第63話 御者宿へ渡す湯気
宿の中だけで整えた基準は、外へ渡す言葉を持たなければ、次の夜にまた裏口へ詰まる。
その朝、フィオナは小さな香草包みとまだ温かい湯気の残る水筒を抱え、街道沿いの御者宿へ向かった。朝霧亭へ人が来る前に、ひと息だけ持ち直せる場所を作れないか。その相談のためだった。裏口の中でばかり工夫を重ねても、来る途中で倒れる人には届かない。
御者宿の帳場には、煤けた梁の下で女将のエダが立っていた。赤茶けた髪を後ろで丸め、腕まくりの跡がまだ白く残っている。声の太い人で、忙しい朝でも相手を見下ろさない。
「眠れる宿の子が、こんな朝から何の用だい」
からかい半分の言い方だったが、目は仕事の話を聞く目だった。フィオナは水筒を差し出し、白湯と香草包みの使い方を短く説明した。
「宿まで歩けない夜が増えています。ここで少しだけ座って、呼吸を戻してから来られれば」
エダはすぐには頷かなかった。御者宿も楽ではない。荷馬車の泥、朝の食事、泊まり客の出立で床はひっきりなしに鳴る。その中へ、朝霧亭へ向かう前の疲れた働き手を受ける余裕があるかどうか。ためらうのは当然だった。
「座らせるだけでも、椅子は取られるよ」
「分かっています」
フィオナは言った。
「寝かせてほしいわけではないんです。冷えた手を温めて、息が戻るまで待てる場所が少しあれば」
そこへユナも遅れて駆け込んできた。栗色の三つ編みを揺らし、息を切らしながら帳面を開く。
「朝霧亭で聞いている順を、ここでは全部やる必要はありません。帰り道がひとりか、足が冷えすぎていないか、それだけでも違います」
御者宿の若い手伝いがその言葉に反応した。桶を抱えたまま立ち止まり、自分も昨夜の帰りに膝が笑ったとぼそりと言う。街道沿いでは、眠れないのは客だけではない。支える側が先に崩れるのはどこも同じだった。
エダは水筒の蓋を開け、立ちのぼる湯気を鼻先で確かめた。
「うちが朝霧亭の前座になるってことかい」
「前座ではなく、途中です」
フィオナは首を振る。
「ここで戻れたら、そのまま帰っていい夜もあります。宿まで来ない方がいい人もいます」
その線引きを口にした時、自分でも少し驚いた。今までは、来た人をどう受けるかが中心だった。けれど外へ基準を渡すなら、来ない方がいい夜を含めて言葉にしなければならない。
エダはしばらく黙り、それから古い背凭れ椅子を一脚引いてみせた。脚は少し軋むが、壁際に置けば風は当たりにくい。
「一脚だけだよ。長居はさせない。白湯は朝の仕込みに響かない範囲」
それでも十分だった。フィオナは胸の奥が少しほどけるのを感じた。宿の外に、朝霧亭のやり方をそのまま置くのではない。御者宿の都合の中で、渡せる分だけ渡す。その加減を覚えるのが次の仕事なのだ。
戻る道で、湯気の冷めかけた水筒は軽くなっていた。だが足取りは少しだけ軽い。宿へ抱え込むしかなかった夜の手前に、別の手がひとつ増えたからだ。
サラは報告を聞き終えると、黒髪を耳へ掛け直して短く言った。
「受ける場所じゃなく、渡す場所ができたのは大きい」
その一言で、フィオナはようやく理解した。第二部中盤で作るべきなのは、朝霧亭を大きくすることではない。崩れる人が一気に一か所へ寄らずに済むよう、途中で受け渡す細い手を増やすことなのだと。
夕方の湯場で立つ湯気はいつも通りだった。けれど今夜からは、その湯気の一部が宿の外でも人を繋ぐ。朝霧亭の仕事は裏口だけのものではなくなり始めていた。
御者宿へ渡したのは物だけではなかった。泊める前に少し戻す、来ない方がいい夜もある、途中で受ける手がある。その考え方を外の口で言える形にしたこと自体が、今までの朝霧亭にはなかった仕事だった。




