない。だから一つ順番を誤ると、後ろの全てが少しずつ詰まっていく。フィオナは台所と詰所の間を往復しながら、その詰まり方を見ていた。
今夜の詰まりは、湯だ。釜の火が弱く、汲み上げる手も足りない。そこへ香草湯を求める客が二人続き、施療室からも熱冷まし用の湯を欲しいと声がかかる。
「全部同じ釜で回したら足りない」
サラが短く言った。
「湯番は?」
「ルド婆さんが戻るまで半刻」
ならば、今ある湯をどこへ先に回すか決めなければならない。神殿では、見映えのする祈祷準備が先だった。ここでは違う。少なくとも、違っていてほしいとフィオナは思う。
「香草湯を後にします」
思わず口を出すと、ユナが振り返った。
「客、怒らないかな」
「怒ると思う」
フィオナは正直に言った。
「でも今は、熱冷ましの湯と、夜番が交代前に手を温める湯を先にした方がいいです」
サラはそれを聞き、釜の前へ視線を落とした。
「理由を言え」
「香草湯は遅れても不満で済みます。でも熱のある客と、手が冷えた夜番は遅れると仕事も身体も崩れます」
言い終えたあと、自分がまた出すぎたことに気づく。だがサラは叱らなかった。代わりに、釜番の男へ声を飛ばす。
「先に施療室。次に夜番。客室の香草湯は後ろへ回す」
「客がうるさいぞ」
「うるさくさせておけ」
それで順番は決まった。
フィオナは香草袋を持ち上げ、今夜必要な量を見直す。強い香りのものは体を緩めるが、疲れ切った人には返って重い。弱い香りを長く使う方が向いている夜もある。神殿では、こういう調整はほとんど評価されなかった。効いたかどうかが目に見えにくいからだ。だが宿では、効かなければ翌朝の足取りに出る。
夜番交代の前、ミアが戻ってきた。昨夜より顔色はいい。まだ万全ではないが、倒れる一歩手前の色ではない。
「今日は歩けます」
「歩けるのと削っていいのは違う」
サラの返事は厳しい。だが昨夜より短い。怒りで押さえつけるのではなく、役割の線を引く言い方になっている。
フィオナは湯を二つの椀へ分け、一つをミアへ渡した。
「熱いので、すぐ飲まないでください」
「分かってる」
「本当に?」
ミアが少し笑った。こういう小さな軽口が交わせる夜は、前の夜より崩れ方が浅い。
その一方で、表の客室から不満の声が上がる。香草湯が遅い、と。ユナが謝りに走り、若女将も頭を下げて回る。その姿を見ると、フィオナの胸は少し痛む。順番を変えれば、誰かが必ず待たされる。優しいだけでは回らない。
「顔をするな」
サラが横で言った。
「……分かりやすいですか」
「分かりやすい。だが、その顔をしながらでも順番を決められないと困る」
フィオナは黙ってうなずいた。見落とさないことと、全部を同時に救えることは違う。そこをまだ身体が受け入れきれていない。
夜半、ルド婆さんが戻ると、釜の前の空気が少しだけ締まった。短い仮眠で十分ではない。だが、戻った時の足の運びが違う。前のように引きずっていない。
「悔しいけど、少し楽だね」
ぼそっと呟くと、サラが聞こえなかったふりをした。フィオナも同じふりをする。そういう小さな見逃し方で、宿はなんとか回る。
その頃、神殿では強い香を焚きすぎて、施療補助の一人が気分を悪くしていた。見映えを整える手順と、働く側を持たせる手順は違う。違うのに、同じだと思われがちだ。
フィオナはまだ向こうの詳しい様子を知らない。それでも、今夜ここで決めた順番が、誰かの朝を少しましにすることは分かっていた。




