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第65話 先に預ける椅子

 宿へ辿り着く前の数歩を支えられなければ、裏口での見立ても間に合わない夜がある。


 白布の誤読があった翌朝、フィオナは再び御者宿へ向かった。今度は湯気ではなく、小さな座布と足台代わりの木箱を持っている。椅子を一脚置くだけで足りるのか、自分の目で確かめたかった。


 御者宿の壁際には、昨日エダが貸すと言った背凭れ椅子が置かれていた。だが実際に座ってみると、足がぶらつく。冷えた脚を預けるには高すぎるし、壁の隙間から入る風が腰へ当たる。少し休ませる場所にも、休みやすい形があるのだとすぐに分かった。


 エダは腕を組み、忙しい合間に様子を見ていた。赤茶けた髪の後れ毛が額へ張りついている。


「座るだけなら誰でもできると思ってたかい」


「少しだけ」


 フィオナは正直に答えた。


「でも、足を落ち着かせる場所がないと、座っても呼吸が戻りません」


 そこで木箱を裏返し、椅子の前へ置く。さらに座布を背に当てると、腰の力が抜けやすくなった。大仰な工夫ではない。だが、こういう半歩の違いで持ち直せる人がいるのをフィオナは知っている。


 ちょうどそこへ、朝の荷下ろしを終えた若い御者が入ってきた。顔色は悪くないが、肩が固く上がっている。試しに椅子へ座ってもらうと、足台へ踵を乗せた途端、息の落ちる速さが変わった。


「なんだこれ」


 御者は驚いたように笑い、肩を一度大きく下げた。笑えるうちはまだ軽い。だからこそ、朝霧亭まで引っ張らずにここで戻せるなら価値がある。


 ただし、その価値は御者宿の負担の上に立つ。椅子ひとつ増えれば通り道は狭くなるし、白湯を一杯余分に沸かせば他の仕事が遅れる。エダはそれをすぐ口にした。


「うちはうちで、朝の客を回さなきゃいけない」


 当然だった。朝霧亭の都合で善意を食い潰してはいけない。フィオナは椅子の横へ小さな札を掛けた。


「三呼吸まで」


 長居の椅子ではなく、崩れる前に踏みとどまる椅子だと分かるようにするためだ。白湯も半椀まで。足台も一人ずつ。御者宿が受ける負担を小さく切らなければ、連携は続かない。


 エダは札を読んで、ようやく少し笑った。


「宿の外でも、あんたは順番を作るんだね」


 フィオナはそこでやっと、自分がしていることの形を理解した。助けを広げているというより、崩れ方を小さく区切っているのだ。一度に全部を背負わないために、椅子ひとつ、半椀ひとつ、三呼吸だけを先に預ける。


 戻ったあと、ミアはその話を聞いて目を丸くした。待機椅子を守ってきた彼女には、その工夫の意味がすぐ伝わったらしい。


「宿まで来る前に、椅子があるんですね」


「同じ椅子じゃありません」


 フィオナは首を振る。


「でも、ここで全部を受けなくていい夜が増えます」


 湯場の桶を運ぶ手が、その言葉で少しだけ軽くなる気がした。朝霧亭の椅子だけで街の疲れを受けるのは無理だ。ならば椅子の考え方を外へ渡す。その小ささが、今はちょうどいい。


 夜の板には新しくこう書かれた。


「外部椅子: 三呼吸、半椀、長居させない」


 外へ渡した工夫も、宿の基準へ戻して残す。その往復が始まったことで、朝霧亭の連携は思いつきではなく運用に変わり始めていた。


 椅子ひとつを外へ預けるだけで、朝霧亭の中の待機椅子まで少し意味が変わる。ここへ辿り着いた人は、もう一段深い休みを受ける人になるからだ。外の椅子と中の椅子が別の役目を持つようになれば、宿の中の判断もまた少し早くなる。


 エダの御者宿が請け負うのは、善意ではなく短い区切りだ。その短さを守る工夫まで一緒に渡さなければ、連携はすぐに潰れる。フィオナは外へ何かを頼むたび、相手の仕事を減らさずに済む形まで考えなければならないと肝に銘じた。

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