第6話 眠れない御者
三番客室の戸を開けた瞬間、革と冷えた汗の匂いがした。
御者の男は寝台に腰掛けたまま、靴も脱がずに窓の方を見ていた。年は三十前後だろうか。肩幅のある体つきなのに、いまは背中だけが妙に狭く見える。眠れていない人間は、身体を広く使えない。
「失礼します」
フィオナが声をかけると、男は振り返った。目は赤く、下瞼が腫れている。だが酒ではない。酒で眠れなくなった顔とは違う。頭だけが先に疲れて、身体が追いついていない時の顔だった。
「宿の者です」
そう名乗ると、男は短くうなずいた。
「別に何も頼んでねえよ」
「眠れていないようでしたので」
言った途端、男の眉が寄る。余計なお世話だと返されるかと思ったが、彼は口をつぐんだまま窓の方へ視線を戻した。怒る元気も薄いのかもしれない。
部屋の中を見れば、原因は少しずつ分かる。窓は閉められているが、隙間風はある。寝台脇の灯りは消した跡がなく、香草袋は強い香りのものが開き切っていた。荷袋の口が開いたままで、手綱を巻いた革紐が見えている。すぐ出るつもりでいる部屋だ。
「街道、荒れていましたか」
フィオナが聞くと、男はようやくこちらを見た。
「……雪解けの泥でな」
「車輪を取られましたか」
「半日」
短い答えだった。だが、その半日で足りる。遅れが出た。予定が崩れた。宿で休むはずが、明朝すぐ出なければ取り戻せないと思っている。眠れない原因は寝台そのものだけではなく、明日の遅れの計算が頭から離れないことだ。
「今夜は出られません」
「分かってる」
「分かっていても、身体が止まらないんですね」
男は少しだけ笑った。笑ったというより、息が漏れた。
「宿の嬢ちゃんに、そこまで見透かされるとは思わなかった」
フィオナは部屋へ一歩だけ入る。勝手に近づきすぎない。相手が追い詰められている時ほど、距離の詰め方は大事だ。
「眠れない原因が一つなら、寝具だけで何とかなります。でも今は、部屋の冷えと、香草の強さと、頭の中の焦りが一緒です」
「焦るなって言われて焦りが消えたら苦労しねえ」
「はい」
フィオナは素直に頷いた。
「なので、焦りを消すのではなく、焦ったままでも眠れる形にしたいです」
男は少し黙った。神殿で言えば、こういう時はもっと立派な言葉が求められたのかもしれない。安らぎを、救いを、祝福を。けれど、今のフィオナにできるのは大きな言葉ではない。部屋の中で少しだけ条件を変えることだけだ。
「灯りを一つ落とします。香草も弱いものに替えます。あと、荷袋は見えるところから外した方がいいです」
「荷袋?」
「明日出ることを、目がずっと思い出してしまうので」
男はそこで初めて、荷袋の方を見た。革紐が見えているだけなのに、その視線には苛立ちが混ざる。自分でも薄々分かっていたのだろう。
「……そこまでか」
「たぶん」
フィオナは灯りの蓋を少し閉じ、香草袋を結び直す。窓際の寝台を壁寄りに少しだけずらし、足元へ薄い布を足した。どれも大仕事ではない。だが、眠れない人間ほど、こういう小さな刺激に身体を引っ張られる。
「湯を少し持ってきます」
「酒じゃなくてか」
「酒だと、起きたあとが重いです」
男は鼻を鳴らしたが、反対はしなかった。
湯を取りに戻る廊下で、サラが待っていた。
「どうだ」
「熱ではありません。出発の遅れと冷えです」
「分かりやすい客で助かる」
「でも明日の朝、まだ眠れていなかったら危ないです」
サラはうなずく。
「馬を出す側が一人崩れると、荷も遅れる。荷が遅れると、街道の向こうでまた誰かが困る」
そういう言い方をするのが、フィオナには少しだけ新鮮だった。神殿では、困るのはいつも祈りを受ける側としてしか語られなかった。ここでは働く側の一人が崩れるだけで、客も、荷も、街道の先も動かなくなる。
湯を持って戻ると、御者の男はさっきより肩を下げていた。眠くなったというより、眠れないまま戦う姿勢が少し崩れたのだろう。フィオナはそれで十分だと思った。眠りは一瞬で訪れる奇跡ではなく、崩さないための整え方の積み重ねだ。
「名前、聞いても?」
男が湯呑みを受け取りながら言った。
「フィオナです」
「俺はベルト」
名乗り合うだけで、部屋の空気が少し変わる。宿で働く者と客。だが今夜だけは、それより前に「眠れない者を見つけた人」と「眠れないまま明日を迎えたくない人」だった。
部屋を出る時、ベルトの手はさっきより湯呑みをしっかり持てていた。
廊下へ戻ったフィオナは、自分の胸の奥がわずかに軽くなっているのに気づく。救えた、というには小さすぎる。けれど、朝まで持たせることはできるかもしれない。そう思える手応えが、神殿にいた頃よりずっと近くにあった。




