第5話 仮雇いの朝
翌朝、朝霧亭の裏庭には、洗い終えた布と湯気と、働き手のため息が一緒に溜まっていた。
夜を越えた後の宿は、静かなようで少しも静かではない。夜番を終えた者がようやく腰を下ろし、朝番へ入る者がまだ眠気を引きずったまま桶を運ぶ。客が目を覚ます前に整えておかなければならないものが多すぎて、誰も一つの仕事だけをしてはいられない。
フィオナは借りた前掛けの紐を結びながら、そうした人の流れを目で追っていた。蜂蜜色の長い髪は後ろで束ね、袖もまくっている。神殿にいた時より、ずっと動きやすい格好だ。けれど、動きやすいことと居心地がいいことは別だった。自分がここにいていいのか、まだ身体のどこかが確かめ続けている。
「立ってるだけなら、客より先に若女将に怒られるよ」
ユナが、湯気の向こうから顔を出した。栗色の三つ編みが今日も忙しなく揺れている。
「何をすればいいですか」
「そう聞けるなら、まだまし」
そう言って、ユナは干し棚の下へ積んであった乾いた布の束を顎で示した。
「まずは寝具の仕分け。客用と働き手用を分ける。間違えると、あとでサラさんが怖い」
「はい」
布の厚み、縁の縫い方、染みの残り方。フィオナは一枚ずつ手に取りながら、違いを覚えていく。客用は見た目も重視する。働き手用は、少しくたびれていても乾きと温まり方が優先だ。そういう区別は、神殿でも似たところがあった。表の祈祷室に使う布と、施療室の仮寝台へ使う布は違う。だが神殿では、後者の方がいつも不足していた。
「覚えるの、早いね」
ユナの声に、フィオナは首を振った。
「見分けるだけなら」
「その見分けるだけが、みんな案外できないんだって」
ユナは笑っていたが、笑いの奥に疲れがある。昨夜よりはましでも、まだ足元が少し浮いて見えた。フィオナはその歩幅と呼吸を見て、無理の残り方を頭に置く。
そこへサラが裏戸を開けて入ってきた。黒髪をきっちり束ね、朝の冷えた空気まで連れてきたような顔をしている。
「フィオナ」
「はい」
「今夜までは仮雇いだ。客の前で聖女面はするな。宿の手伝いとして動け」
言い方は厳しいが、断りではない。フィオナは少しだけ息をのみ、それからうなずいた。
「仮雇い、でいいんですか」
「一晩置いてみて、役に立つかは見えた。残すかどうかは、今日と今夜で決める」
サラにとってはまだ評価の途中なのだろう。だが、途中でも十分だった。追い返されず、仕事を振られる。それだけで昨夜の街道よりずっと足元がある。
「分かりました」
「あと一つ」
サラは少しだけ声を落とした。
「神殿から、今朝もう一度人が来た。今度は様子見だけだ」
フィオナの肩が固くなる。
「……そうですか」
「引き渡す気はない。だが向こうが困り始めたのは事実だ」
その言葉に、安堵と痛みが同時に来る。自分がしていた仕事が軽くなかった証明ではある。けれど、その証明は、誰かが今ちょうど困っている形でしか出てこない。
「朝一番で、施療室の補助が一人へたり込んだらしい」
サラはそう言い、フィオナの反応を見た。
「洗い場も回りきってないって、使いが口を滑らせた」
胸の奥がじくりと重くなる。ざまあだとは思えない。思えないまま、だからといって戻りたいとも思わない。その中途半端さが、自分でも少しつらかった。
「今はこっちを見ろ」
サラが短く言った。
「はい」
「客室の三番に、昨夜から眠れてない御者がいる。熱ではない。だが今日も馬を出すつもりでいる」
仕事の話へ戻されると、頭が少し静かになる。
「見ます」
「まずは見るだけでいい。手を出すのは、こっちの流れを崩さない範囲だ」
それは、神殿ではあまりもらえなかった種類の信頼だった。大きな奇跡を期待されるでもなく、役に立たないと切られるでもなく、まずは働きの輪の中で位置を探せと言われている。
フィオナは布束を置き、裏廊下の先を見た。まだ朝の仕事は山ほどある。御者の眠れなさも、夜番の疲れも、台所の熱気も、全部同じ朝の中に詰まっている。
仮の雇い方でもいい。今は、ここで朝を持たせる方が先だった。




