表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/102

第5話 仮雇いの朝

 翌朝、朝霧亭の裏庭には、洗い終えた布と湯気と、働き手のため息が一緒に溜まっていた。


 夜を越えた後の宿は、静かなようで少しも静かではない。夜番を終えた者がようやく腰を下ろし、朝番へ入る者がまだ眠気を引きずったまま桶を運ぶ。客が目を覚ます前に整えておかなければならないものが多すぎて、誰も一つの仕事だけをしてはいられない。


 フィオナは借りた前掛けの紐を結びながら、そうした人の流れを目で追っていた。蜂蜜色の長い髪は後ろで束ね、袖もまくっている。神殿にいた時より、ずっと動きやすい格好だ。けれど、動きやすいことと居心地がいいことは別だった。自分がここにいていいのか、まだ身体のどこかが確かめ続けている。


「立ってるだけなら、客より先に若女将に怒られるよ」


 ユナが、湯気の向こうから顔を出した。栗色の三つ編みが今日も忙しなく揺れている。


「何をすればいいですか」


「そう聞けるなら、まだまし」


 そう言って、ユナは干し棚の下へ積んであった乾いた布の束を顎で示した。


「まずは寝具の仕分け。客用と働き手用を分ける。間違えると、あとでサラさんが怖い」


「はい」


 布の厚み、縁の縫い方、染みの残り方。フィオナは一枚ずつ手に取りながら、違いを覚えていく。客用は見た目も重視する。働き手用は、少しくたびれていても乾きと温まり方が優先だ。そういう区別は、神殿でも似たところがあった。表の祈祷室に使う布と、施療室の仮寝台へ使う布は違う。だが神殿では、後者の方がいつも不足していた。


「覚えるの、早いね」


 ユナの声に、フィオナは首を振った。


「見分けるだけなら」


「その見分けるだけが、みんな案外できないんだって」


 ユナは笑っていたが、笑いの奥に疲れがある。昨夜よりはましでも、まだ足元が少し浮いて見えた。フィオナはその歩幅と呼吸を見て、無理の残り方を頭に置く。


 そこへサラが裏戸を開けて入ってきた。黒髪をきっちり束ね、朝の冷えた空気まで連れてきたような顔をしている。


「フィオナ」


「はい」


「今夜までは仮雇いだ。客の前で聖女面はするな。宿の手伝いとして動け」


 言い方は厳しいが、断りではない。フィオナは少しだけ息をのみ、それからうなずいた。


「仮雇い、でいいんですか」


「一晩置いてみて、役に立つかは見えた。残すかどうかは、今日と今夜で決める」


 サラにとってはまだ評価の途中なのだろう。だが、途中でも十分だった。追い返されず、仕事を振られる。それだけで昨夜の街道よりずっと足元がある。


「分かりました」


「あと一つ」


 サラは少しだけ声を落とした。


「神殿から、今朝もう一度人が来た。今度は様子見だけだ」


 フィオナの肩が固くなる。


「……そうですか」


「引き渡す気はない。だが向こうが困り始めたのは事実だ」


 その言葉に、安堵と痛みが同時に来る。自分がしていた仕事が軽くなかった証明ではある。けれど、その証明は、誰かが今ちょうど困っている形でしか出てこない。


「朝一番で、施療室の補助が一人へたり込んだらしい」


 サラはそう言い、フィオナの反応を見た。


「洗い場も回りきってないって、使いが口を滑らせた」


 胸の奥がじくりと重くなる。ざまあだとは思えない。思えないまま、だからといって戻りたいとも思わない。その中途半端さが、自分でも少しつらかった。


「今はこっちを見ろ」


 サラが短く言った。


「はい」


「客室の三番に、昨夜から眠れてない御者がいる。熱ではない。だが今日も馬を出すつもりでいる」


 仕事の話へ戻されると、頭が少し静かになる。


「見ます」


「まずは見るだけでいい。手を出すのは、こっちの流れを崩さない範囲だ」


 それは、神殿ではあまりもらえなかった種類の信頼だった。大きな奇跡を期待されるでもなく、役に立たないと切られるでもなく、まずは働きの輪の中で位置を探せと言われている。


 フィオナは布束を置き、裏廊下の先を見た。まだ朝の仕事は山ほどある。御者の眠れなさも、夜番の疲れも、台所の熱気も、全部同じ朝の中に詰まっている。


 仮の雇い方でもいい。今は、ここで朝を持たせる方が先だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ