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第7話 干し棚の影

 昼の裏庭でいちばんよく動いているのは、人ではなく布だった。


 洗い終えたシーツ、仮眠用の薄布、客室で使った掛け布。春の浅い風に揺れながら、乾く順番を待っている。だが、その順番を間違えると夜の宿が崩れる。乾いたように見えても芯が冷えていれば、寝台へ戻した時に身体を冷やす。フィオナは干し棚の前で立ち止まり、指先で布端の温度を確かめた。


「その見方、やっぱり変わってる」


 ユナが桶を抱えたまま笑う。だが馬鹿にした笑いではない。面白がりながらも、役に立つと認めている笑いだ。


「乾いているように見えても、まだ戻すには早いです」


「見た目じゃ分からない?」


「少しだけ」


 実際には、見た目より手の方が早い。さらに言えば、手だけでも足りない。乾き切っていない布は、少しだけ空気を重くする。そういう違いを、フィオナはいつの頃からか拾うようになっていた。


 サラが干し棚の奥から古い衝立を引きずってきた。昼の仮眠場所を、もう少しまともにするためだ。


「ミアが午後に一刻半寝られた」


 そう言って、サラは衝立を立てる位置を確かめる。


「今夜も持ちそうですか」


「昨夜よりはな」


 それは、この宿では十分に褒め言葉だった。


 フィオナは少し迷ってから口を開く。


「……もう一人、危ないです」


 サラの視線がこちらへ向く。


「誰だ」


「ルド婆さん」


 湯番を仕切る年配の女性だ。口は悪いが手は早く、誰より先に動く。だからこそ、止まり方も突然になる。


「怒るぞ」


「知っています」


「知ってて言うんだな」


「止まる時はもっと怒ります」


 ユナが吹き出しかけて、慌てて口を押さえた。サラは一瞬だけ無言になり、それから小さく息をつく。


「じゃあ、お前が言え」


「私がですか」


「私は真正面から止める。そうするとルド婆さんは意地になる」


 その判断は妙に納得できた。相手の仕事の癖だけではなく、相手が反発する癖まで知っている。それもまた、現場を回してきた人間の読み方だ。


 ルド婆さんは井戸脇で桶を持ち上げていた。背は低いが腕はまだ太く、鍋を運ぶ手に迷いがない。だが動きの切れが少し遅い。重さに身体がついていくまで、一拍の空きがある。


「手伝います」


 フィオナが声をかけると、ルド婆さんは露骨に顔をしかめた。


「ひよっこに湯番の何が分かるんだい」


「分かりません」


「じゃあ引っ込んでな」


 予想通りの返しだった。だが、その棘の立て方にも疲れが混ざっている。


「でも、今夜の後半に足が止まります」


 ルド婆さんの動きが一瞬だけ止まった。


「呪う気かい」


「違います。昨日の夜から左足をかばっています」


「……見てたのかい」


「歩き方で少し」


 怒鳴られるかと思ったが、ルド婆さんは桶を置いてフィオナを睨んだ。その睨みの中に、ばれたか、というわずかな苦みがある。


「じゃあ何だい。寝ろって?」


「寝てください」


「無茶を言うね」


「だから先に一刻だけです」


 フィオナは衝立の陰に作った仮眠場所を指した。


「長くじゃなくていいです。足を下ろして、湯気を避けて、布をもう一枚」


「そんなので変わるかい」


「変わらないと困ります」


 ルド婆さんはしばらく黙っていたが、やがて鼻を鳴らした。


「嫌な子だね。言い方が妙に引かない」


 フィオナは、自分でも少し驚いた。神殿では大きな声の前で引くことが多かったのに、この宿では、働き手が倒れる場面に関してだけは不思議と譲れない。


「夜に足が止まる方が、もっと嫌です」


 そう言うと、ルド婆さんは桶をサラへ押しつけるように渡した。


「一刻だけだよ」


 勝った、とはフィオナは思わない。ただ、一歩遅い崩れ方を一歩だけ早く止められた。そういう小さな調整が、夜の宿では効く。


 夕方、ベルトの部屋を覗くと、御者の男はようやく深い眠りに落ちていた。荷袋は見えない位置へ寄せ、灯りは弱いまま、窓の隙間も塞いである。眠れた顔は、眠れない顔よりずっと年相応に見えた。


 同じ頃、神殿では洗い場の布が乾かないまま積まれていた。急ぎの祈祷用に見た目の良い布を優先し、裏の施療室へ回す布が足りていない。小さな乱れだが、小さな乱れほど働く側を削る。


 フィオナはまだその全部を知らない。ただ、干し棚に伸びる布の影を見て、ここで自分にできることが昨日より少しだけ増えたと感じていた。

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