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第53話 神殿帰りの靴音

 旧職場の崩れは、噂より先に、歩き方で分かることがある。


 その女は、閉門ぎりぎりの裏口へ来た。灰色の巡礼外套を羽織っているのに、裾から覗く靴は神殿の下働きがよく履く固い革だった。泥の付き方も、街道を長く歩いた者のそれではなく、急いで石畳を下りた者の汚れに近い。


 フィオナは戸を開けた瞬間、その靴音で息を止めた。覚えのある音だった。神殿の洗い場と施療補助の間の廊下で、夜更けまで桶を運ぶ時に鳴る、硬くて乾いた音だ。


 女は二十歳を少し越えたくらいに見えた。褐色がかった髪を粗く後ろでまとめ、頬の横だけが汗で張りついている。目の下は黒い。だが熱を出している顔ではない。休めなさを何日も押し込んだ顔だ。


「一晩だけ、座らせてください」


 言葉がそれだけで切れた。願いというより、手順の確認だった。神殿の働き手は、頼み方まで小さくなる。余計な迷惑をかけないように、要求を最小限の形へ削る癖がつくからだ。


 サラは背後から出てきた。


「どこから来た」


「南の神殿です」


 女は視線を落としたまま答える。フィオナの胸の奥で、冷えたものが一つ動いた。自分が追い出された場所から、今度は別の誰かが零れてきたのだ。


「泊まりではなく、少し休めれば」


 その言い方が、かえって切実だった。本当は泊まりたいのだろう。だが、頼む前に諦めることに慣れている。


 フィオナは女の手を見た。指の節が赤く荒れ、手首の内側に香油の薄い染みが残っている。施療補助か、香草の洗い場だ。神殿で一番先に足りなくなるのは、こういう目立たない手だと知っている。


「名前は」


「レナ」


 短い返事だった。嘘ではないが、本名を全部は出していない声だった。


 ユナがそっと椅子を寄せる。サラは少し黙ってから、裏口脇の待機椅子を指した。


「まず座りな。いま空きは作る」


 完全な受け入れではない。だが、追い返しでもなかった。レナは座った瞬間、膝がわずかに震えた。ああ、この人は自分で思っているより限界に近いのだと、フィオナはすぐ分かった。


 白湯を渡すと、レナは両手で椀を包んだまま、ぽつりと漏らした。


「この宿、眠れるって聞いて」


 その言い方は第50話で市場の女が囁いた時と同じだった。避難路の確認としての呼び名が、ついに神殿の内側にまで届いたのだ。


「誰から聞きました」


 フィオナが訊くと、レナは一瞬だけ目を上げた。


「戻らなくなった人から」


 そこでそれ以上は言わなかった。けれど十分だった。神殿の内側でも、もう「朝霧亭へ行け」という線ができ始めている。


 フィオナは胸の奥で古い廊下の匂いを思い出しかけて、それを押し戻した。今は過去を言い当てる場ではない。目の前の女を、今夜どう持たせるかの場だ。


 サラは小さく息を吐く。


「これで分かったね」


「はい」


「波が来る」


 その言い方に、ユナもミアも黙った。レナ一人の問題ではないのだ。これから同じ靴音が何度も裏口へ来る。泊めるか、待たせるか、返すか。その判断は、旧職場への私情より先に実務として積み上がる。


 レナは湯を飲み終えたあとも、椀を離さなかった。温かい物を手から離すと、そのまま倒れてしまいそうな人の持ち方だった。フィオナはその細い指を見ながら、自分が追い出された夜より、今夜の方がずっと怖いと思った。今は追われる側ではなく、受け止める側に立っているからだ。


 レナの靴は戸口で泥を落としたあとも、神殿の廊下の音を少しだけ残していた。フィオナはその乾いた響きを聞きながら、自分の過去が戻ってきたのではなく、過去の崩れがいまの宿へ届き始めたのだと受け止めた。第二部の怖さは、そこからしか始まらない。

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