第60話 神殿で先に消える手
崩れる場所を知るには、追い出された側の記憶より、まだ中にいる者の疲れ方を見る方が早いことがある。
短い寝台でひと晩休んだレナは、その夕方も裏口へ来た。泊まりではない。包みを受け取り、少しだけ座って帰るためだ。褐色がかった髪は結い直されていたが、耳の横だけ汗でまた張りついている。戻っても何も軽くなっていない顔だった。
フィオナは待機椅子の横で、神殿の中身を少しずつ聞いた。問い詰める形にはしない。あくまで、どこが先に消えるかを知るために。
「いま、一番足りないのは何ですか」
レナは少し考えてから答えた。
「手です」
曖昧なようで、正確な答えだった。人員ではなく、手。つまり見栄えのする役ではなく、運ぶ、洗う、支える、冷まさない、こぼさない、その全部を埋める無名の手が足りていない。
「奇跡を見せる人はまだいます」
レナは白湯の椀を包んだまま続けた。
「でも、その前に寝台を整える人とか、夜に起こす人とか、施療のあとを拭く人が減ってます」
フィオナは息を呑んだ。自分がいた場所の欠け方と、まったく同じだったからだ。大きな役目は残る。小さな手だけが先に削られる。そして最後に、その大きな役目すら立たなくなる。
サラも話を聞いていた。低く束ねた黒髪のまま、帳場の柱へ背を預ける。
「つまり次に来るのは、奇跡を使う人じゃない」
「たぶん」
レナは頷いた。
「夜番、洗い場、施療補助、あとは食事を運ぶ人」
ユナが帳面へそのまま書きつける。仕事の分類として残すためだ。栗色の三つ編みの先が、紙の上で小さく跳ねた。
ルド婆さんは鼻を鳴らす。
「どこも同じだね。目立たない手から先に減る」
だが、同じで済ませてはいけない。朝霧亭は今、その減った手の受け皿にされかけているのだ。
フィオナはレナの手首の荒れを見た。香油の染み、切れた爪の縁、湯でふやけた皮膚。神殿では今も誰かがその手で桶を持ち、夜を回し、明け方に崩れかけている。
「前もって分かる人はいますか」
問いを変えると、レナは少しだけ目を伏せた。
「います。でも、みんな来る前に『このくらい大丈夫』って言います」
その言い方まで想像できた。言葉が小さくなるのは、もう限界が近い人の癖でもある。
サラは板へ新しく一行を足した。
「神殿流入予備群: 夜番、洗い場、施療補助、配膳」
乱暴な言葉だが、予測があるだけで備えは変わる。待機椅子を空けるべき夜、香草包みを多めに作る日、白湯の量を増やす夕方。宿は受け身のままではいられない。
レナは帰り際、裏口の灯りを見上げた。
「ここ、来る前に思い出せるだけでも違うんです」
その一言で、フィオナは次の仕事が見えた。来てから助けるだけでは遅い夜がある。ならば、来る前に思い出せるような印を、宿の外へも置かなければならない。第二部はもう、裏口の中だけの話ではなくなり始めていた。
レナが立ち去ったあとの椅子には、汗の乾いた気配だけが残った。奇跡を使う手ではなく、その前後を支える手から先に消える。そう分かってしまった以上、朝霧亭が備えるべき相手像はもう曖昧ではない。洗い場帰りの指、配膳で熱を浴びた腕、夜番で呼吸の浅くなった胸が、次の波として来る。
物を揃えるだけでは足りない。来る前に迷えるようにし、来た時に順を誤らず、帰す時に明日まで持つ形で返す。その全部を見通す必要があると知って、フィオナは裏口の灯りが少し違う重さを帯び始めたのを感じた。
受け皿になるとは、ただやさしく迎えることではない。どの手が先に切れるかを見越して、崩れ方に名前を与えておくことでもある。その準備がない宿は、優しさの速さだけで潰れていく。




