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第56話 最初の波を数える朝

 例外だと思っていた夜が二度三度と続くと、それはもう波として数えなければならなくなる。


 朝、サラは帳場の板へ新しい線を引いた。宿泊、待機、持ち帰り、帰し。四つの欄だ。宿帳の正式な書き方ではない。だが昨夜の裏口を、そのまま記憶に頼っていては次に間に合わない。


 ユナが指先で欄をなぞる。栗色の三つ編みはほどき直す暇がなかったらしく、毛先が少し乱れている。


「二晩で、待機が五人。持ち帰りが四人」


 ミアが白湯の椀を片づけながら口を挟む。


「前は、泊めるか泊めないかだけでしたよね」


「前は宿の名が、ここまで届いていなかった」


 サラの声は平らだった。だが、その平らさの下に寝不足が溜まっているのをフィオナは知っている。黒髪を低く束ねたうなじの辺りが、今朝は少し強張っていた。


 レナは短い寝台から起き上がり、丁寧に毛布を畳んでいた。神殿の手だ。こういう人は、休ませてもすぐ働く形へ戻ろうとする。


「今日は戻るんですか」


 フィオナが訊くと、レナは一瞬黙った。


「戻らないと、残った人が回りません」


 その返答で、波の正体がはっきりした。逃げ出した人が来ているのではない。まだ向こうで働くつもりの人が、一晩持ちこたえるために流れ着いているのだ。つまり、今後も同じ人が戻ってくるし、別の人も来る。


 サラは板の欄へもう一本線を足した。


「神殿」


 出所を数える線だった。御者宿、巡礼、街道仕事、神殿。どこから崩れが来るのかを見なければ、宿の受け方も決まらない。


 ルド婆さんは香草棚の残りを見て、低く唸った。


「包みの減りが早いね」


 それもまた波の形だった。人が増えれば寝台だけではなく、湯も葉も布も減る。第二部は顔の増加だけではなく、物の減り方まで数えなければ進めない。


 フィオナは四つの欄を見ながら、自分の中でも線を引き直していた。泊める。待たせる。持ち帰らせる。帰す。そのどれもが「助ける」の中に入ると決めなければ、この先の判断で毎回ためらう。


「基準を書きます」


 思ったより先に、声が出た。


 サラが顔を上げる。


「書けるかい」


「完璧には無理です。でも、足の冷え、息の浅さ、ひとりで帰れるか、食べられているか、そのくらいは並べられます」


 ユナはすぐに紙を持ってきた。仕事の覚えが早いというより、もう宿の不足を埋める速度で動いている。


「札を渡す基準も要るね」


「待機椅子に座らせる基準も」


 ミアも続ける。


 朝霧亭はこの朝、最初の波を「なんとかした夜」としてではなく、「これから続く負荷」として受け取った。そうしなければ、次の晩もまた場当たりで誰かを切るだけになる。


 外では街道の荷車がもう動き始めていた。神殿へ戻る者、御者宿へ帰る者、ここへ来るかどうか迷う者。看板に名がついたぶんだけ、朝霧亭はもうただ待っているだけでは済まない。


 フィオナは板へ引かれた四つの欄を見つめた。第一部では、眠れる宿の名を得た。第二部では、その名に押し寄せる人をどう受けるかを決めなければならない。小さな救いを続けるための基準を、今度は言葉の形で残す番なのだ。


 帳場の板に引いた四本の線は、まだ仮のものだ。けれど仮でも線があるだけで、昨夜までの迷いは少しだけ他人へ渡せる。フィオナ一人の勘やサラ一人の覚悟で回すのではなく、宿全体で同じ夜を見られるようにする。そのための最初の朝として、第56話の板書は小さいが確かな前進だった。


 サラは最後に板を壁へ立てかけ、今日はこれでいいと言った。よいわけではない。だが、何も残らない朝よりはずっとましだった。ユナもミアも、その板を見れば昨夜の裏口を同じ形で思い出せる。宿の判断を共有する最初の道具ができた以上、次の波はもうただの混乱では終わらない。そこに、第二部を続けるだけの小さな手応えがあった。

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