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第76話 持たない相手の待ち札

 白布を渡さない相手がいるなら、その人たちに何も残さないままでは、宿の名だけが冷たくなる。


 洗い場女の背中が細道の角で消えた夜から、フィオナの中には小さな引っかかりが残っていた。白布は渡せない。けれど、来てよい条件だけ口で渡すのでは弱い。噂に押し流されない別の経路が必要だった。


 そこでユナが出したのは、小さな木片だった。白布ほど目立たず、灰布ほど遠くからは読めない。片面に「待ち」、裏に「直行」とだけ刻む。持った者が毎晩使う印ではなく、迷った夜にだけ思い出す札として渡すためだ。


「白布を渡せない相手用の、細い道ですね」


 フィオナがそう言うと、ユナは頷いた。


「見えすぎない方がいいです。でも、何もないよりはずっとましです」


 白布は連携先だけ。待ち札は、条件つきで来てよい相手へ。そこに差をつけるのはつらい。だが差をつけなければ、結局どちらも潰れる。宿の印は、同じ形に見えて役目が違っていていいのだと、今なら思える。


 最初に待ち札を渡したのは、例の洗い場女だった。細道の角で会った時、フィオナは木片を見せながら言った。


「白布ではありません。けれど、迷った夜に裏口まで来てよい目印です。待つ夜だと分かって来てください」


 洗い場女は少し驚き、それから指先で木片の角をなぞった。期待で膨らむ顔ではない。けれど、完全に閉ざされた顔でもない。その違いだけで、フィオナはこの札の意味を確かめられた気がした。


 ミアは帳場で札を見て、待機椅子の数と照らし合わせた。


「白布みたいに人は増やさないけど、来る前の迷いは減らせますね」


「減らしすぎても困ります」


 サラがすぐ釘を刺す。


「待ち札は、待てる人にだけ」


 その線も必要だった。寝台が要る人へ待ち札を渡すのは危ない。だから札そのものより、誰へ渡すかの方が重要になる。


 ルド婆さんは木片へ小さな布袋を作って持たせた。汚れにくく、見失いにくいように。大げさではないが、こういう半歩の工夫が宿の外では効く。


 待ち札は希望を大きく見せるための物ではない。白布の外に置かれた、もうひとつの細い入口だ。白布を持たない相手にも、来る前に一度呼吸を整える理由を残す。その小ささが、今の朝霧亭にはちょうどよかった。


 待ち札は白布ほどの強い印ではない。だからこそ、持つ相手の顔を思い出せる範囲でしか渡してはいけないとフィオナは思った。広く配れば、また噂だけが先に歩く。木片の軽さは、そのまま責任の軽さにはならない。


 洗い場女が札を布袋へしまう手つきは、白布を見た時のような高ぶりではなかった。待つ夜だと分かったうえで、来るかどうかを決めるための手つきだ。その落ち着きがあるだけで、裏口へ着いた時の息の荒さまで違って見える。


 サラは待ち札を増やす気はないと最初から釘を刺した。少ないまま残すための札だと、宿の側が忘れないためだ。別経路を作ることは優しさだが、優しさは数を増やした瞬間にすぐ重さへ変わる。その感覚を皆で持てたのは大きかった。


 待ち札は強い救いではない。けれど、完全に持たないまま夜へ戻されるよりはずっといい。その半歩の違いがあるだけで、白布を持たない相手の足取りまで少し変わるのだとフィオナは感じた。


 白布がない夜にも、迷いの手前で思い出せる札がある。その差は小さくても確かだった。


 待ち札は宿の名を広げる札ではなく、広げすぎないための札でもある。そこまで含めて持たせる印だとフィオナは感じていた。


 細い札でも、無いよりずっと残る。

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