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第71話 白布を渡さない相手

 灯りを出すことより、渡さないと決める方が、名の広がった宿にはずっと痛い。


 白布を出す相手を絞る話になった時、最初に困ったのは顔馴染みの境界だった。御者宿の女将エダ、神殿帰りのレナ、その先はいい。だが最近噂を聞いて来るようになった洗い場の集まりや、御者宿の手伝い仲間たちはどうするのか。助けたい相手ほど、印を渡したくなる。


 その夕方、細道の角で一人の若い洗い場女が立ち止まった。前に一度、灰布の夜に白湯だけで帰した娘だ。顔は覚えている。けれど、白布の意味を持たせる相手としてはまだ浅い。毎晩見に来られる距離にいて、噂も追いやすいからだ。


「今日は白ですか」


 期待の混じった声に、フィオナはすぐ答えられなかった。白布を見せれば今夜は来るだろう。だが、それが続けば噂はまた広がる。宿を守るために宛先を絞るなら、ここで曖昧に頷くわけにはいかない。


「合図は、連携している相手にだけ渡しています」


 自分でも冷たい声だと思った。洗い場女の肩が少し固くなる。責める目ではない。傷ついた目だった。それがいちばん痛い。


 フィオナは続けた。


「あなたを拒むためじゃありません。見える範囲を絞らないと、また裏口が詰まります」


 言い訳ではなく事実だ。だが事実でも、届く時には刃のようになる。洗い場女は少し黙り、それから小さく頷いた。


「じゃあ、来る前に決められない夜もありますね」


「あります」


 そのやり取りをそばで聞いていたユナは、あとで帳場へ戻ってから長く息を吐いた。栗色の三つ編みを握る手に力が入っている。


「印を渡さないって、断るより残りますね」


 その通りだった。宿の中で順を決めるより、入口の手前で印そのものを持たせない方が、相手の記憶に残る。だからこそ、そこへ理由と別の道筋が必要になる。


 フィオナは洗い場女へ、御者宿の三呼吸椅子と、灰布の夜でも来てよい条件だけを口で伝えた。白布は渡さない。だが完全には切らない。その細い線を保つのが、今の朝霧亭には必要だった。


 夜、ルド婆さんは香草を包みながら低く言った。


「みんなに同じ印を渡せないのは、意地悪だからじゃない。印が潰れたら、困るのは本当に今夜危ない人だよ」


 その言葉で少しだけ胸が軽くなった。選別は気分でしているのではない。助けの印を残すためにしている。そう言えるところまで、自分たちは来たのだ。


 白布を渡さない相手が出た夜、朝霧亭の名は少しだけ狭まったように感じた。けれど、その狭さがあるからこそ、本当に必要な夜に灯りを消さずに済む。フィオナはその痛みごと、次の基準として持つしかなかった。


 白布を渡さないと決めた瞬間、朝霧亭は少しだけ小さく見える。けれど、その小ささを受け入れないままでは、本当に危ない夜の灯りまで薄くなる。広く見せることより、残せることを優先するのが今の宿の仕事だった。


 洗い場女の背中が細道の角で見えなくなるまで、フィオナはしばらく立ったままだった。冷たい夜気が袖へ入り込んでも、すぐには戻れない。印を渡さない痛みを引き受けることもまた、名を持った宿の責任なのだと体が覚え始めていた。


 印を持たないままでも来てよい条件を残しておく。その細い逃げ道まで含めて伝えることが、白布を持たせない夜の最低限の誠実さだった。


 渡さないと決めたあとに残る沈黙まで、宿は引き受けなければならない。灯りの宛先を絞るとは、相手の寂しさを見ないふりしないことでもあった。


 その痛みを曖昧にしなかったこと自体が、白布を守るための小さな誠実さでもあった。

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