表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/101

第6話 眠れない御者  

 三番客室の戸を開けた瞬間、革と冷えた汗の匂いがした。


 御者の男は寝台に腰掛けたまま、靴も脱がずに窓の方を見ていた。年は三十前後だろうか。肩幅のある体つきなのに、いまは背中だけが妙に狭く見える。眠れていない人間は、身体を広く使えない。


「失礼します」


 フィオナが声をかけると、男は振り返った。目は赤く、下瞼が腫れている。だが酒ではない。酒で眠れなくなった顔とは違う。頭だけが先に疲れて、身体が追いついていない時の顔だった。


「宿の者です」


 そう名乗ると、男は短くうなずいた。


「別に何も頼んでねえよ」


「眠れていないようでしたので」


 言った途端、男の眉が寄る。余計なお世話だと返されるかと思ったが、彼は口をつぐんだまま窓の方へ視線を戻した。怒る元気も薄いのかもしれない。


 部屋の中を見れば、原因は少しずつ分かる。窓は閉められているが、隙間風はある。寝台脇の灯りは消した跡がなく、香草袋は強い香りのものが開き切っていた。荷袋の口が開いたままで、手綱を巻いた革紐が見えている。すぐ出るつもりでいる部屋だ。


「街道、荒れていましたか」


 フィオナが聞くと、男はようやくこちらを見た。


「……雪解けの泥でな」


「車輪を取られましたか」


「半日」


 短い答えだった。だが、その半日で足りる。遅れが出た。予定が崩れた。宿で休むはずが、明朝すぐ出なければ取り戻せないと思っている。眠れない原因は寝台そのものだけではなく、明日の遅れの計算が頭から離れないことだ。


「今夜は出られません」


「分かってる」


「分かっていても、身体が止まらないんですね」


 男は少しだけ笑った。笑ったというより、息が漏れた。


「宿の嬢ちゃんに、そこまで見透かされるとは思わなかった」


 フィオナは部屋へ一歩だけ入る。勝手に近づきすぎない。相手が追い詰められている時ほど、距離の詰め方は大事だ。


「眠れない原因が一つなら、寝具だけで何とかなります。でも今は、部屋の冷えと、香草の強さと、頭の中の焦りが一緒です」


「焦るなって言われて焦りが消えたら苦労しねえ」


「はい」


 フィオナは素直に頷いた。


「なので、焦りを消すのではなく、焦ったままでも眠れる形にしたいです」


 男は少し黙った。神殿で言えば、こういう時はもっと立派な言葉が求められたのかもしれない。安らぎを、救いを、祝福を。けれど、今のフィオナにできるのは大きな言葉ではない。部屋の中で少しだけ条件を変えることだけだ。


「灯りを一つ落とします。香草も弱いものに替えます。あと、荷袋は見えるところから外した方がいいです」


「荷袋?」


「明日出ることを、目がずっと思い出してしまうので」


 男はそこで初めて、荷袋の方を見た。革紐が見えているだけなのに、その視線には苛立ちが混ざる。自分でも薄々分かっていたのだろう。


「……そこまでか」


「たぶん」


 フィオナは灯りの蓋を少し閉じ、香草袋を結び直す。窓際の寝台を壁寄りに少しだけずらし、足元へ薄い布を足した。どれも大仕事ではない。だが、眠れない人間ほど、こういう小さな刺激に身体を引っ張られる。


「湯を少し持ってきます」


「酒じゃなくてか」


「酒だと、起きたあとが重いです」


 男は鼻を鳴らしたが、反対はしなかった。


 湯を取りに戻る廊下で、サラが待っていた。


「どうだ」


「熱ではありません。出発の遅れと冷えです」


「分かりやすい客で助かる」


「でも明日の朝、まだ眠れていなかったら危ないです」


 サラはうなずく。


「馬を出す側が一人崩れると、荷も遅れる。荷が遅れると、街道の向こうでまた誰かが困る」


 そういう言い方をするのが、フィオナには少しだけ新鮮だった。神殿では、困るのはいつも祈りを受ける側としてしか語られなかった。ここでは働く側の一人が崩れるだけで、客も、荷も、街道の先も動かなくなる。


 湯を持って戻ると、御者の男はさっきより肩を下げていた。眠くなったというより、眠れないまま戦う姿勢が少し崩れたのだろう。フィオナはそれで十分だと思った。眠りは一瞬で訪れる奇跡ではなく、崩さないための整え方の積み重ねだ。


「名前、聞いても?」


 男が湯呑みを受け取りながら言った。


「フィオナです」


「俺はベルト」


 名乗り合うだけで、部屋の空気が少し変わる。宿で働く者と客。だが今夜だけは、それより前に「眠れない者を見つけた人」と「眠れないまま明日を迎えたくない人」だった。


 部屋を出る時、ベルトの手はさっきより湯呑みをしっかり持てていた。


 廊下へ戻ったフィオナは、自分の胸の奥がわずかに軽くなっているのに気づく。救えた、というには小さすぎる。けれど、朝まで持たせることはできるかもしれない。そう思える手応えが、神殿にいた頃よりずっと近くにあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ