第87話 口伝えのずれた夜
印を増やさないと決めた以上、ずれた言葉をどう戻すかまで宿の仕事になる。
夜更け前、裏口の戸板を細く開けたユナは、見慣れない若い男がひさしの影に立っているのに気づいた。待ち札は持っていない。白布もない。けれど追い返される心づもりで来た顔でもなく、少しだけ安心したような目をしている。その落ち着きが、かえってユナの胸に引っかかった。
「あの、灰布の日なら半椀もらえるって聞いて」
男は両手を前でこすり合わせながら言った。洗い場で使う荒れた指先に、石鹸の白い粉がこびりついている。働き終わりの匂いがまだ取れていない。嘘をつきに来た人の手ではない。誰かに教えられた通りに来て、その通りに受け取れると思っている手だ。
だが、言葉の骨が一本抜けていた。灰布の半椀は、待てる夜に限る。深い崩れには足りない。裏口が詰まる夜には渡せないこともある。その肝が、伝わっていない。
ユナは一瞬だけ息を止めた。ここで「違います」と強く切れば、男は恥をかくだろう。けれど曖昧に受ければ、次にまた同じずれが増える。口伝えの怖さは、悪意より疲れで形を変えるところにある。楽な部分だけが残り、重い条件ほど先に落ちるのだ。
「半椀はあります。でも、来てよい夜の条件まで一緒には伝わっていないです」
できるだけ平らに言うと、男は眉を寄せたまま頷いた。
「いつでもじゃ、ないんですね」
「はい。待てる夜だけです。今夜は大丈夫ですけど、深い人が重なったら難しいです」
その説明を聞いた途端、男の肩が少し落ちた。責められたからではない。覚えてきた言葉だけでは足りなかったと分かって、どこまで自分が勝手に楽な方を拾ったのかを思い当たった顔だった。
フィオナは戸口の内側でそのやり取りを聞きながら、洗い場女を呼びつける気にはなれなかった。伝えた側が雑だった可能性もある。だが、それ以上に、受け取った側の疲れが都合のよいところだけを抱えてきた可能性も高い。口伝えはいつも、発した時点より受け取られた後の方が変形しやすい。
「文を二つに分けよう」
帳場へ戻るなり、フィオナは板へ短く書いた。
「来てよい条件」
「来た時に受け取れる物」
サラがその文字を読み上げ、ルド婆さんが静かに笑った。
「人は都合のいい所から覚えるからね」
その通りだった。だから最初から、都合よく残って困る文と、抜けると危ない文を分けておくしかない。まとめて一息に言えば、疲れた耳には温かい所しか残らない。だったら先に条件を言い、そのあとで半椀や白湯の話をする。順番まで決めておけば、ずれは少し浅くなる。
半椀を受け取った男は、木の椀を両手で包んだまま、しばらく湯気を見ていた。ひと口飲んで、喉の上下がようやく大きく動く。その変化を見て、フィオナは訂正がただの説明ではないと分かった。来る理由を失いたくない人に、次はもう少しましな形で来られるようにするための仕事なのだ。
「今度は、来ていい夜かまで聞いてきます」
帰り際のその一言で、今夜の修正は十分だった。ずれた夜ではあったが、壊れた夜ではない。細い道を守るとは、間違えないことより、ずれた時に戻せることなのだと、フィオナは裏口を閉めながら静かに思った。




